12 最後の楔
「オリバー大森林、ここにキーリィ・ガブリフがいる」
二つの満月に照らされた参道が、真っ直ぐに伸びている。その先はイルミンズールが根を下ろす共同墓地と礼拝堂。怪物の気配はなく、木々や藪のざわめきしか聞こえない。
背の高い木々が並ぶ、鎮魂の森。
枝には青々とした葉が茂り、春の訪れに咲いた草花が風にそよいでいる。静謐の空間に、ユウリスたちは同時に踏みだした。刹那、目に映る世界が青白く塗り変わる。
「異界化! 気をつけて、カーミラ、クラウ……カーミラ、クラウ?」
怪物が真価を発揮する、異界化領域。その人ならざる世界に踏み込んだ途端、カーミラと白狼の姿が同時に消えた。振り向いても、すでに市街地に戻る道も閉ざされている。背後には途方もない闇が広がり、一度でも迷い込めば生きて戻れる保証はない。
「ふたりはどこに?」
「どこだろうね」
表情を強張らせるユウリスの手を、そっと握る冷たい指の感触――幽鬼のような唐突さで現れたヘイゼルが、あどけない表情で薄く笑う。
「ようこそ、異界へ。ここは
「これはヘイゼルがやったのか?」
ぎょっと目を見開くユウリスだが、不思議と絡められた指を振り払う気にはなれなかった。手を引かれるまま、
「フミルは封印を解いてもらう代わりに、いくつかの取引をしたの。一つは街の人たちを怖がらせること。一つはアルフレドを含めた何人かの子供に悪意を植えつけること。そして最期の日は、ユウリスだけを先に墓地へ連れていくこと」
「アルフレド?」
「アルフレドがお父さまを刺したのは、心のなかに闇の種を植えられたから。夏に起きた、みんなが眠ってしまう事件。あれは無差別に狙われたわけじゃない。本当に狙われていたのは、何人かの子供だけ」
レイン公爵の息子アルフレドを筆頭に、キャロット市長の孫娘やミュラー司教の息子を含む、数名の子供。ミアハの人形は夢を通じて、彼らの意識に親や祖父に対する
「アルフレドはお父さまを殺した。市長は自分の身を守るために、孫娘を手にかけた。司教の息子は取り押さえられて、他の人も家族に殺されたり、逆に殺したり、いろいろ」
ユウリスは
ヘイゼルは瞼を半分だけ落として、長い睫毛の奥で光のない瞳を僅かに揺らした。
「あの夏、フミルの異界化にみんなが巻き込まれた時点で、キーリィ・ガブリフの
「つまり父上の暗殺が成功しても成功しなくても、キーリィにとってはどちらでもよかった?」
「上手くいったらいいなって、それくらいだよ」
信じられないという面持ちで、ユウリスは絶句した。握り合う手に力を込めても、ヘイゼルは痛がる素振りすら見せない。冬の水よりも凍えた肌の感触。その可愛らしい顔立ちに感情の色は窺えない。下唇を噛み締めて、絞りだすように問いを重ねる。
「ヘイゼルは、それを最初から知っていて隠していたの?」
「なんなんだ、これ! 父上は刺されて、それをしたのはアルフレドで、スージーさんは死んでしまって、コリンさんは血塗れで、サヤは……サヤだって、どうしてこんなことになる! ヘイゼルも……なんで、ミアハの人形なんかに力を貸すんだ!?」
「ユウリスには、わからない。誰にも、わからない。この目に見えているものは、きっと他の人には理解されないものだから。それでもフミルの力は役に立ったでしょう?」
「ああ、≪レヴェナント≫をけしかけて俺を助けてくれた。でもいまはキーリィ・ガブリフに従って、カーミラとクラウを隠している。いったいヘイゼルは、どっちの味方なの?」
「フミルとキーリィ・ガブリフの約束も、これが最期。ブリギットはどうでもいい。ここは、いたい場所じゃない。でも……」
ヘイゼルは言葉を切って、くいっと顎を動かした。
森と異界が終わり、蒼と紅の月光に照らされた墓地の景色が広がる。色とりどりの花と緑の草が生い茂る景色に並ぶのは、名前の刻まれていない無数の墓石。その奥では女神の印がない礼拝堂が静かに佇み、創生の大樹イルミンズールが現実世界と妖精領域の狭間で陽炎のように揺れている。
そして広大な
「ようこそ、ユウリス・レイン」
キーリィ・ガブリフが、両手を広げて少年の来訪を歓迎する。元老院議員の正装を身に纏い、腰に帯びるのは美麗な
彼は不敵に口元を綻ばせ、視線をヘイゼルに向けた。
「ご苦労、ミアハの人形。約定は果たされた、これで盟約の
「ユウリスに嫌われたくないだけ」
「では、このあとは?」
「ユウリスに好かれることをする。みんなを、異界から助けてくるね」
後半の
「ユウリスの魂はあげない。戻るまでに横取りしたら、ぜんぶぜーんぶ
「怪物と人間の境界を失くしたか、ヘイゼル・レイン。哀れな娘だ。僕はなにも手に入れるつもりはない。ただ壊すだけさ」
霞のように消えたヘイゼルに鼻を鳴らし、キーリィは再び意識を目の前の少年に戻した。夜の闇が、より濃さを増す。女神と魔神の月をもってしても、夜明け前の暗黒には及ばない。
ユウリスは短剣を握り締め、周囲に視線を巡らせる。
「リジィはどこ?」
「いるとも。おいで、僕の操り人形」
呼びかけに応じて、墓石の影で小さな姿が動いた。
「
「お前が、俺をここに呼んだ。答えろキーリィ・ガブリフ、なにが目的だ⁉」
「いずれわかるさ。それより前の鐘が鳴ってからどれくらい経つかな?」
質問の意図がわからず、ユウリスは顔をしかめた。同時にミアハの感覚を解放して、辺りの気配を探る。リジィを人質に取られて身動きは取れないが、せめて伏兵の存在は暴いておきたい。だが意外にもハサンの一味が隠れている気配はなく、墓地は本当に三人きりのようだ。
「ユウリス、僕の質問には真剣に答えたほうがいい。せめてリジィは無事に帰したいだろう」
ダーインスレイヴの刃でリジィの皮膚を浅く裂いて、キーリィが口元を歪ませる。彼は必殺の剣がもたらす誘惑の影響を受けていないのか、絶妙な力加減で血が滲むことはない。ユウリスは緊張した面持ちで、息を吐いた。
「前の鐘が鳴ってから、だいぶ経ったと思う。だから、そろそろ次の鐘が鳴るはずだ。それがなに?」
「夜明け前に響く最期の鐘だ。それが僕の呪詛を完成に導く」
「謎かけをして遊ぶつもりはない」
「僕にはあるさ。ボイドたちには、夜明け前の鐘を契機に
「よくもそんなことを!」
「その怒りは正しくない、ユウリス。地下住民は、もう限界だった」
長年に渡る日陰の生活は、例え彼らが望んだものだとしても大きな歪みを生んでいた。大洪水の悲劇から三十四年――かつて大人だった者たちは衰え、現在の主役は次の若い世代だ。地上の華やかさを知りながら、親から反政府運動として下水道の暮らしを強いられた者たちの不満は最高潮に達していた。
遅かれ早かれ衝突は起きていたさ、とキーリィは肩を竦める。
「僕は長年の支援者として信用を得ていたから、彼らの暴発を招くのは簡単だったよ。最後の岐路は、収穫祭の馬上槍試合だ。僕が与えた慈悲を、公爵と市長は最悪の選択で放棄した」
「あのときボイドたちの存在を公にしようとしたのも、ぜんぶ計画の内だったのか?」
「無論、あの不安定な情勢下で、市が
「まるで神様にでもなったような言い方だな。ボイドたちは、お前の悪意には決して屈しない。地下のみんなも、きっと思い
「それはありえない。ジェシカに命じて、彼らの家族を殺させた。地下の愚かな復讐者たちは、その矛先をレイン家とブリギットに向けるだろう。僕は生憎と、君がブレグ村でなにを見聞きしたかまでは知らないが――忌み子の真実も、君に人の闇を見せつけたのではないかな?」
どくん、とユウリスの心臓が強く跳ね上がる。
忌み子の真実。父の死。利用されたアルフレド。サヤ。見知った者たちの身に降りかかった悲劇を、此処に到るまでに何度も踏み越えてきた。どれ一つをとっても辛くて、気を抜けば膝から崩れ落ちてしまいそうな痛みだ。
それでも、と少年は前を見据える。
「それでも人の善意は、どんな闇だって越えられる。心の光を信じられなくなるのが絶望なら、まだ誰も完全には屈していない。キーリィ・ガブリフ、お前を止めてみせる!」
「ならば僕の呪詛をもって、絶望をという名の闇を君に刻み込もう。約束の時だ、ユウリス・レイン」
大聖堂の鐘が、
悪夢の瞬間が、希望を打ち砕く。
「そんな……!」
ブリギット市のどこからでも目印にできる、その壮麗な
キーリィ・ガブリフの愉悦に満ちた声が、人の善性を
「これこそが人間の悪性! 見ろ、ユウリス・レイン! 破壊と憎悪の時代がはじまる。これで地下と地上の対立は避けられない。なにをしても無意味だ! もう誰にも、僕の呪詛を止めることはできない!」
大気を震わせる轟音と地鳴りが広がり、巨大な建造物の倒壊がもたらす衝撃は森の木々をも薙いだ。短剣の柄をやるせない思いで握り締めたユウリスが、振り上げた腕を所在無く虚空にさまよわせる。
「ナダ、ボイド……そんな、こんなことをサヤは!」
「嘆くことはないよ、ユウリス。人間はこんなものさ。それだけ善人の皮を被っても、いざ混沌に落とされれば悪逆の本性を剥きだしにする。地下の住民に温泉をもたらした君の声でさえ、彼らには届かない。正当化した欲望のためなら、誰もが他人に対して残酷になれる。これが、その証左だ」
「痛みで人を操ったお前が、それを言うのか!」
「僕はきっかけを与えたにすぎない。だが、これで終わりじゃない。さあ、まだだ、もっともっと、ブリギットの悲鳴を聞こうじゃないか! 次はどこだ、砦か、市庁舎か、病院か!」
キーリィは恍惚と表情を輝かせながらも、リジィの喉元に突きつけた刃を離そうとしない。人質を取られて身動きの取れないユウリスは、そこで不意に眉を寄せた。大聖堂から上がる火は未だに夜空を赤く染め続けているが、二番目の衝撃が起きない。
慰霊の墓地に、静けさが戻る。
一つは悪意に負けたが、残りの四つは沈黙を貫いていた。
「キーリィ、人はたしかに間違いを犯すかもしれない」
ユウリスは森に背を向け、曇りのない眼差しでキーリィを見据えた。
この一年を通して得た、数々の経験が脳裏を過ぎる。出会った人々の温もり、抱いた想いの熱、駆け抜けた戦いの衝動、身を裂くようなつらい別れ。そのすべてを乗せて、短剣の切っ先を正面に掲げる。
「でも過ちを省みて、正すこともできる。それを許せる善意があるから、俺たちは絶望しない。善と悪は誰の中にもある。大聖堂は崩れた。でも他の爆発は起きていない。地下に住む人たちの理性と忍耐が、お前の悪意に打ち
悪意を振り撒き続けた男の表情に、はじめて戸惑いと苛立ちが浮かんだ。暴風の煽りを受けていた木々すらも騒ぐのを止めると、キーリィは失策を認めた。
「
彼は手元の刃で、リジィの首を切り裂いた。
鮮血が舞い、草花に赤い雨が降る。悲鳴もなく、少女はうつ伏せに倒れた。しかしダーインスレイヴに切り裂かれても、彼女の姿は消滅しない。それは至宝の力をキーリィが完全に支配しているという証なのか、そもそも憎しみの対象でないからなのか。その理由を考える前に、ユウリスは叫んだ。
「リジィ!」
「無意味な死だけが重なる。彼女は麻薬漬けにする前から、僕に親切だった。殺したくはなかったよ。君のせいだ、ユウリス」
「ふざけるな! お前をこのまま放っておけば、もっと大きな悲しみが生まれる! それを許すわけにはいかない! これ以上はやらせないぞ!」
「ならば僕を殺すがいい。君と市庁舎で初めて会ったとき、二つの運命が交わった。こうなることは、あの瞬間から決まっていたのかもしれない。さあ、決着をつけよう!」
「キーリィ・ガブリフ!」
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