03 裏切り者の末路
「ああ、ああ、イイよ、たまらないねェ!」
ブリュエットが胸元を腕で覆いながら、悲痛な声を上げた。
「お願いします、お助けください!」
フードを目深に被った男が、小さく頷く。次いで彼は、
「ディーヴ、その二人を守れ」
「はい、ご主人様。仰せのままに」
ぱちん、と悪魔が指を鳴らした。床に倒れていた執事と、令嬢の姿が部屋から忽然と消失した。
転位の魔術か、とビーチェが舌を巻く。
「その悪魔を従えたってのも驚きだが、魔術まで使わせるとは恐れいったねェ。知ってるかい、アンタ。ディーヴは、主人の力量に応じて強さが変わるのさ。特に白髪は特異でねェ、本当に強力な奴に仕えてるって証らしいよ」
「最初から髪は白かった」
「前にソイツの主人だった奴も、アンタと同じ凄腕だったってことさ。攻撃してもはね返されるってのに、どうやって倒したんだい?」
「反射されるのを前提に、剣を振るえばいい。闇祓いの戦い方は、お前も学んでいるだろう?」
「やっぱりアンタ、ディアン・ケヒトの刺客か」
「誓願の掟に従い、裏切り者には死を与える」
男は厳かに、剣を下方へ流して構えた。傍ら悪魔は、不気味に
「自由に生きることを裏切りと呼ぶのかい?」
「先人が、すべて正しいとは思わない。だが、お前の所業は目に余る。闇祓いの力を、死を
「青臭いねェ。アンタ、まだ若いだろう。後輩ってワケだ。もしかして、こんな呪われた顔を目にするのも初めてなんじゃないかい?」
フードの奥で、不意に男が短い息を漏らす。微かに覗く口元が、小さく弧を描いた。その仕草が、ビーチェを苛立たせる。感情に呼応して、顔の刻印が激しく明滅した。
「なにが
「いや、安っぽい呪いだと思ってな」
「アタシを怒らせようってんなら、後悔することになるよ」
「後悔するべきなのは、お前のほうだろう。道を踏み外すべきではなかった」
「こんな顔になったけどねェ、アタシは間違ったなんて
「ならば自由の代償として報いを受けろ」
「このアタシを、やれるもんならやってみなァ!」
「ディーヴ、この女を屋敷から逃がすな」
悪魔の指が鳴り、屋敷が魔力の檻に囚われた。外に出るためには、ディーヴを
二人の声が、雄々しく響いた。
「闇祓いの作法に従い――」
「闇祓いの作法に従い――」
青白い光を帯びた鎖の蛇が、変則的な動きで黒ずくめの男を捉えた。
「剣ならさァ、近づけさえしなきゃねェ!」
「
鉄鎖の先端を剣の柄で弾き、襲撃者が腰を落とした。未だ、刃の間合いではない。しかし彼は迷わず、銀の軌跡で虚空を切り裂いた。その刀身から蒼白の輝きが溢れ、斬撃が空間を越えた。飛翔する破邪の波動が、ビーチェに迫る。
「この、クソッた――!」
悪態も最後までは続かない。身を守るように流した鉄鎖は、黒ずくめが放った闇祓いの輝きによって微塵に砕かれた。
「なんなのさっ!?」
斬撃の波動は勢いを殺すことなく、なおも迫る。
破壊の衝撃に晒されたビーチェの胸に、深い傷が刻まれた。破邪の加護すらも打ち消す、強烈な一撃だ。圧倒的な力に吹き飛ばされた彼女は、背後の壁を突き破って地面に落下した。
男が、淡々と悪魔に命じる。
「俺を、あの女の前に移動しろ」
外の土に叩きつけられたビーチェは、即座に敗北を悟った。
まずい相手だ、と素直に器の差を認める。霊力の総量に、それほどの優劣はない。だが経験値は段違いだ。迷いのない踏み込みと瞬間の判断力は、相当の
「ありゃ、いつかの白狼よりヤバい相手だねェ。クソ、アタシは、まだ……!」
胸の鼓動が、耳障りなほどにうるさい。
うつ伏せに身体を引き摺るたび、胸から大量の血が吹きこぼれる。痛覚は、すでに麻痺していた。全身が、熱にうなされている。あるいは心臓も、いつか傷口から落ちてしまうのかもしれない。それでも逃げなくては、生きてさえいればやり直せる――しかし、伸ばした指は見えない壁に阻まれた。
「クソッタレ!」
ディーヴが屋敷の敷地と定めた限界点が、目の前に立ち塞がる。さらに、背後で生まれる気配。ビーチェは奥歯を強く噛み締めて、
「ほんっと、しつこいったらありゃしないよ」
身体を仰向けにして、無理やり唇の端をつり上げた。目の前には、長剣を携えた黒ずくめの男が無造作に佇んでいる。蒼白の光も絶やしておらず、物腰に隙はない。そこでビーチェは気づいた。屋敷から差す光に照らされても、彼は影を落とさない。
彼女は無様に伸びた自身の黒い分身を横目に、鼻を鳴らした。
「なるほど、ソッチは本物ってわけかい。
「どちらにせよ、お前のような奴に泉の試練は越えられないだろう」
「言うじゃないか、色男。顔くらい見せたらどうだい、こっちは死にかけだよ?」
「油断するつもりはない」
余計な所作は不要とばかりに、男は剣を構えた。
「遊びのない男はモテないよ」
ビーチェは舌打ちしながら、片手で腰をまさぐった。自慢の鉄鎖は砕かれ、残るは麻痺の毒を塗った短剣と霊薬の小瓶しかない。
「アタシは自由に生きたかった、それだけなんだよ。誰にも束縛されず、湯水のように金を浴びて、男も女もいたぶり、ただ世を面白おかしくさァ!」
「
「アタシも、アンタみたいなつまらない男に興味はないねェ!」
ビーチェは最後の力を振り絞り、霊薬の小瓶を地面で叩き割った。紫の煙幕が、一瞬で周囲を包み込む。麻痺の毒を
「これは
燻る紫の幕を切り裂いて、五人のビーチェが浮かび上がる。四人は幻覚、一人が本物――複数の虚像で敵を惑わす、神秘の霊薬。
しかし黒ずくめの男は動じることなく、静かに唱えた。
「響け」
剣を握る男の腕が、ローブの内側で青い輝きを放つ。布を超えて浮かび上がる、古い紋章の
呆気なく本体を見破られた彼女が、信じられないといった様子で目を見開く。
「なんだってんだ⁉」
「反響の秘儀。俺に、まやかしは通用しない。闇祓いの波紋が、目には映らない真実も教えてくれる」
男が静かに応えた刹那、四つの虚像が溶けるように夜気へ潰えた。
残された本物のビーチェが、自身の左胸を貫いた刃に視線を落とす。刀身に反射する、己の
「ざけんじゃないよ、こんな……ところでさァ」
なにひとつ、思い通りにはいかない。
充足の意味もわからず、
「……、――ッ」
目の前の男が剣を引き抜くと、ビーチェの身体は仰向けに倒れた。
痛みは感じず、怒りすらも沸かない。ただ
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