15 ユウリス育成計画

「てめェがユウリスか」


 にらむような目つきのジュジュを前に、ユウリスの背筋がぴんと伸びる。


「あ、はい、そうです……貴女は、ジュジュさん?」


「ウルカに言われてんだろ、いちいちかしこまんな。新米がめられてみやがれ、永遠に半人前扱いだぞ。あたしちゃんの呼び方は、ジュジュでいい。つーかよォ、もっと胸ェ張れや。てめェ、ウルカに啖呵たんか切ってまで≪ゲイザー≫になろうとしてんだろ」


「そのつもり、だけど」


「煮え切れらねェな。んな腑抜ふぬけた返事で≪ゲイザー≫が務まるかよ。いいか、ユウリスよォ。選択ってのは、やるか、やらねェかの二つしかねェ。様子見ってのは、けっきょくやらねェってことだからな。故郷に見切りつけてディアン・ケヒトまで来たんだろうが。日和ひよってんじゃねェぞ、おらァ!」


 初対面の新人が相手だろうと、ジュジュの熱は変わらない。幼い外見からは想像もできない迫力に、ユウリスはすっかり呑まれていた。かろうじてうなずく若者を庇うように、ヴィンセントが口を挟む。


「あんまり怖がらせるなよ、可哀想だろう」


「あん? なんであたしちゃんにビビる必要があんだよ?」


「そんなことより例の件は?」


「なにが、そんなことより、だ。てめェ、ヴィンセントよォ、鈍ってなんじゃねェか? タイマン訓練すっか? あァ?」


「勘弁してくれよ、まったく……」


 それから二人は家を出て行き、外で密談を交わした。屋内に取り残されたユウリスが暇を持て余したのは、木の実を三つほどかじるまで――やがて一人で戻ってきたヴィンセントが、やれやれ、と肩を竦めながら杯に残った酒を飲み干す。


「騒がせて悪かったな。さっきのおチビこそ、ミスランディアと並ぶ最古参の≪ゲイザー≫ジュジュだ」


「昔からいる≪ゲイザー≫って、やっぱり実力もすごいの?」


「必ずしも年齢と実力が比例するわけじゃないが、ジュジュは強い。嘘かまことか、ミスランディアの命滅めいめつの秘儀にも対応できるって話だ」


「命滅の秘儀――そういえば会議でシエンが言っていたけど、どんな力?」


「なんだ、知らんのか。命滅の秘儀は、ディアン・ケヒトが誇る最強の奥義だ。なんと、死ね、と言うだけで相手を殺せる」


「まさか、そんな力があるわけない」


「事実さ。生ある者は命滅の秘儀に逆らえない」


「ジュジュは、そんなミスランディアに勝てるの?」


「ミスランディア曰くな。本人談じゃなく、命滅の秘儀を宿すミスランディア側からの発信だから信憑性しんぴょうせいはある。とはいえ、実際のところはわからん。ディアン・ケヒト七不思議の一つだな」


「七不思議? じゃぁ、他の六つは?」


「おお、気になるよな。よし、聞かせてやろう。まずは割れた食堂の窓硝子――と、酒が切れたな」


 そこでヴィンセントが、酒瓶を逆さまにした。赤い水滴が一滴だけ垂れ、床に染みをつくる。彼は「しょうがねえな」とぼやきながら盛大なため息を吐くと、くいっと玄関へあごを動かした。


「酒が切れた。ユウリス、悪いが取ってきてくれ。古城の貯蔵庫にある」


「俺が行くの?」


「他に誰が行くんだよ。先輩に酒を持ってくるのは、新米の務めだ。誰かに見つかるとおっかねえことになるから、こっそり行けよ」


「そんなことで評判を落とすのは嫌すぎる……せめていっしょに来ない?」


「んなことしたら先輩の威厳いげんってもんが損なわれるだろうが。俺は待ってるから、早く行ってこい。ほら、夜のお城が怖けりゃクラウもついていってくれるだろう」


「別に怖くはない」


 子ども扱いされることに敏感なユウリスは、顔をしかめながらひざを伸ばした。外へ出ると、涼しい風が頬を撫でる。古城に向かって歩きだすと、すぐにクラウが合流した。


「一晩屋根を貸す代わりに、使いっぱしりをしろってさ。クラウは寝ていてもいいよ」


 …………。


 しかしクラウは首を横に振り、ユウリスの手に鼻先を寄せた。じゃれるような相棒の毛並みをくすぐりながら、夜道を歩く。


 ディアン・ケヒトに人工の明かりはないが、満点の星空が闇を和らげていた。耳を澄ませばディナー・シー大瀑布の轟々とした音色が届き、鈴虫の声と草木の合奏が耳に馴染む。


「ここは、いいところだよな」


 都会育ちのユウリスにとって、ディアン・ケヒトの生活は新鮮だった。放浪生活を続けているうちに不便は慣れたが、田舎暮らしというのは趣が違う。ほしいものは手に入らないが、ふとした景色や音に胸が震えるようになった。ウルカ曰く「都会っ子の感傷だ」らしいが、それでも構わないと思う。


「もう一度、人生をやり直そうと思った。誰も自分を知らない場所で、一から新しい一歩を踏み出そうと」


 心配そうに見上げるクラウに、ユウリスは「大丈夫」と微笑んだ。


 ヴィンセントと酒を酌み交わしたおかげか、もう先ほどまでの激情はない。


 他の≪ゲイザー≫に師事すると口にしたウルカへの不義理を、いまさら恥じる。


「ウルカの言うこともわかる」


 死を恐れていないというのは、ただの強がりだ。


 師の言う弱さとは、虚勢を張ることしかできない精神的な脆さだろう。


 しかし、ウルカの指摘を素直に受け入れることはできない。認めてしまえば、それ以上は先に進めなくなってしまう気がする。臆病な心を誤魔化すことでしか、≪ゲイザー≫になる理由が思いつかない。


「それを駄目だと言われてしまったら、俺はここにも居場所がなくなってしまう」


 やがて古城に辿り着くと、門の手前でクラウが足を止めた。じっと割れた窓硝子を眺めていたかと思うと、ふいに白い毛並みが踵を返す。不審に思ったユウリスが「クラウ?」と呼びかけても白狼が振り返ることはなく、その姿は夜の闇に消えていった。


「どうしたんだ?」


 食堂に、人の気配はない。


 一人になったユウリスは、慎重に古城の扉を押した。年季の入った金具が軋む音に心臓を圧迫されながら、わずかに開いた隙間から体を中に滑り込ませる。


 酒が保管されている貯蔵庫は、奥へ続く通路の途中にある部屋だ。


「誰かいる……?」


 貯蔵庫に明かりが見えた。扉は閉まっているが、年季の入った戸板には欠けた部分や穴も多い。


 次いでミアハの感覚が、二つの気配を捉える。


 足音を殺しながら近づくと、女性の声が聞こえてきた。


 さほど会話は盛り上がっていないようだが、強い酒精の臭いが廊下まで漏れている。


 床に葡萄酒ぶどうしゅでもこぼしたのだろうか?


 そんな思いつきを浮かべたユウリスは、隙間からそっと中を覗き込んだ。


 床に座り込み、酒を楽しむ二人の≪ゲイザー≫――その正体は、ウルカとジュジュだった。


「え、なんで、あの二人が?」


 思わず見入ってしまったが、立ち聞きするつもりはない。きびすを返そうとしたユウリスだが、その足を止めたのは「あのクソバカアホ弟子、ぶっ殺してやる!」というウルカの罵声ばせいだった。


 早めに謝っておいたほうがいいだろうか?


 逡巡しゅんじゅんするユウリスに気づくことなく、ウルカは口汚く弟子への悪態を吐き続けていた。手にした葡萄酒のびんは杯を介さずに口元へ運ばれ、唇からこびれた液体が下履したばきと床に赤い染みを広げている。


 対面であぐらをかいているジュジュも、同様の飲み方だ。


「ま、師匠の心を弟子は知らずってな。弟子ってのは当たり前のように導かれようとするくせ、いつか勝手に巣立っちまうからなァ」


「そんなこと許すか! ユウリスは私が育てたんだ! 生きるも死ぬも私が決める! それをあいつ、他の≪ゲイザー≫に師事するだと!? 絶対に許さん! どいつが師匠になるか知らないが、二人とも生まれてきたことを後悔させてやる!」


「そりゃ、新しい師匠のほうはとばっちりじゃねェか……」


「弟子をられたって理由は決闘の正当な理由になるだろう?」


「ミスランディアは強く言えねェだろうな。あいつ、何回か他人の弟子を裏切らせてるからよォ」


「オーガストとキャサリンの弟子がミスランディアに鞍替くらがえしようとした話だな?」


「おうよ。下手にミスランディアが指導したせいで、二人の弟子が師匠を変えたいって言いだしてよォ。ありゃァ、最高に気まずい瞬間だったぜ」


「それからミスランディアは他人の弟子に関わらなくなったらしいな。だが彼女の判断は間違っていない。うちのアホバカウンコ弟子みたいに、ほいほいと誰からも学ぼうとするクソッタレもいる」


「まァ、出来の悪い弟子ほど可愛いもんだ」


「いまは可愛くない!」


 空になった酒瓶を投げ捨てたウルカは、ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らしながら立ち上がった。棚に並んだ酒から適当な一本を抜き、乱暴に栓を抜く。浴びるように白い液体を呑んだ彼女は、げふっ、と息を吐きながら目をつり上げた。


「どこで育て方を間違えたのか、まったくわからない。昔のユウリスは、もう少し愛嬌あいきょうがあった」


「つっても、弟子になって七年も経つんだろ? いまの性格になったのは、てめェの影響じゃねェのか?」


「正確には八年だ。あいつが私みたいに素直なかっこいい戦士なら、さっさと試練に送りだしている!」


「前から思ってたけどよォ、てめェとシエン、オーガストの三人はやたら自己評価が高けェよな……」


「あんなスカし野郎どもといっしょにするな! あぁ、腹が立つ! 決めたぞ、いまからヴィンセントの家を焼き討ちしてやる! 思い知れ、クソったれが!」


「落ち着けって。弟子が壁に当たってんなら、助けるのも師匠の務めだぜ」


「無理だ」


「あん?」


 無言で首を横に振ったウルカは、ぶすっとした表情で床に腰を下ろした。


 ≪ゲイザー≫は、けして酔わない。


 それでも酒を吞むのは、逃げだしたい日常があるからだ。


 普段は胸に押し込めていた憂いを、彼女は濁流だくりゅうのように吐露とろした。


「あいつは過去に囚われている。未来のために生きようとする意思がなければ、生贄の選定は超えられない」


「原因は、七年前の邪竜事変じゃりゅうじへんか?」


 静かに首肯したウルカは、亜麻色の髪をくしゃっと掻いた。


 すべてのはじまりは七年前、豊穣国ブリギットの首都ブリギット市。ある男が企てた復讐劇の結果、古の邪竜が復活し、街は半壊した。しかし事件の黒幕は市民に人気の議員であり、真実が明るみになれば混乱は必至。そこで様々な要因が重なり、偽りの犯人として罪を被ったユウリスは故郷を去った――こうして幕を閉じた邪竜事変だが、失われた命は少なくない。


 正面の皿へ手を伸ばしたジュジュは、「難儀なもんだな」とぼやきながら木の実を口に放り込んだ。


「過去に心が縛られてるってことは、邪竜に知り合いでも殺されたかよ?」


「似たようなものだ。特に仲がよかった子どもの死は、いまだに尾を引いている」


「生贄の試練じゃ、過去の傷と対峙するからなァ。昔の自分なんてありきたりなもんじゃなく、本当に自分が向きあいたくねェもんと戦いをいられる。ユウリスは、無理そうか?」


「過去は過去として、先へ進むために斬り捨てるくらいの気概がユウリスにはまだない。その子ども――サヤが現れても、あいつは刃を向けることすらできないだろう」


「試練のことは教えたのかよ?」


「伝えた。だが本人は大丈夫だというばかりで、なにもしようとしない」


「無意識に逃げてるってわけか。てめェの後悔が死者を亡霊にしているってことに、ユウリス自身は気づいてねェんだろうな」


「私は時間が解決すると思っていた。だがユウリスの心は強くなるどころか危うさを増している」


「そっちの原因は?」


 問われたウルカは、酒瓶を揺らしながら目を細めた。酔えもしない酒を煽り、木の実をかじり、どれだけ暴飲暴食を重ねても気分は晴れない。手の甲に額を預けた彼女が、疲れたように息を吐く。


「たぶん私だ。いまさらだが、近くに置きすぎたような気がする。闇祓いとして成長はしても、人間としての経験が足りない。≪ゲイザー≫を特別視しすぎている」


「なるほどなァ。≪ゲイザー≫が手段じゃなく、目的になっているわけか。たしかによくねェ兆候だ」


「七年前、私は他の選択肢を与えなかった」


「邪竜事変は聞いちゃいるが、あのときは≪ゲイザー≫になることが最適な手段だったんじゃねェか? 保護留置ほごりゅうちで指名手配をまぬがれたって聞いてるぜ?」


「だが他の道も示してやるべきだった」


 悔恨かいこんを漏らしたウルカは目線を足元に落とすと、小刻みに頭を揺らした。


「このままでは、なにかの拍子でしき鼓動に身を任せかねない」


「まさか、いくらなんでも考えすぎだろ」


「心を闇に囚われでもしなければ、私の元を離れるなんて言うはずがない」


「そこ、さっきからこだわるな?」


「こだわるに決まっている! 八年だ! 八年も私好みに育ててきたんだぞ!」


「おい、いま私好みって言ったか?」


「時間だけはあり余っているからな。一から自分に都合のいい男を育てる機会なんて、めったにない。おかげであいつは私に従順だ。料理の味付けも申し分ないし、当然のように家事をする。どれだけ私に殴られても反撃すらしてこない。なにより私をいちばんに考える! どうだ、私が考えた最高の弟子だ!」


「そりゃ、なんつーか……さすがにあたしちゃんもドン引きだぜ」


 気まずそうに頬をかいたジュジュは、ちらりと廊下のほうに視線を寄せた。ヴィンセントから「ユウリスとウルカを仲直りさせてやりたい。協力してくれないか?」と頼まれたのは、遡ること数時間前。企みがうまくいっていれば、扉の隙間からユウリスが聞き耳を立てているはずだ。


 しかし同僚の気遣いなど露知つゆしらず、勢いづいたウルカは意気揚々いきようようと暴露を続けた。


「私に男気がないと馬鹿にしたクソッたれどもを、いつかぎゃふんと言わせてやる! ユウリスは、私の言うことならなんでも聞くんだ! そうなるように調教したはずなのに、師匠を変えるだと!? あぁ、やっぱり我慢できん! いくぞ、ジュジュ! ヴィンセントを血祭りにあげて、クソバカクソクソクソの弟子をディナー・シーに投げ込んでやる! 私に逆らえばどうなるか、その身で思い知れ!」


 いまにも飛び出していきそうなウルカの肩を、ジュジュはとっさに抑え込んだ。


「おい、落ち着けって。明日はゴリアスに行くんだぞ? 前の夜に戦力を二人も減らしてどうすんだよ。てめェ、任務を忘れてんじゃねェだろうな」


 ≪ゲイザー≫は酒に酔わないはずだが、そばかすが浮かぶウルカの顔は真っ赤に染まっていた。呼気が酒臭いのはともかく、どう見ても酩酊状態に見える。顔をしかめたジュジュは、ふと床に転がっている空の小瓶に目を留めた。


「これは、霊薬か……おい、ウルカ。てめェ、なに飲んだ?」


「ん? あぁ、マルガリタの霊薬だ。これを飲めば、酒に酔えるらしい。ふん、だが嘘っぱちだな。私は酔っぱらってなどいない!」


「あぁ、効き目がでるまでに時間がかかるやつか。マルガリタのやつ、余計なもん作りやがって。おら、ウルカ。てめェ、ちょっと水でも飲め。明日に障るぞ!」


「水なんか飲めるか! 酒を持ってこい! さもなきゃ穿つぞ!」


「こいつ、酒癖最悪だな。おい、ユウリス! てめェ、いるんだろ! 出て来い! 介抱は弟子の役目だ! 聞いてんのか、ユウリス! おい、こらァ、返事しやがれ!? ふざけんな! まさかいねェのか!? ありえねェだろ! こいつの世話ァ、あたしちゃんがやんのか!?」


 背中に木霊こだまするジュジュの声は遠く、すでにユウリスは踵を返して歩きだしていた。八年間の修行に従順な弟子を生むための調教要素が含まれていた衝撃は、さほど大きくない。むしろ、そんな気がしていた。


「ウルカらしいっちゃらしいけど」


 思わず吹きだしたユウリスは、安堵したように口元を緩めた。ウルカの意見に対する反論は山のようにあるが、自分のことを考えながら悩んでいてくれたことは素直に嬉しい。もう一度、きちんと話し合おうと思う。


 そこで彼は、ハッと気がついた。


「もしや、こういう考えになるのが調教の成果?」


 しばらく逡巡したのち、ユウリスは思考を放棄した。


 世の中には、知らないほうがいいこともある。


 酒を持って帰れなかったことを報告に戻ると、ヴィンセントの家は暗くなっていた。扉超しに、豪快ないびきが聞こえる。


「寝ている……?」


 あるいは元々、酒を待つつもりはなかったのかもしれない。頼まれたお使い自体が、貯蔵庫でウルカの本音を聞くために仕組まれた芝居だったとしたら――ユウリスは肩をすくめると、胸の内でヴィンセントとジュジュに感謝した。


「帰るか」


 ウルカの家に戻ったユウリスは、朝食の仕込みをはじめた。


 まだ夜は長いが、手間をかけるほど料理はおいしさを増す。干したモームの塊肉を甘辛く煮込み、贅沢に香辛料を使用したスープには鶏肉を入れた。普段は野菜も食べるように促しているが、今回は根菜を少しだけ使うに留める。


「これで機嫌が直ってくれるといいんだけどな」


 翌朝、不機嫌そうに帰ってきたウルカは開口一番、「裏切り者が、まだ息をしているようだな」と物騒なセリフを口走ったが、肉尽くしの料理を前に少しだけ留飲を下げたようだった。やがて蛮族の侵略を思わせる勢いで皿を空にした彼女が、緊張気味のユウリスをジロッと睨みつける。


「おかわり」


 残りの料理を皿に盛りつけたユウリスは、食後に一発殴られ――それが師弟の仲直りとなった。


 しかし、これは現実の光景ではない。


 りし日の記憶だ。


 あるいは過去。


 残滓ざんし


 無。


「意味などない時間」


 つぶやいたユウリスは、暗黒の世界に佇んでいた。


 ふいに三年後の時間が体に舞い戻り、逆雉さかきじの霊薬を思い出す。


「これで終わりか?」


 その疑問に答えを提示するように、闇に浮かぶ輪郭がある。


 向かって左右に、木の扉が二つ。


 片方の新しい扉には『進む』、残る古ぼけた扉には『戻る』とつづられたプレートがかかっている。


「進む、というのはわかるが……」


 この奇妙な追体験の続きへ進む、という意味だろう。


 だが『戻る』は?

 

「もう一度、最初の場面に戻る?」


 仮に戻ったとしても、記憶を持ち越せなければ未来は変えられない。


 そもそも、先ほどまで体験していた過去は幻だ。


 霊薬が映し出す泡沫ほうまつの夢を繰り返すことに、どれほどの意味があるいうのだろう。


「この霊薬を精製したメアリ・メイプルという≪ゲイザー≫は、よほどの変わり者らしい」


 ユウリスは迷わず、きれいな『進む』の扉に手をかけた。


 意味などない時間。


 変わらない過去。


 すべては無為むい


 されど、見届けずにはいられない記憶がある。


 ――たとえ、同じ悲しみを繰り返すとしても。


 運命が再び、彼を夢に沈める。

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