05 影なき者の故郷

「では、その問いに答えましょう」


 心が、精神の深層に融解する。


 見える世界が闇に閉ざされ、何者かの魂が身体に降りてくる冷えた感覚。ブリュエット自身に、問いの答えはわからない。思考の体感では、一瞬の出来事。しかし視界を取り戻すと、窓から覗く空は薄明はくめいを迎えていた。


「ジュダ様……?」


 眼前の彼は、哀しげに俯いていた。長い睫毛まつげの奥で、瞳が揺れている。思わず手を伸ばしそうになるが、それよりも早くジュダは立ち上がった。


「十分だ、ありがとう。これで、ようやく吹っ切れた。下へ戻ろう。君の執事も、そろそろ起きているはずだ」


 背を向ける彼に、ブリュエットはなんどか声をかけようとした。しかし行きずりの相手には気休めの言葉も見つからず、重い沈黙を破る術はない。一階に降りると、毒から回復した執事が悪魔と対峙していた。


 何事もなかったかのように、ジュダが命じる。


「ディーヴ、彼らに旅の荷物を見繕みつくろってやれ」


「はい、ご主人様。おおせのままに」


 ビーチェに襲われた際の混乱で、逃亡用の荷物は大半が失われていた。悪魔からの施しは不気味だったが、背に腹は変えられない。大きな鞄を片手に下げた執事のキャスパルは、屋敷を出ると同時に大きく溜息を吐いた。


「不可思議な夜でした。刺客に追われたかと思えば悪魔にかくまわれ、最後は見知らぬ男に助けられる――西は魔境まきょうと聞き及んでいましたが、その洗礼を受けた気分です」


星刻せいこくの導きと信じましょう。愛を重んじれば、母神ダヌのご加護があります」


 従者のかたわらで、ブリュエットはさえずるように喉を震わせた。土に降りたしもを踏んで、黎明れいめいの空を見上げる。迷い込んだ頃の暑さが嘘のように、吐く息は白い。


 二人よりも遅れて屋敷を出たジュダが、悪魔に最後の命令を下した。


「ディーヴ、屋敷に結界を張って他者を遠ざけろ。そのあとは、好きに暮らせ」


「いいえ、ご主人様。ご命令は一つずつしか聞くことができません」


「ディーヴ、屋敷に結界を張って他者を遠ざけろ」


「はい、ご主人様。仰せのままに」


 悪魔が指を鳴らすと、屋敷が不可視の幕に覆われた。三人は結界の外側に置かれ、内側にはディーヴだけが残る。好奇心旺盛な令嬢が手を伸ばすが、その指は得体の知れない弾力に押し返された。


 ジュダが、言いつけを重ねる。


「あとは、好きに暮らせ」


 すると、これまで間髪入れずに言葉を返していた悪魔が驚いたように瞬いた。ディーヴが戸惑うように、命令を確認する。


「よろしいのですか、ご主人様?」


「それも含めて、お前の自由だ」


「はい、ご主人様。仰せのままに」


 これで主従関係は終わりなのか、それとも関係なく続くのか――どちらにしても素晴らしい光景を目にしたような気がして、ブリュエットは口元に弧を描いた。悪魔との別れを惜しむこともなく背を向けたジュダを追いかけて、彼女は横に並んだ。


「ジュダ様は闇祓やみばらいなのでしょう? あの悪魔を連れていけば、これからのお仕事に役立つのではないですか?」


「どれだけ便利でも、あれは俺自身の力じゃない。誰かの強さを自分のうつわと勘違いすれば、大事な局面で道を誤る。それに他人を使うのは苦手だ。君も、従者の顔色は知っておいたほうがいい」


 諭されて、ブリュエットは肩越しに振り向いた。執事がいかめしい顔つきで、ジュダを睥睨している。主人につく悪い虫を、視線で射殺さんとするばかりだ。その姿を、令嬢が呆れながら嗜めた。


「およしなさい、キャスパル。ジュダ様は命の恩人です」


「わかっておりますが、怪しい男であることに変わりはありません。そのお召し物も、早く新しいローブに変えてください。悪魔から渡された荷物に、新品がいくらでもございます」


「いいえ、これは脱ぎません。ジュダ様からいただいた、霊験れいげんあらたかなローブです。闇祓いの加護がなくては、恐ろしい土地を無事に抜けることも叶わないでしょう」


 貸しただけだ、とジュダが迷惑そうに呟くが、ブリュエットは楽しげに足を弾ませた。森は広大で、迷わずに抜けられたとしても昼頃になる――はずだったが、ほんの僅かな間に樹海は終わりを迎えた。目の前に、街道が伸びている。太陽は未だ昇り切っておらず、空の青さは冷たい。


 やぶを抜けたキャスパルが、狐に摘まれたような顔でうめいた。


「そんな、馬鹿な。あの屋敷に逃げ込むまで、我々は日暮れから夜通し森を走り続けていたというのに!」


 ジュダは耳を棲ませたが、悪魔が指を鳴らす音は聞こえない。傍らで目を瞬かせていたブリュエットも、やがて彼と同じ考えに辿り着いた。二人の眼差しが交錯する。


「あの悪魔は、ジュダ様のお言葉通りにされたのですね」


「ディーヴ、俺に魔術をかけるな!」


 ジュダは叫んだが、返る声はない。それも自由を得た悪魔の特権だ。堪えきれずに肩を震わせるブリュエットの姿を、執事が嘆く。敬愛する主人が、悪い男に毒されてしまった。


「お嬢様、先を急ぎましょう。いつ、次の追っ手が来るとも限りません」


「ええ、そうですね。ジュダ様、よろしければ道中の護衛を引き受けていただけないでしょうか。手持ちはありませんが、オグマには母方の親類がおります。きっと、お礼はいたします」


「いや、ここで別れよう。オグマの領域まで、もう残り僅かだ。旅をする者が善人なら、妖精の加護がある。執事の心労を増やすのも気がひけるし、ちょうど岐路きろだ」


 行き当たった街道は北と西、東の三方向に分かれていた。渓谷けいこく山岳さんがく地帯に隔てられ、どちらにも原野と川が伸びている。ブリュエットが目指す妖精公国オグマは、北の方角だ。東に進めば、神聖国ヌアザと聖王国ダグザの国境に繋がる。


 ジュダは西に足を向けた。


「俺も家に帰る」


「ジュダ様!」


 ブリュエットは咄嗟とっさに、彼の前へ回りこんだ。東から差す日に照らされて、夜色の髪がきらめいている。不意に、彼女は十年ほど前の噂を思い出した。中部の国を襲った凶事に、黒髪のみ子が関わっていたと耳にしたことがある。レイン家は、その地方を治める盟主の一族と同じ名だ。


「貴方は……」


 ユウリス・レイン。黒髪の忌み子。盟主の家に名を連ねながら、邪竜事変じゃりゅうじへんと呼ばれる災厄に関わったとされる呪われた少年。


 ブリュエットはのどまで込み上げた言葉を呑み込んで、代わりに手首に巻かれた紐を外した。その先端に揺れるみどりの宝石を、彼の手に握らせる。


「ジュダ様、どうかこれをお持ちください」


「礼は要らない」


「では、ローブの代金と思ってくだされば」


「なおさら、そっちを返せ。もう何日も洗っていない、ただの襤褸切れだ。加護はない」


「いいえ、ジュダ様と繋いだ縁があります」


 困り果てたジュダは、彼女の背後に控える執事に助けを求めた。しかしキャスパルは悪鬼のような形相で地団駄じだんだを踏んでおり、なんのあてにもならない。


 ブリュエットは満足そうに頬笑んで、一歩引いた。


「それはプレオベール家に代々伝わる魔鉱石まこうせきと聞いています。もし気兼ねされるようでしたら、いつか返しにいらしてください。それまでは、このローブをお預かりします」


「オグマは苦手だ」


「ええ、お待ちしております」


 噛み合わない会話に、最後はジュダが折れた。翠の宝石を握り締めて、影を持たざる闇祓いが西へ歩きだす。ブリュエットは、彼の進む方角に目を細めた。森と岩肌の隙間が伸びる向こうは、霧に包まれている。


「キャスパル、あちらにも国があるのですか?」


「いいえ、お嬢様。西の果てに、人の寄る辺はございません。ですが、ゲイザーと呼ばれる闇祓いたちの故郷があると聞き及びます」


 影を背負わず、怪物の血を焼き、人の心に巣食う闇を祓う者たちの伝承がある。彼らには家族がなく、子孫を残さず、仕えるべき主人もいない。しかし大陸のどこかに、帰るべき故郷が一つだけあるという。


「闇祓いの、ゲイザー……あ!」


 そこでブリュエットは、大きく手を打ち鳴らした。目を大きく見開くと、耳に吟遊詩人ぎんゆうしじんの歌がよみがえる。


 遥かな時代より伝わる叙事詩じょじしが、闇祓いの行く末を暗示していた。


「聞き覚えがあります。世界の終端に存在するという、女神様の霊場。では、この先にあるのですね――彼らの故郷、ディアン・ケヒトが」


 西の果て、リル渓谷を越えた先に水と丘の大地がある。怪物と妖精が跋扈ばっこするトゥアハ・デ・ダナーンの世界にあって、一切のけがれなき女神の秘境。海と陸を隔てる大瀑布を背負い、その白煙に包まれた砦を人々はディアン・ケヒトと呼んだ。ゲイザーと呼ばれる闇祓いの師弟していは、この聖域よりきて還るという。

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