19 ニーズヘグの悪夢 ――灰燼の秘儀――

「一丁ォ上がりィ……と言いてェが、相手は神話の魔獣だ。こんな簡単にはいかねェよな」


 ミディールの魔導士たちが風の魔術を行使し、辺りの白煙を払う。


 地上に下ろされたユウリスは、言い知れぬ不安を覚えていた。辺りに散らばった≪ニーズヘグ≫の残骸に、もはや脅威は感じない。しかし彼の胸騒ぎは絶えず、それは油断なく銀の棒を構えたチエリも同様だった。


しき鼓動を感じる……ジュジュ、まだなにかあるよ!」


「わかってる! てめェら、油断すんじゃねェぞ!」


 怪物の気配を如実に感じる≪ゲイザー≫と違い、ミディールの魔導士たちは半信半疑だった。


 心臓部である核すらも砕けた≪ニーズヘグ≫の消滅は明らかであり、いったいなにを恐れるというのか?


 相変わらずいちばん高い場所を浮遊しているシルヴィアすら、不可解そうに顔をしかめている。


 その差が、命運を分けた。


 周囲の岩肌から、どくん、と強い鼓動が響く。


 悪寒を覚えたユウリスは、反射的に大地を蹴った。


「ナスカ、空へ!」


 振り向きながら呼びかけたユウリスの頬が、赤い液体に濡れた。地面から生えた黒い針がナスカの胸を貫き、鮮血が舞う――唐突な凶刃は一つではなく、複数。広範囲に突き上がり、無差別に猛威を振るう。とっさに対応した≪ゲイザー≫たちとは裏腹に、地上に降りていたミディールの魔導士たちは半数が黒い針の餌食えじきとなった。


 雄叫びを上げたジュジュが、足元に拳を叩きつける。


ぜろ――!」


 崩壊の波動が連鎖し、大地に無数の亀裂がはしる。


 ゴリアス大渓谷を、大規模な爆発が襲った。しかし岩肌から突き出した無数の凶刃に影響はなく、出現の勢いが衰える気配はない。


 ますます勢いづく脅威を前に、ジュジュがギリッと奥歯を噛みしめた。


「クソッタレ、変わらねェか! チエリ、ミアハの感覚は!?」


「駄目、なにも捉えられない!」


 亀裂の隙間から湧き続ける黒い針が、すでに事切れた魔導士たちを弄ぶように貫き続ける。


 声にならない憤怒ふんどに身を任せ、ユウリスは叫んだ。


「闇祓いの作法に従い――」


 蒼白の光を纏ったユウリスが、腰の剣を抜き放った。銀の刃が一閃、ナスカの胴体を串刺しにした黒い針を打ち砕く。しかし腕に抱いた彼女は、すでに瞳の輝きを失っていた。胸に鼓動はなく、そのまぶたが開くことは二度とない。


「うわああああああああああああああああああああああ‼」


 叫ぶユウリスを嘲笑うかのように、四方八方から黒い凶刃が迫る。その軌跡が彼に届く前に、白い毛並みが飛び込んできた。どこからともなく現れたクラウの爪が、地面から生えた針を根元から叩き折る。


 ――――、――、――…………っ!


 しかし、その様子がおかしい。


 普段の凛々しい雄姿はかげり、無音の狩人とは思えぬ荒い息を吐いている。


「クラウ……?」


 ナスカの遺体を地面に下ろし、ユウリスはおそるおそるクラウの毛並みに触れようとした。その腕を、横から現れたヴィンセントが掴む。


「駄目だ。触っちゃなんねぇ、ユウリス」


「ヴィンセント?」


「毒でやられた。さっき霧で視界が覆われていたとき、俺とクラウも攻撃陣に参加していたんだが……≪ニーズヘグ≫に近づいた途端、急に様子がおかしくなった」


 どうやら≪ニーズヘグ≫の体液に含まれていた毒素が蒸発した際、その空気を吸い込んでしまったらしい――効果は不明だが、体を内側から蝕まれたクラウは体力の大半を失っていた。


 ……、…………。


 極度の疲労に襲われたクラウの意識は、朦朧もうろうと揺らいでいた。なにかがおかしいと感じながら、無意識に後じさる。


「クラウ?」


 その声を聞いたとたん、クラウの胸に黒い感情が噴き上がった。


 目の前にいるユウリスに対し、憎しみの感情が芽生える。


 愛しい相棒が、自分だけを見てくれない。


 そんな嫉妬の火が、抑えきれない悪意となって燃え上がる。


 ――思う通りにならないなら、いっそ殺してしまおうか?


 自らを染め上げるおぞましい獣性の発露に耐え切れず、白狼は後方へ大きく跳躍した。


 いま、彼のそばにはいられない。


 ……、…………っ。


「クラウ、どうしたんだ!?」


 すがるように叫ぶユウリスの声が、虚しく木霊する。


 しかし状況が待ってくれるはずもなく、再び黒い針が襲いかかる――それを二振りの剣で斬り裂いたヴィンセントが、舌打ち混じりに叫んだ。


「ユウリス、俺から離れるな! 毒に耐性がないのは、お前さんもいっしょだってことを忘れるな!」


 ゴリアス大渓谷だいけいこくの惨劇は、さらに続く。


 後続の≪ゲイザー≫たちも参戦しているが、決定的な対抗策は見つからない。


 敵の一方的な攻撃が続く戦場は、言い知れぬ閉塞感に覆われていた。


 破邪の輝きを纏った闇祓いたちも、地上から突き穿つ凶刃をいなすので精一杯だ。


 発生源不明、目的不明、対抗策不明。


 これが≪ニーズヘグ≫のしわざなのか、それすらも判然としない。


 ただ一人、混迷を極める岩場を優雅に散策する者がいる。


 つまらなそうにステッキを揺らしたオーガストの足取りだけは、普段となんら変わりない。


「退け、退け、退け、退け、退け、退け、退け――」


 彼の足元からも黒い針は生えてくるが、その脅威が肉体まで届くことはない。排斥の秘儀が切っ先を逸らし、凶刃は明後日の方向へ伸びていく。


 事切れた魔導士を覗き込んだオーガストは「ふぅむ」と、うなりながら肩をすくめた。


「どうやら皆、女神の御許へ魂を還したらしい。穏やかな死ではないが、神話の魔獣と戦い散ったというほまれはあろう。誠に天晴あっぱれだ。名は知らぬが、吾輩が祈りを捧げよう。さて、諸君。倒れたミディールの魔導士を助けるのは時間の無駄になる。総員、≪ニーズヘグ≫討伐に集中したまえ。無論、これが≪ニーズヘグ≫のしわざであるならばという前提はつくがね」


 オーガストは「とはいえ」と周囲を見渡した。


 すでに黒い針が発生する岩肌はジュジュが破壊を試みているが、効果がない。


 どちらかといえば崩壊の余波で足場が不安定になり、先ほどより歩きにくくなった。


「吾輩も成長した。これを我が師に告げれば、間違いなくタイマン訓練の餌食になっていたことだろう。口は災いの元というが、高貴なる者が口を噤まなければならぬとは嘆かわしい。大口を叩くのであれば、早く状況の改善に努めてほしいものだ。まぁ、いかんせん情報が少なすぎる」


 亀裂からは現在も無数の凶刃が生まれており、途絶える気配はない。


 生き残ったミディールの魔導士たちもいるが、戦力外だろう。


「退け、退け、退け、退け、退け、退け、退け――」


 ミディールの魔導士たちは成す術なく宙をさまよっている。


 倒すべき目標が見えないせいか、“氷焔の魔女”ですら対応を決めあぐねる有様だ。


 問題は、敵の姿が見えないという一点に尽きる。


 すでに≪ニーズヘグ≫は爆散しており、黒い凶刃の発生源が掴めない。


「なんとも不敬だ。吾輩が出向いているというのに、姿すら見せぬとは。この罪をなんと呼ぼうか」


 考え疲れたオーガストは「退け」と繰り返しながら、やがて師であるジュジュの元に辿り着いた。


「我が師よ、これでは埒が明かない。庭に悪い雑草でも生えたようだ。駆除は庭師の仕事であって、吾輩の領分ではない。故に、お手上げた。なにか良い策はないかね?」


「うるせェ、馬鹿野郎! ちったァてめェで考えやがれ、クソッタレが! あぁ、もう、うざってェ!」


 野太い針に拳を叩き込んだジュジュは、視線を走らせた。彼女の目に、オーガストではないもう一人の弟子――キャサリンの姿が映る。彼女は、踊るような身のこなしで黒い針を避けていた。しかし、ただ遊んでいるわけではない。倒れたミディールの魔導士を一人一人覗き込み、その生死を確かめている。


「みんな死んでしまって、可哀想に」


 奔放な発言もキャサリンの一面であることに間違いはないが、人の命を大切に思う慈しみの心も持ち合わせている。死を目の当たりにするたびに祈りを捧げる彼女に、ジュジュの怒声が飛ぶ。


「キャサリン‼」


 呼ばれたキャサリンは、可愛らしい仕草で「あたくし?」と首をかしげた。弟子である彼女の呑気な仕草に苛立ちをつのらせながら、ジュジュが叫ぶ。


「そうだ! てめェだ、キャサリン! もういい、ぜんぶ燃やし尽くせ! ヴィンセントは、ユウリスを頼むぞ! チエリもそっちに回れ!」


 ぎょっと目をいたチエリが、銀の棒を振り回しながらユウリスとヴィンセントの元へ駆ける。鞭を振るっていたキャサリンは、不満げに眉をひそめた。


「でもお師匠、魔導士たちの亡骸なきがらがあるわ」


しかばねはミディールだって燃やすだろうが! 構わねェ、やっちまえ!」


「あたくしが恨まれるのはイヤよ?」


「そういうのはミスランディアに押しつけりゃァいい! オーガスト、秘儀を合わせろ!」


「諦めが肝心だよ、キャサリン。我らの師は、言いだしたら聞きやしないのだから。ワオネルから聞き分けの良さを除けば、きっと師のようになる。見た目は愛玩動物だが、いざそばに置いてみれば鬱陶うっとうしさしか感じない――痛い。なぜ殴るのです、我が師?」


「うるせェ、馬鹿野郎。オーガスト、てめェは三日間耐久タイマン訓練決定だ! キャサリン、さっさとやれ!」


「怒鳴らないでちょうだい。どうなってもあたくし、知らないわよ」


 その場でくるりと舞ったキャサリンの瞳が四方を捉え、片腕にいにしえの紋章が浮かぶ。無防備な彼女を貫こうと無数の凶刃が伸びるが、すかさずオーガストが援護した。


「退け――」


 外側に逸れた無数の黒い針に囲まれて、キャサリンが踊る。赤いドレスの裾がふわりと浮き、流麗な円を描いた。そして指をパチンッと鳴らした彼女が、厚ぼったい唇から妖艶ようえんささやく。


「燃えて――」


 刹那、戦場は火に包まれる。


 轟々と赤い波がうなり、炎の渦が意思を宿しているかのように蠢いた。黒い針はことごとく燃え尽き、新たに芽吹こうとも生まれた瞬間には潰える。事切れたミディールの魔導士たちは灰になり、わずかな草木や居合わせた動物たちも焼かれた。


 踊る高熱が、ゴリアス大渓谷が真っ赤に染める。


 オーガストの唱える排斥はいせきの秘儀がジュジュを、チエリが扱うミアハの技がユウリスとヴィンセントを守り――やがて火は、煤と煙だけを残して消えていく。


 その煉獄を支配するキャサリンが、垂れた目を悲しげに伏せた。


「とても綺麗な送り火だけれど……やっぱりこの力、好きになれないわ」


 愛と諦めの感情で死を撒いた妖艶な女は、その安寧を祈りながら可愛らしく頬を膨らませた。


「あたくし、どうして灰燼かいじんの秘儀なんて選んじゃったのかしら?」


 灰燼の秘儀は、ミスランディアと同じく、瞳を媒介にして生じる炎の技だ。あらゆる存在を焼き払い、燃やし尽くす闇祓いの奥義。この力を極めたキャサリンは、一帯を焦土しょうどに変える。


 どれだけ強い風が吹いても、苦みのある焦げた臭いは離れない。


 岩肌は真っ黒に染まり、空気に混じった煤が生き残った者たちの肌を黒く染める。


 倒れたミディールの魔導士たちは一人残らず灰と化し、すでに骨すらも残っていない。チエリの理力に守られていたユウリスが視線を回すが、ナスカの姿はどこにも見当たらなかった。


 眉間にしわを寄せたヴィンセントが、足元に剣を突き立てる。


「黒い針は消えた、か?」


 刹那、ゴリアス大渓谷を強い揺れが包み込む。


 真っ先にミアハの感覚を解き放ったユウリスとチエリが、ぎょっと目を剥いた。


「チエリ、これは!?」


「≪ニーズヘグ≫ !?」


 新たな≪ニーズヘグ≫ではなく、先ほどと同じ個体だ。


 肉体が爆散し、心臓部である核すらも失ったはずの悪竜が、再び地底から迫りくる。≪ゲイザー≫と魔導士たちが待つゴリアス大渓谷の頂上へ――まるで落ちた星が空へ還ろうとでもしているかのように、その上昇速度はすさまじく、尋常ではない。


 鞭をしならせたキャサリンと、ステッキを構えたオーガストが同時に唱える。


「闇祓いの作法に従い――」

「闇祓いの作法に従い――」


 他の面々が破邪の輝きを纏うのを目にし、ヴィンセントも両手の剣を構えながら叫ぶ。


「闇祓いの作法に従い――」


 ジュジュ、オーガスト、キャサリン、ヴィンセント、チエリ、ユウリス――蒼白の輝きを纏った六人の≪ゲイザー≫が、それぞれの武器を構える。


 上空には生き残った数人の魔導士と、掲げた片腕に膨大な魔力を集める“氷焔ひょうえんの魔女”シルヴィア。


 そして焦げた岩の上に佇むクラウが、己を蝕む悪意に抗いながら牙を剥いた。


 ――――っ!


 白狼の音なき威嚇と共に、煤まみれの岩肌から紫の瘴気がぶわっと舞い上がる。決まった形はなく、しかしおぞましい魔力を秘めた大量の気体――それを目にしたジュジュは、拳を握りしめながら腰を落とした。


「どうやら、こいつも≪ニーズヘグ≫らしいな」


 闇祓いの作法を発現した≪ゲイザー≫の目は、群青に染まる。これは霊力が視覚に作用し、あらゆるまやかしを見破る証左だ。その瞳が、目の前に現れた瘴気の塊に怪物の気配を捉える。


 そこでキャサリンが「あら?」と首をかしげた。


「こっちの≪ニーズヘグ≫にも核があるわね」


 怪物の心臓部である核は、基本的に一つしか存在しない。


 先ほど倒した≪ニーズヘグ≫の核はジュジュが破壊したが、新たに現れた瘴気にも同様に核が存在する。


 しかしチエリとユウリスが感じるかぎり二つは同一の個体であり、分身といっても差し支えない。


 闇祓いたちが呑気に構えてる隙に、気体と化した悪竜から何本もの触手が伸びた。それは黒い鞭のようにしなり、地上と空中の面々に襲いかかる。


 口髭を撫でたオーガストが、芝居がかった仕草でステッキを振るう。


「退け――」


 大地を叩く黒い鞭が、外側に逸れた。


 しかし弾かれた方向にはユウリスとヴィンセントがおり、二人が同時に散開する。


 被害が年若い見習いに及んだことを認めると、オーガストは「失礼」と会釈した。


「ヴィンセント、ユウリスくんをしっかりと守りたまえ」


「この野郎、わざとやってねぇだろうな!?」


 いわれなきそしりに肩をすくめたオーガストは「退け――」と繰り返しながら、瘴気と化した≪ニーズヘグ≫を見据えた。やはり核の鼓動は間違いなく、偽物や幻とは思えない。


「外神の系譜にある≪ラハム≫も分裂の特性を宿すと聞いているが、あれも核は一つだったはず。分身ではないとすれば別個体だが、神話の魔獣は一体しか存在しないのが道理。そもそも我々が相手をしているのは、本当に≪ニーズヘグ≫なのだろうか……どう思います、我が師?」


 水を向けられたジュジュは眼前に迫る黒い鞭を拳で弾き返すと、舌打ち混じりに吐き捨てた。


「こんだけの化け物がよォ、神話の魔獣じゃねェってのは無理があるぜ。悪しき鼓動も間違いないねェ。とりあえずぶっ飛ばしてよォ、細かいことは“教授”かネレニアに調べさせりゃァいいだろうが。つーわけで、いくぞ」


 片腕に古の紋章を発現したジュジュが、ぐっと姿勢を低くする。身に纏う霊力が輝きを増し、彼女の足元から舞い上がった煤が狂ったように渦を巻いた。


「おらァァァァァァァァァァァアアアア‼」


 次の瞬間、ジュジュの姿が宙を舞う。


 岩肌を蹴る音を置き去りにして、空を漂う紫の気体に肉薄――≪ニーズヘグ≫の瘴気が正面から襲いかかるが、≪ゲイザー≫に毒は通じない。雄叫びを上げながら体をひねった彼女は、渾身の大振りで拳を突き放った。


「爆ぜろ――!」


 破壊の秘儀は、実体のない相手にも作用する。


 空を赤く染める爆発が、≪ニーズヘグ≫の瘴気を吹き飛ばした。


 荒れた風に結った二本の髪を揺らしながら、ジュジュが中指を立てる。


「てめェ、油断してんじゃァねェぜ。破壊の秘儀はよォ、あたしちゃんが『在る』って認識したもんを諸共にぶっ飛ばす。そいつはよォ、煙だろうが空気だろうが変わらねェんだぜ。粉微塵に砕けやがれ、蜥蜴野郎トカゲヤロウ!」


 破壊の連鎖が瘴気に伝播し、さらなる爆発が巻き起こる――が、爆発の余波が及ぶ前に、煙の本体は攻撃を受けた部分を切り離した。途切れた焔はしばらく宙を渦巻き、やがて潰える。さらに紫の気体が固形化し、その姿を無数の黒い針に変えた。自由落下の姿勢に入ったジュジュに、数えきれない凶刃の群れが殺到する。


 すかさず援護に入ろうと踏み出したオーガストの足元を、キャサリンの鞭が咎めるように叩いた。


「あたくしたちはお師匠の合図を待てばいいわ」


 キャサリンの言葉通り――本来ならば自由の利かないない状態にあろうと、“闘神”と呼ばれるジュジュの動きに淀みはない。空中で仰向けになった少女が、片腕で空気を叩いた。


「爆ぜろ――!」


 破壊の秘儀が空気の爆発を招き、その余波でジュジュの体が再び高く舞い上がる。軌道を変えた黒い針の群れが追いかけてくるが、それを彼女は獰猛な笑みと共に睨みつけた。


「実体化できんじゃねェか、こらァ。空気ってのはよォ、殴っても手ごたえがなくてつまらねェんだよ。しっかり殴らせろや、おらァ!」


 破壊の秘儀を駆使し、ジュジュが自由自在に宙を踊る。しぶとく動き続ける彼女に、≪ニーズヘグ≫は怒りの矛先を向けた。瘴気と化した悪竜が、くぐもった雄叫びを上げる。


『フシュウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!』


 大空をうねるように駆ける≪ニーズヘグ≫の瘴気が、彼女の周囲に展開する。気体の大半が黒い針となり、逃げ場のない包囲網が完成した――刹那、「よっしゃァ」とジュジュが両腕を広げながら叫んだ。


「総攻撃だ、ぶちかませッ‼」


 真っ先に反応したのはシルヴィアだった。待ちかねたとばかりに、“氷焔の魔女”が溜め込んでいた膨大な魔力を解き放つ。


「――永遠の乙女――

 ――Paradiso dell'innocenza――

 ――     ――」


 気体と化していた≪ニーズヘグ≫が、その魔術によって漏れなく凍りついた。それは浮力を保ったまま落下せず、ゴリアス大渓谷の空を巨大な氷の幕が漂う。この冷たいおりを、瘴気は暴力的な胎動で破壊しようともがいた。しかしシルヴィアの強固な術式が抵抗を許さず、ひび一つ入らない。


 そこに白狼の声なき咆哮と、チエリの雄々しい気合が響き渡る。


 ―――――!


「やぁぁぁぁぁあああああああああああああああ!」


 魔力を込めたクラウの爪とチエリが薙いだ銀の棒が一閃し、凍りついた瘴気の一部を消し去る。


 気体と化した≪ニーズヘグ≫は変幻自在だが、身動きが取れなければ怖くもない。


 さらにミディールの魔導士たちとオーガストが電撃の魔術を放ち、シルヴィアも新たな呪文を唱える。


「――幻想の終焉――

 ――Lupa senese――

 ――     ――」


 シルヴィアの魔術が召喚した巨大な闇の狼が≪ニーズヘグ≫を食らい、思わぬ同類の出現に瞠目したクラウの瞳がぱちくりと瞬く。


 加勢に向かおうとしたユウリスは、ヴィンセントに肩を掴まれた。


「お前さんは駄目だ」


「なんで!?」


「戦いには参加させないって約束だからな。しっかり俺に守られておけ」


 反論しようとしたユウリスだが、その表情からハッと色が消える。


「新しい≪ニーズヘグ≫を感じる! 地底から、次がくる!」

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