14 月夜に影の重なる

 カーミラが鞄から夜光石やこうせきを取り出すと、暗黒の森に柔らかな暖色の明かりが満ちた。日中に太陽の光を吸収し、夜になると輝きを放つという魔力を秘めた鉱石だ。


「先生から依頼された素材は、わたしが見つけるわ。ユウリスは、はぐれないようについてきて?」


「なんだか今日は、ずっと誰かの後ばかりついていっている気がする」


「ちょっと、わたし以外のお尻を追いかけたりしていないでしょうね?」


 キルケニーの言葉通り、空の機嫌は良好だ。


 しかし頭上は生い茂った木々の葉に覆われて月光も届かず、万年雪の積もる霊峰ファリアスが近いせいか、風の冷たさはブリギットの比ではない。それでも露出した肌が寒さを感じる程度で、衣類に覆われた身体は羽毛に包まれているような温かさを保っている。


「カーミラ、この毛皮も魔女の加護があるの?」


外套がいとうだけじゃなくて、着替えたローブや肌着にも魔女の叡智えいちが込められているわ。たぶん、保温の術を込めているんじゃないかしら。ほんとうは魔術を物質に定着させるのって、すごく難しいの。嫌になるくらい意地悪だけれど、さすがキルケニー先生だわ」


「その気持ち、わかる。ウルカは理不尽でどうしようもない人だと思うけど、闇祓いとしては俺も尊敬しているから。でもカーミラと弟子の苦悩を分かち合う日がくるなんて、想像もしてなかった」


「じゃあ今夜は誰も聞いてないし、お互い師匠の悪口を存分に吐き出しましょう!」


 光源を手にしたカーミラが先に足を進め、ユウリスが後に続く。


 二人で口々に師匠の愚痴ぐちをこぼすと、どこの弟子も不満は似るものだと気付かされた。修行と関係ない雑用を任され、機嫌が悪ければけ口にされる。いつも辟易へきえきとするが、こうして笑い合えるのだから不思議だと思う。


「そんなにカーミラが苦労していたなんて意外だな。いつも自信満々だし、なんでも順風満帆じゅんぷうまんぱんなんだと思ってた」


「それ、嫌味じゃないならひどいわ。壁にぶつかったり悩んだりなんて、しょっちゅうよ。ユウリスが思うほど、わたしは器用じゃないんだから」


「カーミラも悩むの?」


「当たり前でしょう。あ、待って、ユウリス。少し、このまま」


 森の途中で、カーミラは不意に足を止めた。


 先ほどからどれだけ歩いても、森の景色は変わらないように見える。虫の声はなく、影梟かげふくろうの誘うような声だけが仄かに鼓膜を震わせていた。不意に茂みが大きく動いて、額から鋭い一本角を生やした角鹿つのしかが現れた。


 驚いて腰の短剣に手をかけるユウリスとは対照的に、赤毛の幼馴染はまぶたを閉じて意識を集中している。


「カーミラ、角鹿がこっちを見ている」


「襲われそうになったら、わたしを守ってね。いま魔力の流れを感じて、月宮つきみやつゆを採取するのに必要な鈴風草すずかぜくさの場所を探っているの。ごめんなさい、もう少し集中させて」


 カーミラの赤く艶やかな髪が、魔力の胎動たいどうに応じてふわりと舞い上がる。油断なく身構えるユウリスだが、角鹿はすぐにべつの茂みへ飛び込んで姿を消した。


 影梟の鳴き声が、ひとつ増える。


 さらに風の息吹もなく、周囲の枝葉が揺れはじめた。


「ユウリス、あまり警戒しすぎないで。怖がると森が呼応する。ルアン・シーゼは、そういう場所よ」


 碧い瞳を瞬かせて、カーミラは悪戯っぽく頬笑んだ。


 鈴風草の居所は把握できたらしく、再開した彼女の足取りに迷いはない。ほどなく、視界の向こうが明るくひらいた。


 大きな枝葉が隣の木々に届かず、月明かりが降る森の一角。蒼白と薄紅の光が降り注ぐ場所で、宝石の粒を纏うように輝く白い花が揺れていた。耳を棲ませると、鈴の音が聞こえる。


「見つけたわ、鈴風草よ! 月明かりを浴びて花からこぼれる水滴が、月宮の露よ」


 鞄から小瓶を取り出してたカーミラは、鈴風草の根元に置いた。花弁の周囲を漂うきらめきの粒は、それほど長くは宙に留まらない。浮力を失うと瓶底に落ちて、金色の水滴に姿を変えた。仄かに甘い香りが、鼻腔びこうをくすぐる。


「瓶に溜まるまで時間がかかるわ。座って待ちましょう?」


「なんか、ここだけ別世界みたいだ」


 周囲の森に暗黒が満ちているせいで、月の恩恵を受けた一帯は特に明るく感じる。


 カーミラと並んで腰を下ろしたユウリスは、鈴風草の音色に耳を澄ませた。子供がたどたどしく振り鈴を鳴らすような、温かみのある植物の声だ。


「カーミラ、これってどうして音が鳴るの?」


「花弁に細かい凹凸おうとつがあって、そこを撫でる空気の振動が音の正体よ。面白いのがね、鈴鳴草は自分の声に驚いて溜め込んだ魔力を放出するの。この音は魔術の詠唱と同じ作用をもっていて、噴出した魔力を結晶化させるわ――それが、月宮の露。月の光を浴びた晩にしか発生しないから、そう呼ばれているみたい」


 群生する植物ではないようで、周辺に他の鈴風草は見受けられない。繁殖方法もわかっておらず、枯れてしまえば次を見つけるのが大変なのだとカーミラは肩を竦めた。


「貴重な分、魔女の扱う素材としては一級品よ。いま瓶に落ちている一粒の欠片は、ぜんぶ花の生みだした魔術なんだから」


「このキラキラした光が、ぜんぶ魔術?」


「ええ、人に限らず、吸い込んだ対象に甘い夢を見せるの。眠れない夜や嫌なことがあった日には、月宮の露から精製した夢見の秘薬がよく効くわ」


「キルケニーさんが分けてくれるって言っていたやつだ。俺にも使わせてくれる?」


「ええ、もちろんいいわ。ちゃんと、わたしの夢を見てね!」


 つややかに笑みを浮かべたカーミラは、首を傾げてユウリスの肩に寄りかかった。まだ月宮の露は瓶に半分ほどしか満たされていない。


 彼女は囁くように、言葉を続けた。


「本当はもっと早く、こうして魔女のお話もしたかったわ。あなたに隠し事をしているのが、すごく嫌だった。闇祓いのおきてで話せないことがあるのはわかるけれど、わたしはユウリスの全部を知りたいの。同じように、わたしの全部をあなたに知ってほしい」


 なぜだか急に落ち着かなくなって、ユウリスは視線をさまよわせた。彼女の赤毛から漂う石鹸せっけんの香りを嗅ぐだけで、心臓が大きく跳ね上がる。早鐘を打つ鼓動が相手に届いてしまう気がして、取りつくろうように返事をした。


「これから知っていけばいいよ。俺とカーミラには、まだまだたくさんの時間があるんだから。君が植物に詳しいのだって、はじめて知った。魔女に関係しなくても、花や草は好きなの?」


「ええ、昔から植物は好きよ……って、ああ、やっぱりユウリスは気付いていなかったのね。まあ、しょうがないか。ねえ、わたしが神学校の花壇を世話していたのは知ってる?」


「え、学校の庭にある花壇って、ターニアの生花店とかが整えているんじゃないの?」


「それは最近の話。元々、あの花壇ってメイウェザー神父の趣味なのよ。ほら、ちょうどわたしがダグザの寄宿舎学校から転校してきた頃よ。あなたは毎日、アルフレドにいじめられていたわ」


 アルフレドの嫌がらせは入学当初から続いており、時期がいまいち想像できない。しかしユウリスは、彼女の台詞にべつの興味をそそられた。


「あれ、カーミラってずっとブリギット暮らしじゃないの?」


「呆れた。ユウリスって、わたしに興味がなさすぎじゃないかしら!」


 カーミラは不機嫌そうに唇を尖らせて、眉間にしわを寄せた。半笑いで誤魔化そうとするユウリスの肩に強く体当たりをして、彼女は頬を膨らませる。それでも少年が素直に頭を下げると、赤毛の少女は満足そうに頷いて謝罪を受け入れた。


「生まれはブリギットだけれど、お母様の方針で一度はダグザの寄宿舎きしゅくしゃ学校に入学したの。でも上手くいかなくて、半年くらいで帰ってきちゃった。それで、ユウリスと同じ神学校に転校したわけ。わたしも最初はいじめられていたのよ」


「カーミラが!? 誰に!?」


 そんな命知らずがいるとは思えないと驚愕きょうがくしたユウリスは――間髪を容れずに耳を引っ張られ、即座に謝罪へ追い込まれた。


 口は災いの元だと後悔する少年の横顔を見つめながら、カーミラが可笑しそうに囀る。


「もう、失礼しちゃうわ」


「でもカーミラがいじめられるなんて、ほんとにどうして?」


「当事は、地元の商店とブレイク商会の仲が最悪だったの。うちは大洪水の被害を受けた商業組合を支援して感謝されたけれど、復興した街に外資系商会の誘致ゆうちを決めた市に手を貸した途端、裏切り者扱いされたわ」


「大人は学校にいないよね?」


「でも学校には、組合員を親にもつ子供がいた。あとはわかるでしょう?」


 市の繁華街である中央通りは、その大半が外資系の商店で埋め尽くされている。しかし基本的に富裕層向けの高級店が多く、市民が利用する地元の店とは差別化されているのが現状だ。


 ただ住み分けができるとは当時、誰も想像ができなかった。


 大人の鬱憤が、子供同士の諍いに発展するのは珍しいことでもない。レイン家の義兄弟きょうだい仲も似たようなものだ。


 表情を強張らせるユウリスの頬に、カーミラは冷たい手をあてがった。


「わたし、最初はいじめなんて無視していたの。メイウェザー神父も気付いたら注意してくれたし、昔は我慢強かったから。でも友達ができなくて、それは少し辛かったわ。だって遊びもせずに帰ったら、お母様とお父様に心配をかけてしまうもの。だからメイウェザー神父が趣味にしていた園芸を、放課後に少し手伝わせてもらったの。校舎前の花壇よ。時間つぶしだけど、楽しかったわ。ねえ、まだ思い出さない?」


「……思い出すって、つまりカーミラの花壇に俺が関係しているの?」


 質問に質問で返すと、彼女は諦めたように肩を竦めた。月宮の露は容器の半分を過ぎて、着々と満杯に近づいている。手を引いたカーミラは、瓶の栓を手の中で弄んだ。


「ある日、わたしの花壇がぐちゃぐちゃにされたの。犯人はもちろん、組合員の子供たち。メイウェザー神父はヌアザに出張中だったから、誰にも叱られないと思ったんでしょうね。わたしそのときばかりは頭にきて、全員ぶん殴ってやったわ」


「怪我、しなかった?」


「最初は引っかかれたけど、あとはわたしの独壇場どくだんじょうよ。逃げるあいつらを追いかけて、ひとり残らず泣かせてやったわ」


「俺の知ってるカーミラだ」


「あれ以来、我慢なんて意味がないのかもって悟ったのよね。でも、終わってみれば髪も服もぼろぼろで、これじゃ帰れないなって途方に暮れたの。それで一回、学校に戻ったわ。もう夕焼けで、秋だったから風も冷たかった。そこでわたし、誰を見たと思う?」


 膝を抱えたカーミラは、首を傾げた。その表情は小悪魔のように蠱惑的で、面白がっているように見える。


 その瞬間、鈴鳴草すずなりくさの柔らかな調べが不意にユウリスの記憶を呼び覚ました。


 しかし少年の答えを待たず、彼女が楽しげに声をのばす。


「ひとりの男の子が、荒らされた花壇の手入れをしていたの。わたしと同じで、服も髪もぼろぼろ。まるで誰かと喧嘩をしたあとみたい。わたし、彼を知っていたわ。黒髪で、いつも陰気な顔をしている公爵家の子供。名前は、ユウリス・レイン」


「思い出した! そんなことあったかも。いつもみたいにアルフレドたちにやられたあとだったと思う。なんだかそのまま帰るのが嫌で、時間つぶしに荒れた花壇を直して……あれ、カーミラの花壇だったのか!」


「ほんと、あの頃のユウリスって自分以外に興味なかったわよね。いまもそうなら、怒るわよ?」


「いまはカーミラのこと、ちゃんと考えているよ」


「ロディーヌだかリュネットだかのあとじゃなくて?」


「カーミラが一番に決まってる」


 自然と口をついた言葉に、ユウリス自身も驚いた。彼女に抱いた想いを隠すつもりはないが、はっきりと当人に伝えるのは気恥ずかしい。直球で向けられた好意に目を丸くしたカーミラは、すぐに頬を赤らめた。


 赤毛を摘んだ少女が、はにかんだ表情を隠しながら嬉しそうに応える。


「知ってる。ありがとう、ユウリス。嫌なことを言ってごめんなさい。ついでに、あの頃の気持ちも謝るわ」


「あの頃って、俺が君の花壇をいじっていたときのこと?」


 ええ、と彼女は頷いた。


 まだ二人が、きちんと会話も交わしていなかった子供時代。カーミラはおそるおそる手を伸ばして、ユウリスの指に触れた。冷え切った肌が重なっても、すぐに熱は生まれない。


「わたし、あなたを見下していたの」


 自分より惨めな男の子がいる、だから自分はまだマシなほうだ――そんな目で忌み子の少年を見て、彼女は心の安定を得ていた。それはカーミラにとって、いまでも拭えない人生最大の汚点だ。指に力を込めて、ユウリスの手をぎゅっと握りしめる。


「それからずっと、あなたを見ていたわ。ブレイク商会が地元の商店を見捨てないとわかって、わたしはいじめられなくなった。でもユウリスは変わらずひどい仕打ちを受けていて、なぜだか目を離せなくなっていたの。抵抗しても相手はアルフレドの一味、四対一じゃ勝てっこないわよね。でも、あなたは立ち向かうことをやめなかった」


 カーミラの告白は、ユウリスに少なからず衝撃をもたらしていた。彼女だけは、自分を蔑んだりしていないと信じていた――その気持ちを裏切られた気分で、胸が痛い。


 しかし、ふと思い至る。ユウリスの記憶に眠る、二人の出会い。


「あれ、でもカーミラは俺を助けてくれたよね?」


 いつの出来事か、正確な日付は覚えていない。それでも高等部に進学する前の話だ。アルフレドの取り巻きに拘束されたユウリスが、好き放題に殴られていた放課後の校舎裏――そこに突然、カーミラが現れた。彼女はミックを突き飛ばし、ランドロフの股間を蹴り上げ、雑にリジィの頭をはたいて泣かせると、最後にアルフレドの顔面に拳を叩き込んだ。


「あれは、すごかったね」


「なんかもう、我慢できなくて。でも、あれは助けたわけじゃないのよ?」


 え、と目を瞬かせるユウリスに、カーミラは申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「わたしは、自分のために戦ったの。可哀想なあなたを助けて、カーミラ・ブレイクの価値を上げたかった。アルフレドは公爵家の子供で、乱暴者のランドロフもいたから誰も注意したりしなかったでしょう。そんな相手にも負けないわたしはすごいんだって、みんなに知らしめたかった。それは大成功。アルフレドを殴った次の日、前にわたしをいじめていた子たちが謝りに来たの。すごく怯えてた。寛大な心で許してあげたけど、内心はざまあみろって思ったわ」


「カーミラらしいね」


「でも、ひとつだけ誤算があった」


 彼女のあおい瞳が、ユウリスの焦げ茶色の瞳をじっと覗きこむ。あなたよ、と紡いで、カーミラは彼の片手を引き寄せた。


「わたしが助けたあと、自分がなにを言ったか覚えてる?」


「ごめん、よく覚えてない……ありがとう、かな」


「ええ、正解。でも続きがあるわ――もうこんなことしないで、そう言ったのよ」


 それはカーミラにとって、大きな不意打ちだった。言葉では謝意を受け取りはしたが、少しも英雄願望は満たされない。アルフレドに一目置かれ、級友から恐れられても、ユウリスだけは彼女を特別扱いしなかった。そればかりか、顔を見れば面倒くさそうに避けようとする始末だ。


「俺、カーミラを避けてた?」


「やっぱり覚えてないのね。ほんと、ひどかったわ。わたしの顔見ると、すごく迷惑そうな顔をするの。それでこっちも意地になっちゃって、あなたを追いかけまわすようになったわ」


 カーミラの目に映っていた昔のユウリスは、神学校が終わっても真っ直ぐ家に帰るような男の子ではなかった。人気のない場所で緩慢に景色を眺めているか、習い事に行くかの二択だ。


「ほんとうに毎日毎日、自分でもよくあんなにユウリスのことばかり見ていたものだって呆れるくらいに」


 定期的に通っている武術道場では、いつも女性の剣士を相手にして負けていた。街を歩けば忌み子だと気味悪がられ、ひどいときには酔っ払いに絡まれる。


 ユウリスの逃げ足は速くて、カーミラも競うように走るのが得意になった。泣いている迷子を見ると、必ず声をかける。親を見つけても、礼を言われるどころか罵られるのが常だ。


 それでも同じように、困っている人は見捨てない。老人に悪態を吐かれても、腰を痛めていれば荷物を代わりに運んであげている――そんな彼の日常を追体験するように、彼女はずっと追いかけた。


「わたしね、あなたは馬鹿なんじゃないかと思ったの」


「……ひどい」


「だってそうじゃない。自分に優しくない相手に親切心を起こしたって、感謝もされないのよ。それなのに懲りないし、学習能力がないのかしらって不憫ふびんに思ったくらいよ。でも、あるとき気付いたのよね」


 忌み子と呼ばれて街中から嫌われる少年は、善行に見返りを求めていなかった。


 迷子を親に届けたとき、老人の世話を焼いたとき、彼は事を終えると即座に踵を返す。ときには良識のある大人が礼を伝えようとしても、ユウリスは最初から聞こうとすらしていない。


「あなたは誰かのためにじゃなくて、自分のために行動していた。最初から嫌われているのがわかっていたから、他人に期待なんてしなかったんでしょうね。でも、それならなおさら街の人を助ける理由ってなんなのかしらって、わたしはすごく不思議だったの」


「俺は、そんなに大層な人間じゃないよ」


「それだけが間違いよ、ユウリス。それが自分の魅力で欠点でもあるのに、あなた自身は気付いていなかった。そしてわたしは、その行動が意味する答えを見つけてしまったの……ユウリスはただ、自分に正直だっただけ。こうしたい、ああしたいって気持ちに、真っ直ぐだったのね」


 泣いている子供がいたら、可哀想だと手を差し伸べる。困っている老人がいたら、不憫だと寄り添う。酔っ払いに絡まれたら、面倒くさいと逃げる。いじめられるのは嫌だから、諦めずに反抗する。


 神学校でつきまとってくる変な女子は不可解で、なるべく関わりたくない――彼は周りの目よりも、自分の心を信じて行動していた。それがカーミラには新鮮で、気付けば恋に落ちていた。


「最初はユウリスみたいになりたいって思ったの。他人の言葉や評価に惑わされないで、自分を貫く立派な淑女。でも、あなたって本当に要領が悪いんだもの。親が見えたら子供をひとりで行かせればいいのに、最後まで付き合うし。たくさん買い物をした日、あなたに荷物もちをさせようとして待ち伏せているおじいさんにも毎回ひっかかってるし」


「え、あのおじいさん、いつも偶然じゃなかったの!?」


「ほらね、これだもん。我慢できなかったわ。あなたには、わたしが必要だと思ったの。それと同じくらい、わたしを必要としてほしかった。ユウリスに認められたくて、振り向いてほしくて、いつの間にか必死にあなたを追いかけていたわ。それなのに最初に告白してきたのがアルフレドよ。わたし、本気でがっかりしたんだから」


「カーミラは、最初からアルフレドに冷たかったよね」


「だってあいつ、べつにわたしが好きで告白してきたわけじゃないもの。わたしがユウリスばかり見ているから、それで対抗心を燃やしたのよ。ほんと、馬鹿よね。それに気付かないユウリスもたいがいだけど」


「すごい風評被害」


 気付けば、触れ合った二人の指は仄かな熱を帯びている。しかしちょうど小瓶が満杯になり、カーミラは腕を引いた。きつく栓を閉め、月宮の露を鞄にしまいこむ。先に立ち上がった彼女は、傍らのユウリスに再び手を差しだした。


「これが、わたしの全部。あなたへの気持ち。こんなカーミラ・ブレイクを、ユウリスは好きでいてくれる?」


 その手を迷わず取り、ユウリスも立ち上がる。出会った頃は同じくらいだった身長も、いつの間にか少しだけ差が生まれていた。身を寄せてくるカーミラを抱きしめて、石鹸の香りがする赤毛に鼻を寄せる。心臓の音は相変わらずうるさいが、先ほどよりは心地よい。


「いつも言わせてばかりでごめん。好きだよ、カーミラ」


「わたしもよ、ユウリス。あなたのことが、大好き!」


 ブリギットで信奉しんぽうされているダーナ神教では、古くから童貞と処女が美徳とされている。男女が婚前に関係を深めるのは不道徳とされ、その習慣は現代でも変わらない。それを承知の上で、少年と少女はそっと顔を寄せあった。互いの吐息を感じて、どちらからともなく息を止める。


 月の光に伸びる二つの影が重なり、すぐに離れて、また触れ合う――そうして何度も繰り返される、つたない逢瀬。


 鈴鳴草の奏でる爽やかな調べに、乱れた呼吸が混じる。


 やがて二人は気恥ずかしそうに頬を赤らめると、手をつないで探索を再開した。

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