12 聖なる夜に口づけを

≪戻るわよ、坊や≫


 気がつくとユウリスは、イルミンズールの根に佇んでいた。


「ここは……」


 最後に見た記憶と同じく、大樹の膝元に抱かれたオリバーの姿もある。未だ夢と現実の狭間を彷徨う、そんな浮遊感のなかでユウリスは呆然と呟いた。


「まさか聖オリバーがブリギットの指環そのものだったなんて」


「このスクーン石は誰の手にも渡らない。オリバーというスクーン石はイルミンズールに取りこまれたから。でも同時に、この場所とダーインスレイブさえあれば、因果を調律する力は自在に操れる。坊や、此処が現実世界のどこに該当するかわかる?」


「勘だけど、森の礼拝堂辺りかな」


「ご名答。敵がスクーン石の存在に気付くのは時間の問題よ。日が経つほどに森の調和は崩れ、妖精と人間の世界の境界も曖昧になる。あるいはもう、露見しているかもしれない」


 ≪リッチ≫やミアハの人形を手駒として扱える存在ならば、オリバー大森林に溶けたスクーン石にも必ず気がつく。


 残された時間は多くないと、そうリュネットは警告した。


「覚えておくのね、もし悪人がダーインスレイブを手にすれば、最後の仕上げは森の墓地で行うはずよ。スクーン石で何をするつもりかは知らないけど、奇蹟と同等の災禍が起きるのは間違いないわ」


「そこ、ちょっとわからないんだけど、ダーインスレイブは必須なの?」


 スクーン石には動力源が必要だという構造は理解したが、それがダーインスレイブである必要はないように思える。他の方法でスクーン石が使用される危険性に頭を悩ませるユウリスに、リュネットの答えは明朗だ。


「いいえ、度重なる使用がスクーン石とダーインスレイブを繋いでいる。タラの丘にあるスクーン石に限れば、発動の鍵となるのは間違いなくダーインスレイブよ。まさに、ブリギットの剣と指環ね」


「スクーン石って、他にもあるの?」


「ややこしくなるから、その話題は却下」


「じゃあ、ブリギットの剣を継承したヘイゼルなら先手を打てるかな?」


「やめておきなさい。神話の武器なんて、おいそれと使うものじゃないわ。最悪、オリバーの二の舞よ」


 ユウリスは、大樹に抱かれた男の子に改めて視線を注いだ。


 あどけない寝顔が可愛らしく、死んでいるとは信じ難い。


 オリバーとリュネット。ふたりの間に特別な絆があるのは、これまでのやりとりで察していた。ユウリスが質問を躊躇ったのは、ほんの一瞬――いまはできうる限りの情報が欲しいと、浮かんだ疑問を口にする。


「リュネット、オリバーはどうして死んだの?」


「洪水の直後に、人間の手で殺されたわ。異教徒狩りよ」


 底冷えするほどの鋭利な憎しみを宿して、リュネットは吐き捨てた。


 異教徒狩りは、大洪水にまつわる歴史の暗部だ。女神ダヌを崇拝する信者の一部が暴徒化し、異邦の神を信奉する者たちに私的な制裁を加えたと言われている。


 オリバーが信奉していたのは、家に古くから伝わる異邦の神だとリュネットは語った。家は母親と二人暮らしで、暴徒に襲われた女子供に抗う術はない。


 それを聞かされたユウリスは、更に混乱を深めた。


「だけどオリバーは奇蹟を認められて、ダーナ神教に列聖を――」


 そこまで口にして、ユウリスはハッと息を呑んだ。


 オリバー大森林の礼拝堂には、女神ダヌの印がない。


 異教徒狩りで失われた命を慰めるのが主な目的だと聞いていたが、他の理由に考えが及ぶ。


「それだけが理由じゃなかったんだ。市と教会は災害の混乱を治めるために、オリバーの奇蹟を利用した。でも、彼はダーナ神教の信者じゃないから、礼拝堂にダヌ神に印を頂くわけにはかなかった」


 信仰の偽装は教会法における大罪だ。だが異教徒のままオリバーをダーナ神教の思惑に呑み込めば、誰の手も汚れない。


 ユウリスは肩に乗るケット・シーに顔を向けると、悲し気に目尻を下げた。


 二人で収穫祭を散策した日、路地裏で見せた彼女の表情が脳裏を過ぎる。


 瞼を落としたリュネットは、吐息を震わせた。


「あたしが森から駆けつけたときには、もう手の施しようがない状態だったわ」


 頭を潰された母親に抱かれ、オリバーも命を終えようとしていた。白い肌は血と痣で黒く淀み、まぶたれて目も開けない。


 それでも彼は、リュネットに気付いて柔らかく頬笑んだ。


「リュネットが昔、いっしょに暮らしていた人間って――」


「ええ。あたしは、オリバーの飼い猫だったの」


 オリバーは朦朧もうろうとした意識のなかで、飼い猫の毛並みを優しく撫でた。血の巡りが失われた肌の、冷たい指先の感触。死の瀬戸際でも、少年は飼い猫の無事を心から喜んでいたという。


 取り乱すばかりのリュネットに、大丈夫だよ、と細く届いた声が、いまも耳の奥にこびりついて離れない。


「そのとき、地震が起きたの。大きな揺れよ。洪水が運んできた泥が波のように蠢いて、あたしたちにも雪崩れ込んできた。そのなかに、感じたの――清廉な神々の波動。神秘を秘めた、とても大きな力を」


 リュネットはわらにもすがる思いで、汚泥おでいを掻き分けた。そうして掘りだした箱の中身こそ、ブリギットの剣と指環。


 ダーインスレイブとスクーン石だ。


「当時、二つの至宝を管理していたのはレイン家のはずよ。洪水のせいで宝物庫から流れたのか、火事場泥棒が盗んで落としたのか、どっちでもいいわ。これでオリバーを助けられると思った。でも、あたしには扱えなかった」


 人間よりも鋭利なケット・シーの知覚に、ダーインスレイブの誘惑が働いた。不敗の剣と呼ばれる女神の至宝は、使用者の憎悪を刺激する。思考が真っ黒に染まり、血潮が恨みで沸き立つと、リュネットの心は殺意に支配された。


 胸の奥底から、無限に沸き上がる憤怒。


 その矛先は、オリバーを傷つけた暴漢たちに向けられた。


「顔も知らない奴らを、頭のなかで何度も八つ裂きにしたわ。殺せと命じる自分の声を、とても心地よく感じた。そんなあたしを救ってくれたのも、オリバーよ」


 オリバーは最後の力を振り絞り、小石を投げた。視界は閉ざされ、特別な能力もない。それでも飼い猫の危機を肌で感じた少年の行動が、ケット・シーを悪意の沼から救いだしてくれた。


 頬を叩くつぶての衝撃でリュネットは理性を取り戻し、舌を噛んだという。


 そして痛みを糧にして誘惑に打ち克つと、瀕死の少年にブリギットの剣と指環を届けた。


「あたしは最後の分岐点をオリバー本人に委ねた。それがあの子に、最悪の運命を背負わせるなんて考えもせずにね」


 結果として、オリバーの無垢な心は女神の至宝を射止めた。ダーインスレイブを正しく用いれば、スクーン石の権能があらゆる願望を叶えてくれる。


 しかし少年の献身は、リュネットの想像を超えていた。


「まずは至宝の力で自分の怪我を治せばよかったのよ。他人なんて、後回しにすればいいじゃない。それなのにあの子は、あの子は――」


 オリバーは自らを顧みず、悲しみに暮れる人々の救済に祈りを捧げた。


 そして奇蹟は成され、ブリギットは復興の道を辿る。


 神の領域に踏み込んだ少年は、人知れず創生の大樹に呑み込まれた。


 人としての生は終え、いまもなおスクーン石の力を宿した器として眠り続けている。


「ねぇ、坊や、オリバー、教えてちょうだい。あたし、なにを間違えたの?」


 目元を彩る紅い化粧を滲ませて、リュネットは溢れる熱を吐き出した。無力と悔恨に蝕まれた叫びに、オリバーは応えない。昂ぶる激情は堰を切り、止め処なく溢れ続ける。


「自分を大事にしない奴なんて、大っ嫌い。残された相手の気持ちを踏み躙って、自分だけ満足して、ほんと最低。知らない誰かなんて放っておいて、あたしを助けなさいよ。友達じゃない。ボケッと寝てないで、なんとか言いなさいよ」


 腕を伸ばしたユウリスは、ゆっくりとリュネットを持ち上げた。そっと胸に抱いて、白い毛並みに包まれた背中をさする。


 収穫祭の路地裏で向けられた言葉の意味をいま、ようやく理解した。


 指を濡らす悲しみの滾りを、噛み締めるように受け止める。


「リュネット、ごめん」


「謝らないでよ、馬鹿。坊やまでこんな風になったら、絶対に許さないからね」


 これまで無茶を通してきたユウリスには、耳が痛い。


 いつまでも聞こえない返事に、リュネットは鼻水を啜りながら顔を上げた。涙を前脚で拭い、じろりと睥睨する。こんなときに気休めも口にできないようでは先が思いやられると、本気で不安になる。


「あたしが、こんなに心配してるってのに」


「え?」


 間抜けな声が、リュネットの悲しみを怒りに変えた。オリバーに対する積年の後悔や鬱憤うっぷんも、急にたぎりはじめる。それでも揺れ動く感情は、どこか心地よい。抱かれた腕の安心感が、余裕を与えてくれた。


 名案を閃いたケット・シーが、戸惑うユウリスを見上げる。


 妖精はいつも、人間を惑わす存在だ。


「約束を破ったら、ケット・シーになるって誓える?」


「え、えええ⁉」


 本気で嫌そうな顔をするユウリスに、リュネットは蠱惑的こわくてきな笑みを浮かべた。ケット・シーの誓約は魔術の儀式であり、違える不義理は許されない。しかし悪戯な妖精の戯れを、旦那様、と木霊するロディーヌの声が妨げた。


 ほっと胸を撫で下ろしたユウリスが、わざとらしく視線をまわす。


「あれ、ロディーヌだ。ここって歩いて来られるんだ」


「そんなわけないでしょう。妖精の世界は精神の領域よ。願えば届く、想いの庭。坊やを恋しがるお嬢ちゃんの熱が、ここまで届いたみたい。仕方がないわね、そろそろ帰りましょうか。それで、誓いはどうするわけ?」


「ぜ、善処するから勘弁して。オリバーともこんな感じだったのなら、彼に同情するよ」


「あら、気になるのね、ヤキモチかしら。安心なさい、オリバーはケット・シーなんて夢物語だと思っていたはずよ。あたしも普通の猫として振る舞っていたしね」


 ユウリスは最後に、もう一度だけオリバーに視線を注いだ。


 伝説の聖人は、確かに実在した。


 飼い猫と平穏に暮らしていた、平凡な男の子。


 奇蹟と引き換えに魂を囚われたというが、それが実際にどういう状況かは理解が及ばない。


「リュネット、オリバーは――」


「もしかして坊や、せめてオリバーを森から解放できたらとか考えてるんじゃないでしょうね?」


 図星を指された。表情を強張らせるユウリスの胸を、ぺちん、と猫の尾が叩く。呆れたような半眼のリュネットは、それでも口元を綻ばせながら首を横に振った。


「ありがとう。でも、オリバーが此処にいるのは奇蹟の代償よ。無理やり引き剥がそうとすれば、今度は坊やがしっぺ返しを食らうかもしれない。それとも、あたしの心配をもう忘れた?」


 自分を大事にしない奴なんて、大っ嫌い。


 リュネットの言葉に宿る憤りと優しさを思い出し、ユウリスは噛み締めるように頷いた。オリバーに別れを告げて、創生の大樹に背を向ける。


「まずは立派な闇祓いになるよ。自分も守れて、誰かを助けられる力を身に着ける。そうしたらリュネットにも頼ってもらえるはずだから」


「どうかしら。やっぱり誓約は必要だと思うわ。無茶ばっかりの坊やは、三日と持たずに約束破りでケット・シーになりそうね。あたしと結婚したんだから、森の王子になれるわよ?」


「とりあえず、今夜だけの王子様気分を堪能するよ」


 数歩進むと、不意に目の前が白い光に覆われた。眩しさに目を細めていると、妖精の騒ぐ声が耳に届く。


 視界が晴れると、そこは式を挙げた宴の場だ。


 懲りないペローが、すれ違うケット・シーに求婚しては袖にされている。


「ユウリ――だ、旦那様!」


 いまさら恥ずかしくて名前は呼べないと、頬を紅く染めたロディーヌが駆けて来る。ブラムは杯を掲げ、唇の端を優雅に吊り上げた。


 夜会は終わらない。


 ゆったりと降る浅葱色の雪に包まれて、飲めや歌えの大騒ぎだ。


 魔性の声を伸ばしたリュネットが、ユウリスを誘惑する。


「盛り上がっているみたいだし、もう一回くらい愛を誓い合うのはどうかしら?」


 聞き咎めたロディーヌの房毛が、鋭利な刃のように逆立つ。


「ま、待ちなさい。そ、それなら次は私の番じゃないかしら」


「お嬢ちゃんは、さっき振られてたじゃない」


「み、見てたの!? そういう貴女だって、袖にされたんじゃなくて?」


「いい度胸ね、あたしと勝負するつもりなら受けて立つわよ」


「なら、この場ではっきりさせましょう!」


 女の戦いに、妖精たちが沸いた。


 プークの楽団が弦を弾き、太鼓を叩き、笛を吹き、ケット・シーは愛の唄を紡ぐ。


 ブラムに助けを求めようとしたユウリスを、二人の花嫁が覗き込む。


「坊や!」

「旦那様!」


 重なる声は清々しく、愛情に満ち溢れて。


「――ねえ、どっちと結婚するの?」




 月の雫に、花の冠


 香りの粒を木の実にまぶして

 星月夜の下、舞い踊る


 土を肥やして踏み鳴らし

 夢のまにまに酒を注げ



 風の口笛、羽根の弦


 聞かせてあげよう祝いの歌を

 可愛い君が望むなら


 月の精と星の化身

 碧の潮に蝶が舞う



 月の雫に、花の冠


 永久に誓おう、純潔を捨てて

 愛しい君に捧げよう


 薔薇の真紅は恋の色

 無垢の恥じらいを彩って


 聖なる夜に口づけを

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