08 フェノーデリー大空洞の冒険 ――百眼のアルゴス――
「
地上から忘れ去られた言葉を吐きながら、小柄な人影が細い坂道を駆けていた。
全身を
「
激走する彼女の背後には、明確な脅威が迫っていた。
しかし振り返ることは許されない。
追跡者は、青緑の巨人だ。
一糸まとわぬ全身には百の目が見開かれており、その視界に映った生物は物言わぬ石となってしまう――
「
なつかしい故郷は、はるか南方ある。それでも彼女は両親と先祖の存在を近くに感じ、古くから脈々と受け継がれる加護を信じていた。
すでに何度か≪アルゴス≫の間合いを詰められているが、気合いと根性で危機を脱している。
この頑強で
「
本を正せば、すべての間違いはフェノーデリー大空洞の地下にある箱舟都市スキーズブラズニルを訪れたことだった。≪アルゴス≫の
昔語りが好きだった祖父の言葉を、彼女は悔しそうに噛みしめた。
――
――
――
言いつけに背いた彼女――ドワーフ族のダニエラは、腹の底から怒りをぶちまけた。
「
しかしダニエラの激情を塗り潰すように、背後から巨人の
思わず振り返りそうになるが、ぐっと堪える。
≪アルゴス≫に、
いま、どれだけ距離が開いているかは足音を頼りにするしかなかった。
歯がゆい思いを抱えながら走り続ける彼女の頭上を、急に大きな影が覆う。
「
嫌な予感に駆られたダニエラは、前方に大きく身を投げた。その背後に、≪アルゴス≫が投擲した巨岩が落下する。轟音と共に弾けた石の
「
幸い上り坂は終わっており、進んできた道を転がって戻る心配はない。
しかし立ち上がろうとしたダニエラはさらなる振動に襲われた。足元から全身を貫く、大きなうねり。
「
悪態をついた彼女は、すぐうしろに≪アルゴス≫の気配を認めた。とうとう百眼の巨人が追いつき、この身を石に変えようとしている――そう思うだけで全身の産毛は怒りに逆立ち、フードに隠れた赤い髪が針のように
ダニエラは、覚悟を決めた。
「
石になった同胞の無念を抱き、せめて一矢報いよう。
勇敢なるドワーフの子として。
マントの下に隠していた手斧を握りしめながら、彼女は雄々しく振り返った。
「
刹那、彼女と≪アルゴス≫を隔てるように岩の板が降り注いだ。振りかぶった斧は目標を見失い、また石化の百眼もドワーフを見失う。
双方が状況を理解する前に、続いて足場が瓦解した。元から脆い地形だったのか、突然の衝撃に耐えられなかったらしい。亀裂が生じた瞬間に石の道が砕け、
しかしダニエラは重力に逆らい、ふわりと上空に浮き上がっていた。
「
まるで見えない力で引っ張られているかのように上昇したダニエラは、やがて平らな地面に降り立った。下層には存在しない≪アフール≫の群れが頭上を飛び交っており、どうやら地上に近い場所であることが窺える。そこに悠然と佇む黒髪の青年――シエンは「やぁ」と
「僕の名はシエン。ディアン・ケヒトの≪ゲイザー≫という自己紹介は、ドワーフに通じるかな?」
「
「参ったな、原始語はわからない。とりあえず、おとなしくしてくれるかな。君が動き回ると、≪アルゴス≫の動きが読めなくなる」
やれやれと肩を竦めるシエンの態度に ダニエラは馬鹿にされているような気分になった。言葉は通じずとも、侮られていることは理解できる。
カッと頭に血が上った彼女は、激情のまま唾を飛ばした。
「
「原始語がわからなくても、なんとなく苛立ちは伝わってくるね。ひょっとして君は、僕に悪口を言っているのかい?」
不思議そうに首をかしげるシエンの態度は、ますますダニエラの怒りに触れた。斧を掲げた彼女が、鼻息を荒くしながら
「
「異種族の意思疎通というのは、つまり――」
冗長な言葉を待たず、ダニエラは岩肌を蹴った。霜が散り、小柄な体が宙を舞う。彼女が振り下ろした斧の軌跡を冷静に見据えながら、シエンは微笑んだ。細い目の奥に秘めた赤茶色の瞳が、怪しく光る。
「示せ――」
唱えたシエンの脳裏に、未来の映像が浮かぶ。斧が己の頭をかち割る瞬間を予見した彼は、その軌道から逃れるように身をひるがえした。ダニエラの攻撃は虚しく宙を裂き、石の地面に突き刺さる。
「
「僕が扱う予見の秘儀は未来を読む。しかし、これは技能であって
斧を構え直したダニエラが再び跳躍するのと同時に、シエンは片腕を払った。ぴんと伸びた人差し指と中指から、不可視の波動が放たれる。目には映らない神秘の力がドワーフを捕え、その姿を宙で
「おとなしくしていてほしいと、そう言ったよ?」
「
「理力は万物に通じ、万象を成す。とはいえ、ずっと使い続けていられるほど燃費のいい技でもない」
さらにシエンは、もう片方の手を振るった。すると突然、そばに転がっていた岩の
「
どうやら岩の橋を破壊した
「
顎を強打したうえに舌も噛んでしまい、悪態も吐きだせない。せめて
「
岩の
女神の使徒たる百眼の巨人と、ディアン・ケヒトが誇る”古き知恵者”。
はたして、勝つのはどちらか?
「お手並み拝見といこうか、ミスランディア」
シエンのつぶやきを、≪アルゴス≫の
『ロォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオウ‼』
下層へ落とされた百眼の巨人は壁にしがみつき、なんとか難を逃れていた。女神から授かった第六感は、いまだにドワーフの気配を捉えて離さない。
岩肌に指を食い込ませながら追跡を再開しようとする≪アルゴス≫の頭上に、ふわりと飛来する姿がある。全身に見開かれた目が一斉に石化の権能を行使するが、行く手を
頭からつま先までをすっぽりと白いローブで覆い隠した“古き知恵者”は、興味深そうにうなずいた。
「ふむ、魔力の波動を感じる。石化の魔眼は、ドワーフ以外にも作用するとみて間違いないようだ。だが素肌を見られねば効果がないとは、どことなく
ローブの袖に隠れた手は、細身の剣を握りしめている。刀身に刻まれた古い紋章は、闇祓いの力に呼応する特殊な文字だ。手首を晒さないよう慎重に武器を構えたミスランディアは、淡々と紡ぐ。
「つまりそなたは、ドワーフのために生まれた怪物ではない。伝承戦争に投入されなんだのは、その権能が味方も巻き込むからであろう。だが
味方の陣営を巻き込む危険があるのならば、最初から石化の魔眼をドワーフに限定すればいい。しかし≪アルゴス≫の権能は他の種族にも作用し、行く手を阻む≪ゲイザー≫にも敵意を向けている。
「魔神の軍勢に対する兵器ではなく、ドワーフに特化した存在でもないのだとしたら……≪アルゴス≫よ。そなたは、なぜ生まれたのか?」
『ロォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオウ‼』
壁をくりぬいた≪アルゴス≫が、岩の塊を投げた。飛来する投擲物をひらりと避けたミスランディアが自在に宙を舞い、フードの奥で不敵に笑う。
「目に映る生物を石に変える魔眼は、たしかに恐ろしい。さりとて知恵なき者が扱えば、いくらでも攻略の手口はある。あるいは、わざと考える力を与えられなんだのか」
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!?』
目標を捕えそこなった百眼の巨人は、再び落下した。頑丈な岩の地面に落ちた≪アルゴス≫が、土煙と共に苦悶の声を上げる。その姿を追いかけるミスランディアは、空中を滑りながら頬を緩ませた。
「ふふ、やはり体が覚えておるな」
たとえ視覚を封じられても、ある程度なら相手の動きが読める。これは特別な魔術や闇祓いの奥義ではなく、単純に修行の
命滅の秘儀という絶対の権能を宿す彼女は、力に
いずれ両目に頼れなくなる日がくるのではないか?
そんな危機感を抱きながらひそかに積んでいた鍛錬が、ここに身を結んだ。≪アルゴス≫の頭上に飛んだ”古き知恵者”が剣を掲げ、魔術を唱える。
「――天地を焦がす灼熱のように――
――Hasta la vista, Baby――
―― ――」
細身の剣がまばゆい光を発した。焼けるような輝きを浴びた≪アルゴス≫は、たまらずに全身の目を閉じてしまう。うめき声を上げながら立ち上がる巨人に、ミスランディアが
「三つの教えを授けよう、百眼の≪アルゴス≫。一つ、見られてはならぬ目なら潰せばよい!」
稲妻のように放たれた刺突が、石化の魔眼を貫いた。刀身の輝きは衰えず、いまだに≪アルゴス≫は
さらにミスランディアは、破邪の
「闇祓いの作法に従い――」
蒼白の光に包まれた彼女の動きは、そこから一気に加速した。
幾重にも奔る刃が、次々と瞼の上から目玉を斬り裂いていく。なにせ魔眼は全身にあるため、どれだけ適当に剣を振るっても目標を外すことはない。痛みに耐えかねた≪アルゴス≫が乱雑に腕を振るうが、ミスランディアは悠々と巨人の攻撃を掻い潜った。
「二つ、視界を塞ぐこともできる。シエン!」
その呼びかけにうなずいたシエンが、理力を行使する。あちらこちらに転がっていた岩石が浮かび上がり、瞬く間に≪アルゴス≫の四方を埋め尽くすと、さらに天井を塞いだ。
巨人の
「――剣の舞に抱かれて眠れ――
――To be, or not to be: that is the question――
―― ――」
空気の塊が無数の針と化し、岩獄の内部に
怒り狂った≪アルゴス≫が壁を粉砕するが、もはや開く瞼はない。
フードと目隠しを外したミスランディアは、その哀れな姿を両目に捉えた。
「死ね――!」
命滅の秘儀が、終わりを告げる。
巨人の体から急速に魔力が失われ、瞳に宿った石化の権能も心臓の鼓動が失われると同時に消え去った。
ぐらりとよろけた≪アルゴス≫が
「三つ、生きているかぎり何者も命滅の秘儀から逃れること
もはや返る声はないが、ミスランディアは思慮深く目を細めた。
「この力、やはり女神の使徒にも有効か」
後輩によいところを見せたいという想いや、ドワーフを助けるという名目に嘘はない。しかし≪アルゴス≫退治を決めた理由は他にもある。
すなわち命滅の秘儀は、女神の使徒に通用するのか?
その答えを得たミスランディアは震える唇を噛みしめると、一拍おいてから白い吐息をのばした。
「命滅の秘儀が、もしもダヌやバロールにすら作用するとしたら……」
あるいは神々も死霊と同じように、命滅の秘儀が及ばない存在なのだろうか?
いや、とミスランディアは首を振る。
命無き者に対する問題を、すでに彼女は解決していた。
「三年前の≪ニーズヘグ≫は、よき試しの場であった」
他の誰にも明かしたことはないが、命滅の秘儀は死霊どころか怨念すらも殺すことができる。
「わしが特別ということはない。そのような思い込みは目を曇らせる」
様々な憶測を重ねながらもミスランディアは、答えを焦ってはならぬ、と自戒した。
トゥアハ・デ・ダナーンの結界が終わる日まで、ゆっくりと考えればいい。
不老の肉体を得た闇祓いは、時間という一点においては神々と同等に有り余っている。
しかし”古き知恵者”の胸騒ぎは消えない。
「イルミンズールの
大陸を覆う結界に、どれほどの猶予が残されているのだろうか?
「ヌアザでは
聖杯探索の旅に出た勇者と聖女は、いずれ
それは時詠みの巫女が測る結界に、終焉の時が近づいている兆しではないか?
「伝承通りに未来の王と黄金竜が現れるとしても、やはり時期尚早に思える。仮にコールブランド大聖堂の石碑に刻まれた事柄が現実になるのであれば、どこかに意図した者がいるはず」
妖精か、魔女か、怪物か、神々か、あるいは
どちらにせよ、気長に待てるほど時はないのかもしれない。
「命滅の秘儀も、一つの力にすぎぬ」
数ある力に優劣はあれども、すべては女神と魔神がもたらした破邪の権能からはじまる。
「その神々にすら闇祓いの作法が通じるとしたら、ダヌとバロールは――」
排除するべきではない可能性を、ミスランディアは苦々しく口にした。
「まさか≪ゲイザー≫に、神殺しをせよというのか?」
刹那、彼女は魂が凍るような悪寒に襲われた。長く
その発生源は、ユウリスたちが出向いたほうではなかったか?
ばさりとローブをひるがえしたミスランディアは、頭上に待機しているシエンに鋭く呼びかけた。
「シエン、ユウリスたちを探せ!」
宝探しを任せた後輩たちの身を案じながら、ミスランディアは思慮深く目を細めた。
「
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