17 闇祓いたちの未来

「雨にならないといいけど――」


 呟いた刹那、真横に人の気配が生まれる。ぎょっとしたユウリスが声を上げようとすると、その唇に誰かの人差し指が添えられた。闇の中から姿を浮かべたのは、≪ゲイザー≫のキャサリンだ。


 これまで存在に気がつけなかったのが不思議なほど、派手な格好をしている。


 厚ぼったい唇のルージュと、肩ほどまで伸びた金髪が印象的な美女――彼女は胸元が大きく開いた紅いドレスに、色彩豊かな毛皮のマントを羽織っていた。


「驚かせてごめんなさいね、ユウリスちゃん。でも、いまの接近に気がつくなんてすごいわ。今度、個人的にいろいろ教えてくれないかしら?」


 れた目の奥で、キャサリンの瞳が妖艶ようえんに光る。


 無意識に後じさったユウリスは、「なにか用?」と硬い声で尋ねた。あからさまに性を意識させる彼女は、あまり得意ではない。


「これから≪ニーズヘグ≫を探さないといけない」


「えぇ、でもその前にあなたは、あたくしを手伝わないといけないわ」


「手伝う?」


「体を拭きたいの。周りを見張っていてちょうだい」


「は?」


「四日もお風呂に入れないなんて、あなたも信じられないでしょう。あたくしも出身はブリギットなの。この気持ち、ユウリスちゃんならわかってくれると思うのだけれど」


 入浴の習慣は地域によって異なる。聖王国ダグザをはじめとする多くの国では、数日に一回が基本だ。しかし水資源に恵まれた豊穣国ブリギットや妖精公国オグマでは、その頻度が格段に上がる。


 ユウリスも、故郷にいた頃は毎日のように風呂を楽しんでいた。


 つまりキャサリンの気持ちは痛いほど理解できる。


「まぁ、汗を流せないのは気持ち悪いかもね。ディアン・ケヒトの蒸し風呂も、いまだに慣れない」


「そうなのよ。ディナー・シーがあるんだから、ちゃんとお風呂を作ればいいのにって、あたくしもそう思うわ」


 不満げに頬をふくらませたキャサリンは、その場で毛皮のマントを肩から滑り落とした。さらにまとっていた赤いドレスもはらりと脱ぎ捨て、一糸いっしまとわぬ姿になる。たわわな乳房を見せつけるように組んだ両腕で持ち上げた彼女は、唖然あぜんとするユウリスに構わずくるりと背を向けた。


「服を持ってついてきてちょうだい」


「なんでここで脱ぐんだ!?」


「こうしたら、あなたは断れないでしょう。可愛い坊やは好きだから、いっしょに洗ってあげてもいいのよ?」


「俺は坊やじゃない」


「なら紳士的に振舞ってちょうだい。あたくしは、あなたに頼みごとをしているの」


 軽いめまいを覚えたユウリスは、ひとまず脱ぎ散らかされた彼女の服を拾いあげた。


「やっぱり≪ゲイザー≫って変な人が多い……」


 肩越しに振り向いたキャサリンが「ありがとう、いい子ね」と片目をつむる。そして肉づきのいい臀部でんぶを挑発するように振りながら、暗闇の向こうへ歩きだした。


「こっちよ」


 そのうしろ姿をしかたなく追いかけたユウリスは、闇の先に湯気を見た。岩場の影に焚火があり、水を張った鍋がかけられている。煮立ってはおらず、沸騰しない程度に加減されているようだ。


「勝手に水を使って、ジュジュに叱られない?」


「ミディールの人に魔術で用意してもらったのよ。飲むわけじゃないから十分だわ」


 お湯に布を浸すと、想定よりも熱かったらしい――「火傷やけどしちゃう」とキャサリンがふっくらとした唇をすぼめる。体を拭いはじめた彼女から目を背け、ユウリスは渋々と見張りに徹した。


「俺のこと、からかって楽しい?」


「あら、怒っているの?」


「愉快な気分じゃない」


「ごめんなさい、少し意地悪だったわ」


 まさか素直な謝罪が聞けるとは思わず、ユウリスは顔をしかめた。耳には布が肌にこすれる音と彼女の息遣い、地面に滴る水の音しか聞こえない。


 しばらく無言で体を拭い続けたキャサリンは、やがて「終わったわ」と声をかけてきた。


「せっかくだから、あなたもどう? 布は一枚しかないから、嫌じゃなければ」


「意地悪な貴女の前で裸になれって?」


「あら、あたくしはわきまえた女よ。けれどウルカは好きじゃないの。だから弟子のあなたにちょっかいをかけたのだけれど、後悔しているわ。あなたは紳士だもの。誠実な男性は好きよ」


「ウルカって敵が多いよね」


「あたくしは彼女を嫌っているけれど、味方でもあるのよ。これは女の問題だから、あなたはわからなくていいわ」


 ため息まじりに「わからないよ」と返したユウリスは、けっきょく彼女の誘いに乗ることにした。終わりが見えない山の生活で、体を綺麗にできる機会は逃したくない。


 服を着たキャサリンは、自ら見張りを買って出てくれた。


「あなたに欲情する怪物がいないともかぎらないでしょう?」


 ゴリアス大渓谷の夜は寒さが厳しく、素肌を晒すだけでも震える。この冷たい風に耐えながら裸になろうと考えたキャサリンは、見た目のわがままそうな印象よりも忍耐強いのかもしれない――同胞の≪ゲイザー≫に当たりさわりのない感想を抱きながら、ユウリスは汗と汚れを落とした。


 新しい着替えを用意してくればよかったと思うが、それが高望みであることも理解している。


「ありがとう、キャサリン。おかげでさっぱりした」


「どういたしまして。本当は少しくらいちょっかいをかけようと思ったのよ。でも怖い見張り役がいてできなかったわ」


「え?」


「また今度、二人きりでね」


 眉間にしわを寄せたユウリスの頬に、ちゅっ、と熱いキスをしたキャサリンは、「ばいばい」と手を振って野営地の方角へ消えて行った。掴みどころのない彼女と入れ替わるように、闇に浮かぶ金色の双眸そうぼうがある。


 音もなく現れた白狼は、相棒の彼に非難がましい視線を注いでいた。


「クラウ、違うから」


 気まずそうに口走ったユウリスは、これじゃまるで浮気が見つかった男みたいじゃないか、と自分の情けなさを嘆いた。しかし、それは必ずしも的外れではない。不機嫌そうにつんと鼻先を逸らしたクラウは、相棒を置いてさっさと巨岩のほうへ歩きだしてしまった。


 ――――、――――。


 謝るほかに術がないユウリスが弁明を重ね、さらに白い毛並みを撫で続けると、目的の巨岩に辿り着くまでにクラウはなんとか機嫌を直してくれた。


 山の空気に匂いはなく、味もしない。


 夜を照らす二つの月と星々は厚い雲に覆われ、風の声が耳に鳴りのように木霊する。


 周囲の怪物は日中にジュジュが片づけたと聞いているが、闇を恐れる心の安らぎにはならない。果てのない暗黒世界に取り残されたような気持ちになると、次第に原始的な恐怖が湧いてくる。


「闇祓いも夜に怯える。これは正しい恐怖だってわかってはいるけれど……」


 身を震わせる彼に、白狼がそっと寄り添った。頬をくすぐる尾の悪戯が、孤独を癒してくれる――大きく深呼吸を繰り返したユウリスは、あぐらを掻いてまぶたを閉じた。


 ミアハの感覚と呼ばれる、超常の力に呼びかける。


 自我を意識の世界に溶かした彼は、心の領域を肉体の外へ広げた。


 精神の知覚が空間を超え、ゴリアス大渓谷の一帯を統べる。


 今夜、この場所で収穫が得られなければ明日は移動し、また別の場所で同じ工程を繰り返す手はずだ。


「目立った気配はなし、か」


 ミアハの感覚は発現時こそ集中力を要するが、慣れてしまえば自然体でいられる。肩の力を抜いて頭上を仰ぐと、雲の切れ目からかすかに蒼い月が覗いていた。かたわらで寝そべっていた白狼が顔を上げ、背後を振り返る。つられてユウリスも肩越しにうしろへ視線を向けると、ランタンの明かりが見えた。


 そこにいたのは、仄かな光源を掲げたヴィンセントの姿――火を持っていないほうの手には、水筒と小ぶりな麻袋が揺れている。


「ヴィンセント?」


「よぉ、差し入れをもってきたぜ」


 同じ頃合いで雲が完全に流れ、二つの月が再び世界を照らした。


 彼方に散らばる星々のきらめきが、ゴリアス大渓谷の輪郭りんかくに色を与える。


 夜に浮かぶ厳しくも雄大な自然の景色に、ユウリスは思わず息を呑んだ。そんな彼の隣に、岩場をよじ登ってきたヴィンセントが「よっこらせ」とあぐらを掻く。もう片側にいるクラウは気にした様子もなく、寝そべったまま動く気配もない。


「いい景色だな。化け物退治じゃなけりゃ、酒でも飲みながら人生について語り合いたいところだ」


 白い息を「ふぅっ」と吐きだしたヴィンセントは、ユウリスに水筒と小さな麻袋あさぶくろを渡した。


「麻袋のほうはミディールの焼き菓子かしだ」


「ミディールってことは、魔導士の差し入れ?」


「料理に茶々を入れてきた女からだ」


 それを聞いたユウリスは、彼女の台詞を思い出しながら「あぁ」と相づちを打った。


 ――責任もって、ちゃんと食べられる味にしてね。


 差し入れをくれたということは、満足してくれたらしい。


「あとでお礼を言っておくよ。名前を聞いてくれた?」


「ナスカだ。先に口説くどいてみたが、旦那と娘がいるらしい。諦めるんだな」


「ちなみに口説き文句は?」


「星空を見ながら俺と人生を語り合わないか、だ」


 寄り添う白狼の毛並みを撫でながら、ユウリスは肩を揺らした。


 寒々しい空に、二人の笑い声が木霊する。


 無精ひげを撫でたヴィンセントは、得意げに鼻を鳴らした。


「女を口説くときは、未来を与えるのが鉄則だ。二人がどんな毎日を過ごすかとか、二人でどこに行くかとか、そういうことを想像させる。人生の在り方にまで踏み込めれば、完全に脈ありだな」


「好きだね、人生」


「俺はいつだって人生の始まりと終わりについて考えているからな」


「不老の≪ゲイザー≫なのに?」


「そりゃあ、いつまで≪ゲイザー≫でいるかわからないしな」


「え?」


 虚を突かれたユウリスに、頬杖をついたヴィンセントが「そりゃそうだろう」と唇の端をつり上げる。


 そこで毛皮の外套がいとうが吹き飛ばされそうになるほどの強い風が吹き、耳鳴りのする冷たさが襲われた。遠い場所から流れてくる暗雲が、ゴリアス大渓谷に何度目かの影を落とす。


 のっそりと顔を上げたクラウが、すん、と鼻を動かした。


 ……、…………。


 嗅覚に優れた白狼は雨の匂いを感じ取るが、無音の狩人に語る術はない。


 二人の≪ゲイザー≫は、夜の語らいを続けた。


「≪ゲイザー≫って辞められるの?」


「ん、どうして辞められないと思うんだ?」


「どうしてって……」


 問い返されたユウリスは言葉にきゅうした。


 師のウルカから見聞きするかぎり、真の≪ゲイザー≫は影を失い、同時に不老の肉体を手に入れるという。さらに闇祓いの秘儀と呼ばれる奥義を会得し、≪ウォッチャー≫と呼ばれる怪物と契約を結ぶとも聞かされた。


「≪ゲイザー≫を辞めたら、不老の肉体や闇祓いの奥義は?」


「別に変わらんと思うぞ。例えば仕事を放って遊び惚けていても、力や体質がなくなるわけじゃないだろう」


「誰かに監視されているわけじゃないから、サボっていてもバレない?」


「まぁ、女神様は見ているかもしれんがな」


 夜の支配者たる二つの天体は、トゥアハ・デ・ダナーン大陸を維持する結界の要であるという。ダーナ神教の聖書には蒼白の月は女神ダヌ、薄紅の月は魔神バロールの化身と記されているが、その真偽は定かでない。


 やがて地上を見下ろす二つの月が雲に呑まれると、ヴィンセントが持ち込んだカンテラの明かりが闇に際立つ。


 慎重に言葉を選びながら、ユウリスは問いを重ねた。


「≪ゲイザー≫を辞めるのが自由なら、戻るのも自由ってこと?」


「どうかな。≪ゲイザー≫を名乗るのは勝手だが、ディアン・ケヒトにも仲間意識はある。気まぐれに出たり入ったりする奴を、他の面々が仲間と認めるかは微妙だ」


 言われてみれば当たり前だが、ユウリスは失望している自分に気がついた。≪ゲイザー≫とは、もっと神聖な人々の集まりだと思っていたのかもしれない。それでも彼は物わかりよく「なるほど」と首肯した。


「弟子になったとき、ウルカから悪に落ちた≪ゲイザー≫の末路を聞いた。顔に印を刻まれて、地の果てまで追われるって……そうはならない?」


「刻印が浮かぶようなクソ野郎は外道の中の外道だ。≪ゲイザー≫でなくなることと、≪ゲイザー≫でいられなくなることはまったく違う。ユウリス、商人を知っているか?」


「南部人っぽい肌の色で、たまに広場で物を売っている彼のこと?」


「そうだ。うわさによると彼は、あのミスランディアよりも古い≪ゲイザー≫らしい。だが店を開く以外に仕事をしないせいで、あまり慕われていない。商人と取引する≪ゲイザー≫はいるが、なにか協力を仰がれたとしても率先そっせんして手を貸しはしないだろう」


「ヴィンセントが商人に頼まれごとしたら、どう断るの?」


「いや、俺は相談に乗る」


「どうして?」


「俺のお師匠さまことブラムは、商人の弟子だ。つまり俺は孫弟子にあたる。そういう縁は断れない」


「そういうことなら俺も、商人の頼みは引き受けないといけないかな」


「ん?」


「ブラムには、すごくお世話になった」


 それから二人は、ブラムの話題で盛り上がった。つまらなそうなクラウの機嫌を取り、焼き菓子を摘み、ミアハの感覚が散漫になると瞑想めいそうする――その繰り返し。


 やがて野営地の方角から鈴の音が響いた。


 時を報せる教会の鐘がないかわりに、ミディールの魔術師が独自の計測方法で日替わりを告げる。


 あくびをかみ殺したユウリスは、ふぅ、と息を吐きながら体の力を抜いた。


「もうそんな時間か」


 ちょうど焼き菓子もなくなり、交代で飲んでいた水筒も空になっていた。


 先ほどから空気が湿っており、雲の色もよどんでいる。


 視線をまわしながら「雨になるかな」と漏らすユウリスに、かたわらのクラウが首を縦に振った。


 すると脚に落ちた食べカスを払ったウィンセントが、のっそりと立ち上がる。両腕を目いっぱい伸ばした彼は、大きく息を吸い込んだ。


「うう、寒みぃ。春でもゴリアスは冷えるな。冬なんか想像もできん」


「何百年も生きているのに、冬のゴリアスは知らないんだ?」


「知らないことだらけ、行ったことのない場所だらけさ」


 戸惑うユウリスに、ヴィンセントは片目をつむった。


「わかったつもりになった瞬間、わからないことが増える。だから人生は楽しい」


 無精ひげを撫でたヴィンセントが、闇の先に視線を伸ばす。遠くを見ているようで、実際は近くのなにかを探しているような不思議な眼差し――数百年を生きた≪ゲイザー≫の横顔を、ユウリスはじっと見つめた。


「わからないことを知るために、いつか≪ゲイザー≫を辞めるってこと?」


 迷える若者の問いかけに、ヴィンセントが「いや」と首を横に振る。


「そんなに哲学的な理由じゃない」


「じゃあ、なんで?」


「酒場を開きたいんだよ」


 彼の夢を聞いたユウリスは、驚きよりも疑問を覚えた。影を失った≪ゲイザー≫は酔えない体質になる。酒精を受けつけない店主が酒場を開くというのは、なんとも奇妙な話だ――そんな顔をしていると、ヴィンセントは朗らかにうなずいた。


「俺は酒そのものより、酒を飲むことが好きなんだ」


「意味が……というか違いがわからない。誰かと食事をしたいって感覚?」


「説明が難しいな。食事もいいが、なんたって酒が必要だ。店は閑古鳥でも構わない。ただそういう場所にはいたいって気持ち、わかるか?」


「ごめん、ぜんぜんわからない」


 ますます疑問ばかりが募る回答に、ユウリスは理解を諦めた。しかし質問した手前、中途半端に済ませるのも具合が悪い。


「どんな店か、もう決めている?」


「小さな町の、地元に愛される店」


 間髪入れずに答えたヴィンセントは、芝居がかった仕草で腕を薙いだ。幻想の舞台に上がった役者が、朗々と夢を語る。


「利用するのは町の人間だけじゃない。たまに来る旅人も、家族のように受け入れよう。駆け出しの吟遊詩人ぎんゆうしじんが気軽に歌えて、女や老人も気軽に出入りできれば言うことはない。料理はたいしたことないかもだが、代わりに珍しい酒が揃っている――そんな酒場こそ、俺が思い描く理想の店だ」


 闇祓いという立場からは縁遠い、ありふれた夢――そう感じたユウリスは、自分の中でなにかがズレているのを自覚した。師のウルカが「まだ早い」「≪ゲイザー≫を特別視しすぎている」と言っていた意味が、おぼろげながら見えてくる。


 いまだ影ある若者の葛藤かっとうを知ってか知らずか、ヴィンセントは悠然と微笑んだ。


「いつか地図から完全に空白が消えても、きっと世界のすべてを見るなんて不可能だ。実際に行けるかって話になると、たぶん半分も無理だろう。だが、なにもかも踏破する必要なんてない。自分が望む場所にさえ辿り着ければ、それで十分だろう」


「ヴィンセント、俺は……」


「だが、まあ――」


 屈み込んだヴィンセントが、迷える後輩の黒髪を乱暴に撫でる。嫌がるユウリスの反応を楽しみながら、彼は豪快に笑い声を響かせた。


「好きなだけ悩め。別に今日の目標が、明日には変わっていようが構いやしない」


「≪ゲイザー≫になりたいって気持ちは揺るがない」


「立派だが、囚われすぎるな。たぶんウルカが言いたいのは、そういうことだ」


 曖昧だが、納得もできる――ユウリスは「わかった」と首を縦に動かした。正直に言えば、もう少し話を聞きたいという気持ちもある。しかし彼の口から答えを得ても、それがウルカを納得させる材料になるとも思えなかった。


「付き合ってくれてありがとう、ヴィンセント」


「よせよ、男の礼なんて酒のつまみにもなりゃしねぇ。さて、そろそろチエリが交代に来る時間だろう。俺は一足先に戻って眠らせてもらうぞ」


 鼻の下をくすぐったそうに指でこすりながら、ヴィンセントは白い歯を覗かせた。さらに野営地のほうからは「ユウリスくん、お待たせ!」とチエリの快活な声が聞こえてくる。


 一晩の夜警ナイト・ウォッチが終わりを告げた――その瞬間、ユウリスは喩えようのない不快感に襲われた。


「え?」


 まるで足元が急に崩れ去るような焦燥。


 あるいは逃れられない死が間近に迫る恐怖。


 目の前が真っ暗になり、胃液が込み上げてくる不快感。


 耳鳴りを引き起こす風の音に獰猛どうもうな獣の声が混じるが、それはユウリスにしか聞こえていない。


 異変を知覚しているのはミアハの感覚。


 ゴリアス渓谷の一帯に張り巡らせていた探知の網が、巨大な悪意の胎動を捉える。


「来る……」


 ふらつくように揺れたユウリスの体を、ヴィンセントとクラウが同時に支えた。


「ユウリス!?」


 ――、――――!


 すぐに体勢を立て直したユウリスは「ごめん、大丈夫だ」と応えながらひざを伸ばした。ブーツの底で巨岩を踏みしめながら、大陸の中部と北部を隔てる深い溝へ視線を落とす。びりびりと肌を焼くしびれにさいなまれるが、これはミアハの感覚を辿って伝わる幻痛にすぎない。


 その発生源は深く深く、地の奥底を潜行する巨大な存在。


 意識を研ぎ澄ませるほど、如実に輪郭を帯びていく意志あるなにか。


「ヴィンセント、野営地に連絡を。それから案内役の人たちにも避難するように言ってほしい。クラウは、俺のそばを離れないで」


「つまりお前さん、それは――」


「たぶん≪ニーズヘグ≫を見つけた。かなりでかい」


 そしてユウリスは、これまで師が繰り返してきた言葉の意味を改めて理解した。


しき鼓動を感じる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る