16 オリバー大森林の戦い ――死闘――

「俺が終わらせる。キーリィ・ガブリフとの因縁も、この戦いも、ぜんぶ。そのために来た。でも一人じゃ邪竜に辿り着くことでもできない。みんなの力が必要だ」


 覚悟を決めたユウリスの肩を、ウルカが力強く叩いた。弟子の成長を認めた師のすべきことは、背中を押す以外にない。それは相棒も同じだ。手の甲をぺろっと舐めたクラウが、静かに首肯する。


「お前には、まだ教えることが山ほどある。勝手に死ぬことは許さない。ディアン・ケヒトの誓願せいがんを忘れるな。約束を破れば、冥府だろうがひっぱたきにいくぞ」


 …………、――。


 頬笑みながら頷き返すユウリスに、ヘイゼルは魔女の理とは異なる秘儀を施した。人が存在を許されない空間でも、魂の形を失わないための魔術。不意に、クマのパッフィから半透明の腕が伸びる。袖の長い民族衣装に包まれた幼い手が、愛おしそうに少年の頬に触れて――それはすぐに消えた。


「フミルの怨念がユウリスを守る」


 ヘイゼルの言葉に顔をしかめるユウリスだが、なぜだか不快感はない。草のほろ苦い香りが、鼻腔びこうをくすぐる。嗅いだ覚えがなくとも、どこか慣れ親しんだ気になる、不思議な既視感。


 アナスタシアが小規模な転位の扉を開き、その出口を邪竜の正面に設置した。


「この魔方陣に乗ったら、一気に邪竜の目の前へ転位するよ。援護は一回が限度だと思うけど、スゴイのやるから期待しててね!」


 最後に浮遊の魔術を唱えたイライザが、決然と場を取り仕切る。


「私たちの目的はダーインスレイヴと、その継承者を導くこと。ウルカ、クラウは先行して前線部隊に合流、邪竜の注意を引きつけて。次にヘイゼルとアナが突入、出口の安全を確保しなさい。最後に、私とユウリスが行くわ。正真正銘、これが最後の一手よ」


 イライザは気の利いた号令を続けようとしたようだが、ウルカとクラウが構わずに転位の魔方陣を踏んだ。少し遅れてアナスタシアが光の扉に消え、ヘイゼルはいつの間にか邪竜の頭上に浮遊している。


 そのまとまりのない姿は、ユウリスの緊張を少しだけ和らげた。


「ほんと、イライザはすごいと思うよ。いまの面子に指示だすとか、俺ならゲロ吐きそう」


 ユウリスは楽しそうに頬笑み、魔方陣の光に踏み出そうとして――うしろから、イライザに抱きしめられた。強く、強く胸元と頭を抱えられて、義姉あねの乱れた呼吸に夜色の髪がそよぐ。彼女の心臓は耳にするのも痛いほどに早鐘はやがねを打ち、その指先は震えていた。


「あんた、やっぱりこのまま逃げなさい。ダーインスレイヴは、私が使いこなしてみせるわ」


「……え?」


「この混乱なら、どこへでも行けるでしょう。でも三王国は駄目。そうね、西のオグマなんかどう? 私が旅をしたなかでも、とびっきり変な場所。おかしすぎて、まず普通の人間は近づかない。ディアン・ケヒトの隣だから、ウルカも迎えが楽なはずよ」


 ユウリスは振り向こうとしたが、できなかった。腕に力はなく、いつでも振り解ける。ただ彼女の声に混じる、震えた熱が信じられない。誰よりも気高く、どんな期待にも応えてきたレイン家の才媛が、泣いていた。鼻水をすする音は聞こえなくても、うなじに落ちる熱いしずくが教えてくれる。


 イライザは懇願こんがんするように、弟の髪に鼻先を寄せた。


「私は、この戦いが起きた事情の半分も把握できていない。でも、なんとなく感じるわ。あんた、もう帰ってこられないんじゃないの? さっき、ウルカとそういう会話してたでしょ。わかるわよ、それくらい」


「だろうね、イライザ・レインはなんでもお見通し」


 おどけた調子で肩を竦めながら、ユウリスは首を横に振る。その表情は晴れやかで、つい先ほどまでの緊張や不安は嘘のように消えていた。イライザが泣いたという事実が強烈すぎて、他のなにも考えられない。なにより、彼女の気遣いが嬉しかった。


「俺、いや、俺だけじゃないけど、みんなが君に憧れていた。たまに嫌な奴だし、理不尽なところに腹が立つこともあるけど、レイン家にはイライザがいる。それが自慢で、なにより頼もしかった」


「ユウリス、そんな話はいいの」


 ドロシーとエドガーには、家族のことは後回しにしろと手まで上げた。連合軍の心を戦意に染め上げ、偉そうに説教までしておきながら、けっきょくは弟一人を失う覚悟すらない。そしてなによりイライザ自身は、この言葉をユウリスが聞き入れないことを理解していた。


「それでも私は、あんたを失いたくない」


 逃げろと言って、尻尾を巻いて消えるような弟ではない。それをわかっていながら引き留めるのは、けっきょく自分の罪悪感を軽減するためだ。せめて家族には心を砕かなければ、ただの冷血な鬼畜に成り下がってしまう――それが、ただ怖い。


「こんなのは、卑怯よね」


 イライザが、自分の弱さを自嘲する。しかしユウリスも、彼女の胸の内は承知していた。ここで止められるわけがない。それでも引き留めてくれたことに、感謝する。


「イライザ、聞いて」


「聞くのは、あんたよ」 


 義姉の切ない情動を受け止めながら、ユウリスは緩く首を横に振った。


「父上には認めてもらいたかったし、アルフレドに負けるのも嫌で、ずいぶん意地を張っていたと思う。でも俺がなにより頑張れたのは、イライザの義弟おとうと――かぞくとして、恥ずかしくない自分でいたかったからだ」


「ほんと、あんたって馬鹿ね。そんなに私が好きなんだったら、素直に言うこと聞いきゃいいのに」


「だから、だよ」


 ユウリスはまわされた腕を解いて、代わりに指を絡めた。彼女が泣いているのは、きっと自分のためだけではない。父の死や、アルフレド、失われた家、あるいは公爵代理としての立場、多くの重責を担ってイライザはここに居る。壊れそうな心で、それでも戦う姉を見捨てることなどできはしない。


「イライザがみんなを助けるから、俺はイライザを助けるんだ」


「だったら、あんたは誰に助けてもらえるのよ?」


「イライザに」


 呼吸を置かず、ユウリスは続けた。


「ウルカ、クラウ、カーミラ、みんなに支えられている。俺は、大丈夫。こんなに頼もしい家族がいるんだ。でも一つだけ、お願い。みんなをよろしくね」


 語り尽くせない気持ちばかりが溢れるが、ここで立ち止まるわけにはいかない。意を決して再び踏み出そうとしたユウリスの腕を、イライザは強引に引いた。その額に軽く口づけを落として、涙を拭った彼女の唇が柔らかな弧を描く。


「自慢の弟よ、ユウリス」


 イライザが先に軽く跳んで、その手がユウリスを導く。


 妖精の道を抜ける時間は刹那だが、繋いだ手の熱が互いを強く結んだ。転位魔術の出口で待ち構えていたアナスタシアが、哀しげに眉尻を下げる。


「来ちゃったか。いいの、イライザ?」


「待たせて悪かったわね。さっさと片付けるわよ!」


 いつもと変わらぬ凛々しい姉の横顔に、ユウリスも不敵な笑みを浮かべる。そんな姉弟きょうだいの希望を掻き消すように、邪竜がいた。


『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!』


 黒い鱗に包まれた背中の左右二箇所が、山のように盛り上がった。皮膚を突き破り、生まれるのは一対の翼。羽根ではなく、広がるのは血管の脈打つ皮膜。その威容に目を凝らしたウルカが、表情を強張らせて警句を発する。


「ただの翼じゃない! 心を強く持て、呑まれるぞ!」


 ユウリスたちは意味を考える暇もなく、身の守りに意識を集中した。


 しかし余力のない魔女たちは最後の足掻あがきとばかりに詠唱を連ね、血と泥にまみれた戦士たちも突貫する。それを児戯じぎと嘲笑うかのように、体液に濡れた翼を邪竜が薙いだ。


『ギャオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!』


 吹き荒れる風に宿るのは、怪物が孕む土地の怨念。ブリギットという都市で育まれた恨みや怒りが、物理的な力となって放たれる。その羽音が奏でる、キーリィ・ガブリフの呪詛。


 ――呪われろ、ブリギット!


 墓地に集うすべての者が、魂を犯された。


 積年の恨み辛みが体内を巡り、肉体ではなく心を破壊する。魔術の加護を失った兵士、警官はすべなく倒れた。呪詛に耐性を持つ魔女と法術師も、すでに抗う余力はない。オリバー大森林から押し寄せる怪物に対処していた陣営も含めて、多くの手から武器がこぼれ、数多あまたひざが崩れ落ちる。


 黒い風に精神を蝕まれ、連合軍は全滅の寸前まで追い込まれた。


 怨嗟の波動を耐え抜いたユウリスが、目の前の悲惨ひさんな光景に吐息を震わせる。


「たった、一撃で……カーミラは⁉」


 なおも立ち続けているのはウィッカの盟主マーサとミュラー司教、宙を飛んでいて難を逃れた一部の魔女しかいない。ほうきまたがって浮遊する魔女の背中で、カーミラが叫ぶ。


「平気よ! すぐにそっちへ行くわ!」


 恋人の無事に安堵するユウリスのかたわらを、ネイナとアーネストが駆け抜けた。邪竜の膝とうろこを足場にして駆け登り、目にも止まらぬ速さで邪竜の背に飛び乗る。


「アーちゃん、翼を!」


「ええ、飛ばれては厄介です」


 その眼前で、翼の上腕骨から伸びる三本指がうごめいた。爪の先から黒い雷撃が迸るが、道場の二人は怯みもしない。その回避は紙一重、一瞬の判断が生死を分けるような動きを繰り返し、ネイナとアーネストが左右の両翼に肉薄する。


 地上に倒れた戦士たちに埋もれて、瀕死のガノが無理やり唇の端をつり上げた。


「ちくしょう、また差をつけられた……」


 ネイナが踊る。その手に握るのは己の剣と、ガノの剣。二剣一刀の真髄しんずいを体現するかのように、苛烈に奔る二筋の軌跡。剣の乙女が舞い、邪竜の片翼かたよくを根元から切断する。


 その反対側では、アーネストが涼やかな表情で歩いていた。

 まるで気配すら感じさせず、残る片翼も背から斬り離されている。


「ネイナ、見事な太刀捌たちさばきです。よくやりました」


「アーちゃんは余裕だねぇ。師範代への道のりは遠いなぁ」


 刹那、余裕を見せていた二人の顔色が変わる。


 翼を斬られた断面から、黒い霧が噴出した。先ほどの羽ばたきで撒かれた呪詛が、より強い濃度でネイナとアーネストに襲いかかる。背中の傷など些事とばかりに、足元に群がる人間たちへ放射される邪竜の業火。


『ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!』


 赤紫に染まる灼熱しゃくねつの息吹を前に、ウルカが雄々しく剣を振るう。


「闇祓いの作法に従い――霊鉱れいこうスフィアよ、輝け!」


 彼女の握る剣に古の刻印が浮かび、連なる。清廉なる調伏の輝きと、≪ゲイザー≫の力を十二分に引き出す刃の相乗が生みだすのは、強力無比の衝撃波。解き放たれる蒼白の波動は焔の息吹を両断し、勢いのまま邪竜の胸に深い傷を刻み込む。


 その軌跡に追随して、クラウが跳んだ。


 ――――ッ!


 声無き咆哮を轟かせ、魔力を込めた爪を邪竜の顔面に一閃。怪物の額から片目、鼻先を鮮烈に切り裂いた。


 仲間たちの奮起にユウリスも踏み出そうとするが、その肩をイライザが抱き寄せる。


「あんたはこっち、行くわよ!」


 浮遊の魔術を発動させたイライザが、ユウリスと共に宙に浮き上がる。


 邪竜は痛みと怒りに震えながら、身体を大きく揺らした。


『ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』


 呪詛に呑まれて意識を失くしたネイナとアーネストが、背から振り落とされる。


 そのまま≪ブリギット≫の巨躯きょくが旋回した。耳鳴りを起こすほどの荒らしいうねりと共に、勢いよく薙ぎ払われるのは太く長い尾。しかし、その暴虐ぼうぎゃくの一撃は、一本の槍に阻まれた。生き残った兵士たちに身体を支えられた隻腕せきわんのアーデン将軍が、豪胆に矛を振るう。そして自身の十倍以上もある体積を、宙に打ち上げた。


「これが人間の、底力ってもんだ! おおおおおおりゃあああああああああ!」


 戦場を共にする誰もが、同じ人間とは思えない、という感想を抱いたのは偶然の一致だが――新たな闇の胎動たいどうが、驚愕きょうがくを上塗りする。邪竜の背に噴出する黒い霧が、翼の形に変貌を遂げた。道場の二人が与えた傷など無意味だと嘲笑うかのように、神話の怪物が二つの月を背負い飛翔する。


 戦場の端で、ファルマン警部が絶望にあえいだ。


「神の獣に触れてはならなかった……ブリギットは、ここで終わるのか?」


 邪竜は正面にユウリスとイライザを捉えて、煉獄の熱波が吐き出した。刹那、アナスタシアが両手を丸めて踊りながら、全身全霊を賭けた最後の魔術を発動する。


「――にゃんにゃんにゃんにゃんにゃーにゃにゃにゃ――

 ――Cat pranks―

 ――                     ――!」


 刹那、ユウリスとイライザの眼前に展開する転位の魔方陣。赤紫の焔が光の扉に呑み込まれ、その出口は邪竜の頭上に開かれた。自らが放った炎に焼かれ、≪ブリギット≫の絶叫が響き渡る。


 さらにヘイゼルが、頭上に掲げた指先をくるくると回した。


「死者の国へ、ご案内」


 地底から、無数の亡者が湧きあがる。


 嘆きの声を漏らすのは、この戦場で散った戦士たちの無念。さらにオリバー大森林に集結した≪スペクター≫も、ヘイゼルの傘下に加わる。無慈悲な死者の女王が下す命令に、幽鬼たちが抗う道理はない。


 死霊の群れが邪竜の後ろ脚にすがりつき、その動きを封じ込めた。


「その魂は、あげないよ」


 ヘイゼルから目配せを受けたイライザが、力強く頷いた。ユウリスの肩を抱いて、一直線に邪竜に肉薄する。


「ユウリス、核の場所は⁉」


「感じる……ウルカがつけた傷、胸のあたり!」


 ユウリスは群青ぐんじょう色に染まる瞳で、≪ブリギット≫の心臓部を看破した。あとほんの僅か、その場所に手が届く、寸前――邪竜の胸に刻まれた傷が蠢き、醜悪な口に変貌した。びっしりと生え揃った牙の奥から、煉獄れんごくの焔が渦を巻く。


 イライザが咄嗟とっさに腕を伸ばし、喉を震わせた。


「――天災……っ」


 しかし詠唱は擦れて、声が続かない。

 イライザの魔力は、すでに尽きかけていた。


 ダーインスレイヴを構えたユウリスの腕を、邪竜の翼から生えた黒い触手が絡め取る。そして悪意に満ちた赤紫の炎は、耳障みみざわりな咆哮と共に容赦なく放たれた。


『ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』


 人々の希望と未来を打ち砕かんとする灼熱の業火が、二人に迫る。


 刹那、その狭間に舞い降りる赤毛の少女。


「――紅蓮のつばめよ――

 ――My own love for eternity――

 ――           ――!」


 仲間の魔女に浮遊の魔術を施されたカーミラが、鮮烈に愛を詠う。紡がれた魔術が、一羽の紅い燕を召喚した。ほんの小さな鳥が、邪竜の焔に拮抗する。


 思わず手を伸ばしたユウリスに、赤毛の少女は満足そうな笑顔で振り向いた。


「言ったでしょう。あなたを助けるのは、いつだってわたしでありたい。いまが、その時よ。だから、信じて!」


 さらにウルカが剣を振るい、闇祓いの波動が放たれる。

 クラウも牙を剥き、調伏の遠吠えを響かせた。


「はあああああああああああああああああああああああああああ‼」


 ――――――――ッ‼


 地上から届く二つの援護が、邪竜の胸に開いた醜い口を粉砕する。


『ジュウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!?』


「わたしのユウリスには、指いっぽん触れさせないわよ!」


 カーミラが残る力を振り絞り、怨念にまみれた焔を相殺そうさいした。両手にひどい火傷を負った赤毛の少女が、力尽きて落下する。その口元に描かれた弧は、最後まで絶えることはない。


「必ず帰ってきてね、ユウリス」


「カーミラ!」


 その名を叫びながら必死に伸ばしたユウリスの手は、愛する彼女に届かない。


 弟を抱いたイライザが、≪ブリギット≫の正面に飛ぶ。爛れた邪竜の傷口には、大きな穴が開いていた。アナスタシアが行使する転位の魔術とは似て非なる、別世界に続く門。東の空から闇が薄れ、死の森に夜明けの兆し届く。


 ダーインスレイヴを握り締めた闇祓いの少年は、そして暗黒の彼方かなたに身を投じた。

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