04 秘密の花園

 ブリギット大聖堂は中央区と南区の境に建立こんりゅうされた礼拝堂だ。教会とも略称される。総面積は中央区の二十分の一を占め、豪華絢爛ごうかけんらんな施設は観光地としても名高い。そして十四年前、み子の災厄と呼ばれる凶事に見舞われた場所でもある。


 ユウリスにとって、これほど気後れする場所はない。


「ヘイゼルが教会のどこにいるか聞き忘れた……まさかシスティナ礼拝堂かな」


 夏の休暇で訪れる外国の観光客が、システィナ礼拝堂の入り口に長い列を成していた。天を突く荘厳な外観もさることながら、内部は芸術文化の歴史を凝縮した彫刻や装飾に彩られ、地上に築かれた楽園と称される。地元民は聖オリバーに由来する北の大森林を誇る傾向が強く、ブリギット大聖堂の九割は観光客、残りの一割は職員とも噂される。


「ほんと、ここだけは一年通して人が絶えないよな。さて、どうしようか」


 ユウリスは辟易として、考えを巡らせた。


 義妹いもうとの迎えを申し出れば、係員の協力を得られると思う反面、忌み子の来訪を騒がれる懸念も拭えない。左顧右眄さこうべんに視線を泳がせていると、敷地内の茂みで不自然に動くものに気付いた。


「あれは……?」


 正門脇の草薮くさやぶうずくまる姿がある。近くの係員は観光客の整理に手一杯で気付く気配はない。有料の施設を除き、教会敷地内の立ち入りは自由だ。古き良きグレスミアン建築様式の外観を眺め、雄大な庭園を散策する者も珍しくない。


「観光客かな――」


 駆け寄ったユウリスの目に映るのは、緑のケープを羽織る白髪の老婆だ。やせ細った身体を丸め、肩を震わせながら植え込みに横たわっている。肌は血の気を失い、額に浮かぶ汗は尋常な量ではない。


 覗き込んですぐ、ユウリスは熱中症だと判断した。


「大変だ、すぐに人を!」


 係員へ報せに行こうとするユウリスの腕を、老婆の手が弱々しく掴んだ。首を横に振り、か細い呼吸であえぎながら、行かないで、誰も呼ばないで、そう訴える。


「でも……」


 ユウリスは困り果て、逡巡しゅんじゅんした。適切な処置を怠り、大事に到るのは心配だ。しかし簡単に振り解けてしまえそうな老婆の指が、それでも必死にすがってくるのを、どうしても無下むげにはできない。


「わかりました。でもここにいたらいけません、日陰で休みましょう」


 途中、観光客の夫婦が異変に気付き、手を貸してくれた。老婆を担ぎ上げると、まるで枯れ木のように軽い。ユウリスは目を見張り、彼女を木陰の長椅子ながいすに座らせた。


 容態を判断する材料はなく、ひとまず汗に手拭をあてがうことしかできない。


「君のおばあちゃんは大丈夫かい?」


「もう、大丈夫じゃないから倒れていたんじゃない!」


 売店に赴いた夫婦が、二人分の果実水を用意してくれた。ほのかに甘酸っぱい、レリンの香りが漂う。


「ありがとうございます。すみません、お金――」


「いいのよ、気にしないで。貴方たちも観光客よね、どちらからいらしたの?」


「いや、それより誰か呼んできたほうがいいんじゃないか?」


 ユウリスの黒髪も、ブリギットでは珍しい。夫妻は、祖母と孫の組み合わせだと勘違いしていた。礼を告げたユウリスは間違いを訂正することなく、係員への声掛けを辞退した。老婆が無言で丸薬がんやくを服用するのを目にしたからだ。熱中症ではなく、なにかの持病かもしれない。


 親切な観光客が立ち去る頃には、彼女も落ち着きを取り戻していた。


「どこか痛いとか、苦しいところはありますか?」


 大丈夫かと尋ねて、大丈夫だと答えられても困るので、ひとまず質問形式で意思疎通を図る。老婆の返事は、存外にしっかりとしていた。


 丁寧な言葉遣いと落ち着いた声は、どこか気品を感じさせる。


「ご親切にありがとうございました。ええ、もうなんともありません。胸をわずらっておりまして、今朝は調子が良くて薬を飲まずにいたら、この有様です。本当にご迷惑をおかけしました。失礼ですが、あなたはもしかして、ユウリス・レイン?」


 一目で素性を看破され、ユウリスはぎょっとした。


 老婆の瞳はブリギット系の特徴にない紺碧こんぺきだが、地元民のようだ。老婆はマライアと名乗ったあと、驚かせたことを謝罪した。


「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったのよ。さあ、隣に座って?」


 ユウリスは誘われるまま彼女の傍らに座り、共に露店のジョッキを傾けた。すっきりとしたレリンの果実水喉を潤すと、暑さもほどよく和らいだ。


「私は北東部の小さな国で生まれでしたが、戦災で故郷を焼かれ、難民となりました。ブリギットへ流れ着いたのはちょうど、赤子のあなたが連れて来られたのと同じ時期です」


「忌み子の噂で街中が怯えていた頃?」


「ええ、なんでも赤ん坊のあなたがブリギットに現れた日、教会の水は黒く染まり、聖書は紫の火に焼かれ、蝋燭ろうそくの火が消え失せ、目撃者の司祭は数日後に行方知れず――鵜呑みにしたつもりはありませんが、正直とんでもないところに来たと面食らったものです」


 おどけた調子で口にする様は、どこかウルカに似ている。冗談めかしてくれるので、ユウリスも思わず吹きだした。マライアは目尻に深いしわを寄せ、穏やかな口調で続ける。


「慰めにはならないでしょうが、あの司祭失踪事件はあなたばかりでなく、私のような移民にも疑いの目が向けられました。捜査熱心な警官にわけもわからないまま連行され、取調室で頭をひっぱたかれたのです。まあ、拳で鼻っ柱を殴り返してやりましたが」


「警官を殴ったの? 移民になってすぐに?」


「それがなんです。難民であろうと、人としての尊厳を忘れたつもりはありません。その後は三日間も留置場に放り込まれて、謝罪もなく開放されました。それ以来、あの警官の言うことは何も信じていません。だから、あなたの噂もきっと嘘ですね」


 ニヤリと唇の端を上げる仕草は茶目っ気に満ちて、ユウリスは不思議と心が軽くなるのを感じた。そこでふと脳裏に過ぎる横暴な警官の顔に、まさかという思いで尋ねる。


「マライアさん、その警官って――」


「呼び捨てで構いませんよ、杯を掲げて飲み交わした仲ですから、もう友人です。堅苦しい言葉遣いも不要です。あなたがお嫌でなければね、ユウリス・レイン。でも、年長者の言うことは聞くものですよ」


 けっきょくは指示通りにしろということか。柔らかな物腰ながら有無を言わさぬ姿勢に、ユウリスは頬を引きつらせた。気を取り直して砕けた口調で聞き直すと、マライアは満足気に頷いた。


「ええ、あなたもご存知でしょう、オスロットです。当時は一介の警官でしたが、いまは警部でしたか。なんでも公爵家の庭で粗相をしたとか?」


「その話はやめてあげよう、さすがに笑えない」


「では、彼に幸あれと」


 それでも二人の口元は緩んでしまい、横暴な警官の不幸を祝うように杯を打ち鳴らした。オスロット警部はユウリスを目の仇にし、忌み子の噂を十四年に渡り吹聴する男だ。しかし移民も嫌いなのだろうかと首を傾げた少年の疑問を、マライアは否定した。


「いいえ、気に食わない男ですが、事件を解決したいという熱意は本物のようです」


「事件――忌み子の凶事で姿を消したっていう、司祭のこと?」


「失踪したサイモン・ウォロウィッツ司祭は、オスロットの親友と聞きました。彼は取り調べで言っていましたよ、サイモンが自分に何も告げずに姿を消すはずがない、忌み子の呪いか、移民のクソ野郎が餌食にしたに違いないと」


「失踪した司祭と、オスロット警部が親友だった?」


 ウォロウィッツ司祭。何度か耳にした名は、目を背けるように記憶から遠ざけていた。苦々しく果実水に視線を沈めた少年の肩を、杯を空にしたマライアが軽快に叩く。温くなりますよ、と忠告され、ユウリスも一気に果実水をあおり、空のジョッキを露店に返却した。


「マライア、身体の具合は?」


「ええ、本当にもう大丈夫です。それにしても、あなたが教会にいたのは誰の導きでしょうか。礼拝に来た――というわけではないですね、いまも居心地が悪そうに見えます」


義妹いもうとを迎えに。聖歌の練習に来ているそうなんだけど、場所がわからなくて」


「それならばたぶん、東側のスィスラナ礼拝堂でしょう。可愛らしい合唱が聞こえました」


 マライアは腰をあげるが、すぐにふらついた。腕を伸ばして支えたユウリスが、まだ休んでいた方がいいと案じる顔を見せるも、老婆は首を左右に振る。


「いいえ、このあと約束があります」


「こんな状態で、約束なんて!」


「お薬を頂きに病院へ行くのです。お節介な友人が付き添ってくれるので、待ち合わせに遅れるのも悪いでしょう。ただ最近は不調でお祈りもできませんでしたから、今日こそは済ませておきたいのです」


 物腰の柔らかさに似合わず、頑固な老婆だ。


 ユウリス溜め息をついて、彼女を礼拝堂まで送ると決めた。システィナ礼拝堂をはじめとして、大聖堂は広大な敷地に五箇所の祈祷場を擁するが、観光客で混雑は明らかだ。人混みが容態に影響する懸念は拭えない。


「お祈りは分教会でしたらどう?」


 大聖堂の敷地外に点在する礼拝堂は、分教会と呼ばれている。外国人の賑わいを嫌う市民に愛されており、人も多くない。しかしマライアは譲らず、頭を横に動かした。


「どうしてもここが良いのです」


「しかたないなあ」


  彼女に肩を貸しながら歩きはじめたユウリスは、そこですっきりとした花の香りに気がついた。


「香水……?」


淑女しゅくじょたしなみみですよ、ユウリス・レイン。ただ夏場は特に汗臭いのを隠すためにつけるもので、口に出すのは紳士的ではありませんね」


 ユウリスは自分の振る舞いが急に恥ずかしくなり、顔を上気させた。この老婆には、つい見栄を張りたくなる不思議な魅力がある。


 マライアは少年の反応を楽しむように、唇の端を上げた。


「ヴェルヴェーヌの花です」


「ヴェルヴェーヌ?」


「昔日の故郷トゥレドに咲いた花ですよ」


 近いのは果実水や料理の付け合せに使われる、甘酸っぱいレリンだろうか。柑橘かんきつ系の爽やかな香りが気分を落ち着けてくれる。マライアの声に、郷愁きょうしゅうの色は感じられない。過去を思い出として語りながら、その残り香をいまも纏うことを、ユウリスは矛盾に感じた。


「さっき、戦災難民って言ってたよね。聞いてもいい?」


「昔の話です。私の故郷トゥレドは、六王戦役で滅びました。土地は新聖帝国エーディンの統治下に置かれていますが、いまは廃墟に怪物が棲みついています」


 話の区切りに辿り着いたのは、奇妙な花園だ。


 大聖堂の奥で息を潜める、鉄の柵で覆われた庭。色とりどりの花はブリギットにない品種ばかりで、動植物の往来に厳しい教会とは思えない光景だ。先には、こぢんまりとした礼拝堂が佇んでいる。ダヌ神の御印みしるし――円に囲われた星の象徴は飾られていない。


「マライア、ここは?」


「私の礼拝堂です」


 開かれた庭園の門前に、古い木の椅子に腰掛けた中年司祭の姿がある。読書にふける彼は来訪者に気がつくと、項を閉じて穏やかに目尻の皺を刻んだ。


「マライアさん。お久しぶりです。おかげんはいかがですか?」


「ごきげんよう、司祭殿。年寄りの冷や水というのを、日々実感しているところです。いまもこの少年に助けられていなければ、危うくダヌ神に連れていかれるところでした」


 老人の健康状態に関する冗談は、聞く側には諧謔かいぎゃくと笑えない。同時に苦笑した司祭とユウリスを睥睨へいげいし、本気にしないでもらいたいですね、とマライアは不満げに口を尖らせた。


「ともあれユウリス・レイン、改めて感謝します。あとはもう、わたしひとりで平気です」


「貴女の平気は、あんまりあてにならなそうだけれど」


「おや、私の見立てでは、あなたも周囲から同様の評価を得ているのでは?」


 今度はユウリスが、どういう意味だと顔をしかめる番だ。逆にマライアは口元を緩め、少年の頬を柔らかな手つきで撫でた。


「ユウリス・レイン」


 彼女の指がすらりと下に滑り、少年の左胸を叩いた。


「あなたは善人です。尊敬すべき心の持ち主でしょう。いとわれながらも他人に優しくできるのは、とても尊いことです。ですが同時に、怒りも大切な感情であると私は思います」


「え、なに、急に?」


「もう少し聞き訳の悪さを覚えなさい。胸の重さに慣れては、いつか引き返せなくなる。少し話した程度でもわかりますよ、ユウリス・レイン。あなたは物分りが良過ぎる」


 案じてくれたことは十分に伝わるが、唐突な助言には驚くばかりだ。まるで以前からの知り合いにも思えるが、やはり初対面であることは揺るがない。親身に心を砕いてくれた彼女に嬉しさと気恥ずかしさを覚えながら、ユウリスは頷いた。


「少し前にわがままを言って、いまは父と喧嘩中」


「良いことです。親などたくさん困らせてあげなさい。ではユウリス・レイン、私の神があなたにも加護を与えますように」


「“私”の神――?」


 問いかけたつもりだが、マライアから返る言葉はない。花園に歩き去る後ろ姿に、伸びる影は寂しげだ。


 司祭は和やかに目を細め、珍しいお客様だ、とユウリスに声をかけた。


「こんにちは、ユウリス・レイン。大聖堂へようこそ。君が足を運んでくれたことを嬉しく思います。けれど、ここがどういう場所かは知らずに来たようですね」


 見知らぬ司祭に思わず身構えるユウリスだが、その通りだと頷く。


 司祭は視線を庭園に移し、この場所は多神教の祈祷場きとうばだと教えた。ダヌ神と、その眷属である神々を信奉するダーナ神教とは一線をかくす、数多の神へ礼拝する場であると。


「七王国ではダヌを主神とするダーナ神教が国教として定められています。ですが世界各地には、ダーナ神教以外の主を崇める信仰が存在するのは知っていますね?」


「異教徒――」


「その言葉をきっかけに、目を覆いたくなるような争いが幾度と起こりました。有史以来、利益を求める戦の何倍も血を流したのは、信仰を異とする者たちの争いです。そのなかで最後まで立ち続けたのは、ダーナ神教でした。私はすべてが主のお導きだと信じています。ですが異教徒や蛮神という言葉は、できれば無くなってほしいと、そうも思うのです」


 ゆっくりとユウリスへ向けられた司祭の表情は、異教徒という単語をとがめるものではない。血塗られた歴史に心を痛め、末来への憂いと平穏を祈る、複雑な笑みだ。


 ユウリスは不見識を恥じて、二度と使いません、と首を横に振った。

 ただ理解してもなお、この場所を不思議には思う。


「つまりここは――」


「ええ、すべての神がおわす祈りの場。誰もが己の主へ拝礼を許される、秘密の花園です」


 ダーナ神教以外の神。


 異教徒の祭礼の場を、ダーナ神教の教会が用意している――信じ難い光景に、ユウリスは混乱した。宗教戦争の歴史は、基本的にダーナ神教を美化して語られる。異教徒は敵。偽りの神を信奉すれば、死後の楽園ティル・ナ・ノーグの道標は失われる。


 信仰心に薄いユウリスですら、ダーナ神教の正しさを疑うことはない。


「教会は、その、他の神様を信じる人たちを、許せるんですか。戦争までしてきたのに」


「信仰というのは、本当に難しい。他の神が存在することで、自分の主が否定されたように感じてしまう人もいる。それもまた間違った感情ではないのでしょう。ですが信仰の違いで血が流れることを許してはいけません。主が女神ダヌであることに疑いはありませんが、神が人の数だけいることを認める寛容さも必要だと考えています」


「それは、わかります。けれど、どうしてダヌ神の教会がここまでのことを?」


「すべては聖オリバー様のお導きです」


「聖オリバー様……オリバー大森林の?」


 かつてブリギットを呑み込んだ大洪水は多くの命を奪い、亡骸なきがらが市中に溢れた。誰もが絶望に打ちひしがれるなか、すべての遺体をたったひとりで北の大森林に埋葬した少年の逸話がある。史上最も早く列聖れっせいされた彼の者こそ、オリバー少年――聖オリバーだ。


 森の墓地には慰霊碑いれいひと立派な教会が建立され、現在はオリバー大森林と呼ばれている。御伽噺おとぎばなしのように聞こえるが、三十余年前の実話だ。


 ある年齢以上ならば、聖オリバーを実際に目にしたことがある者も多い。


「そういえば、オリバー大森林の礼拝堂にはダーナ教の印や神像がなかった……」


「死者の魂がすべからく神の御許へ旅立てるようにと、教皇様の計らいでそのようになりました。哀しいことですが、森の墓地に埋葬されているのは被災者だけではありません。大洪水のあと、多くの流言蜚語がありました。そのなかで最も残酷だったのは、洪水は異教徒のよこしまな儀式が原因だ、という悪意に晒された被害者たちです」


 信仰は心のり所だ。災害の恐怖に駆られた人々は、自分達とは違う神を悲嘆のはけ口にした――異教徒狩り、そう口にした司祭の声は苦悶に満ちている。


「多くの人が身を守る為、軒先にダーナ教の印を掲げました。しかしそれができなかった方々もいます。己の神を敬う気持ちに背かなかった者の命は、むごたらしく奪われました」


 自分の暮らす街で起きていた悲劇に衝撃を受け、ユウリスは言葉を失った。ダーナ神教の印を掲げていなければ、隣人であろうと撲殺された時代。


 想像するだけで、吐き気がする。


「神学校ではそんなこと、ひとつも教えてくれませんでした」


「忌まわしい歴史です、為政者は恥を教訓として残すより、捨て去ることを選びました。そして我々も無垢の礼拝堂を建立し、贖罪しょくざいに怯えている。この秘密の花園は、本山には内密で建立されました。ヌアザから視察団がお見えになるときには、隠してやり過ごします」


「父上――レイン公爵は、このことを?」


「ご存知どころか、建設の主導をなさったのはセオドア・レイン公爵です。ご子息に聞かせる話ではありませんが、恐らく善意だけではないでしょう。あの大洪水は、本当に多くの悲劇を生んだ。ともすれば国の存続すら危ぶまれるほどの恨みや後悔を、公爵様もこうして、ひとつひとつ塞いでいるのかもしれません」


 司祭の言葉に、ユウリスは心当たりがある。


「ブリギットの闇……」


 ウルカと出会ってからの数ヶ月で、レイン家に向けられた闇をいくつか垣間見た。オリバー大森林から重々しく鐘の音が鳴り響き、正午を告げる。


 ユウリスは初めて、鐘楼しょうろうの音色に物悲しさを覚えた。

 同時に、大聖堂へ足を運んだ本来の目的を思い出す。


「すみません、司祭様。俺、そろそろ行かないと」


 最後にマライアの体調を伝えて配慮を頼むと、司祭は快く頷いてくれた。


 もう一度だけ、すべての神に繋がるという礼拝堂を振り返る。信仰心が薄いユウリスには、神が拠り所という感覚は上手く理解できない。それでもここがマライアの安らぎになるようにと、ただ切に願うばかりだ。


「幸福を求めて祈る神のために、どうして人同士は平気で傷つけあえるんだろう」

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