グッドバイ好きな人

 演劇が終わり、お客さんたちが全員帰ってから部員たち総出で体育館の片づけに入る。俺は部長と一緒に人数不足で手伝いに来ている生徒たちに混じって、パイプ椅子の片づけに入っていた。


「無事終わったすね」

「最後の方はひやひやしたが、今年も無事に終わってよかったよ。さっさとこれを片付けて、昼飯にしたい」


 演劇終わったのがお昼前の時間、そのタイミングで片づけに入るためお昼ご飯がお預けとなり、演劇が終わった直後に休憩なしで腹が減りながらもう一働きしないといけないからPTA観覧演劇で一番つらい時間なのだ。

 一年生と安宅が「業務改善を主張します! 我々に昼休憩を要望する」とデモを起こしたが、真に残念ながら一蹴されてしまった。悔しがる安宅は「私が部長になったら絶対昼休憩実現してやる」と怨嗟がこもった声をぽつりとこぼしていたのが聞こえていた。


『どれくらいで終わりそう?』

『あと三十分ぐらいで終われるかも』

『じゃあそれまでいつもの放送室で待っているから』


 相田から送られてきたもうひと往復メッセージを返せない。まだ心の中できちんと整理ができていなかったのだ。このまま相田と付き合いを続けることを決める時間が足りていなかった。

 どうか俺に心の整理の時間をお与えください、もう少し時間が長引いてくださいと都合のいい願いを祈った。だが時間というのは授業の時間とは違って、自分に都合がいい場合には短く経ってしまい。片づけは予定よりも五分早く終わってしまった。


***


 のっぺりとした放送室の扉が重たい石壁のように見える。相田と付き合ってから何度もその向こう側へ通ってきたはずなのに、そのドアノブに触れようとするのに慄いてしまう。

 ドアノブに手をかけると、想像よりもあっさりとドアノブは簡単に回った。


「舞台お疲れ様。はい、いつもの」


 入ったと同時に相田がひょいっと投げてくれたものを受け取るともう一回宙に投げてしまった。熱かった。一回転したそれを今度は先の方で受け取るとそれはマンツーマン指導の時によくくれた蜂蜜柚子茶(ホット)だった。この時期にまだホットを売っているなんてどこで売っているんだと野暮なことを考えながら、ちびりと喉に流す。

 幸い放送室はクーラーが効いているからそこまで最悪ではないが、時期的にはやはり合わない。だがいがいがしている喉にはとてもいい。


「すっごくよかったよ劇。けどラストのはいただけないな。みんな気づいていなかったけどあれハプニングでしょ」

「バレたか」

「バレたも何も、脚本見てたからわかるもの。アドリブがよかったのはいいけど、演技は一発勝負なんだから失敗した時のことを考えないと」

「まるで本職みたいな言い方だな。ってもう本職なんだよな」


 声優の話題に切り替えると、相田はふんと珍しく自信満々に鼻息を鳴らしてカバンから一冊の台本を取り出した。


「これ、監督にお願いしてもらってきた私が出るアニメ『そしてオークは世界を蹂躙したが、ハーフオークの俺は隠居する』の台本。WEB小説原作のアニメ化作品らしいの。ファンタジーはあんまりだけどファンの方が満足できる仕上がりにしないと」

「嬉しそうだな」

「そりゃもう! ほら見て、私の台詞の量。一行とか二行とか、ガヤとかじゃない見せ場が十分あるの。しかも私の役、主人公のお師匠さんで」


 台本のページをめくっては自分の台詞があるところを俺に見せつけては、ここがすごいく難しい、原作だとなど相田が無我夢中でまくし立てて俺が話す隙を与えない。


「なあ、それ部外者に全部見せてもいいのか?」

「あー、そうだね。ごめんね無理やり見せちゃって」


 見せてくれた台本をしまいながら苦笑いをする相田。やっぱり相田の夢中になれる姿はかっこいいと思える。すごく好きだ。

 だけど。


「あのさ、付き合いを解消してほしいんだ」


 やっと話の本題に入れた。突然別れ告げられた相田は予想通りきょとんとしていた。このあとは、自分を責める言葉を浴びせるのだろうかと身構えていたが、相田の顔に失望とかの色が出ていなかった。そのことに安心している自分もいた。


「ごめん。これから声優としての第一歩を踏み出そうとしているのに水を差しちゃって。でも俺、相田といると。悪い意味で調子がくるってしまうんだ」


 本当に最悪だ。調子がくるうとか、それってだいたいいい意味で使うべきなのに前置きから悪い意味でと言ったらお終いじゃないか。迷いに迷って出てしまった自分の失言に早くも後悔の念が襲われる。だが、相田はさっきからまったく表情が変わらない。


「いいよ。実は私の方から別れを切り出そうと思っていたから」

「え?」


 いつも練習で座っていたパイプ椅子から降りると、相田はゆっくりと顔を上げてその理由を語り始めた。


「別れようと思ったのは声優学校の時、渡会さんがビルから出て行くのを見てしまったの。私、集中したいことがあると周りが見えなくなるってよく注意されたの。あの時も、渡会さんが手助けしようとしてくれていたのに、無碍にしちゃって。渡会さんの負担ばっかりかけて、ダメだなって。だから今日の演劇が終わったら、あなたの負担になるから別れようとね」


 ふるふると相田は首を振って自戒しつつも、俺を否定しない。

 ここまで文句や恨み言一つ言われないのも不思議だったが、彼女はすでに自分の欠点を認めていたんだ。


「でもいいの。私は隣に誰かいて支えてくれる人より、画面の向こうから支えてくれればそれでいいから」

「それが声優だからか」

「そうかもね。それに渡会さんは支えてやろうという人間じゃないと思う。私が最初に見かけた時のように、舞台の上で自由に演じている方があなたらしかった。あのハプニングだって、私と目が合って台詞飛んだでしょ。昨日の時点で別れを切り出せたら、そんなことなかったはずだったのに、ごめんなさい」


 ぺこりと頭を深く下げて謝罪した。

 もう相田には何もかもお見通しだった。

 どうしてこう、俺の周りには察しがいい人ばかりいるのだろう。本当に俺の周りにいる人たちはみんな、いい人ばかりだ。俺は恵まれすぎている。


「ところで、渡会さんにはもう好きな人がいるの?」


 今度は逆に俺がきょとんとされる番。

 劇の前の俺なら、好きな人はいるかという問に答えることはできなかった。俺はいつも受け身で、相手が求めてきたら返すばかりで。演劇以外好きなものはこれと言ってなかったはずだった。でも、俺にはもう、好きな人がいることをわかってしまったんだ。


「…………俺は、俺が好きなのは――一緒にいて安心していられる女の子が好きだ」

「そうなんだ。じゃあ、やっぱり自由を縛る私とは相性悪いね。ごめんねまたあなたに嫌な思いさせて」

「いや。ここで練習させてもらえて。演じる人がどれだけ過酷な所にいるのか知れてよかった」


 伝えたいことを全部伝え終わった後は、こんなにあっさりと終わるのかと体の力が抜けそうだった。しかし、ここでぐだっと空気が抜けてしまってはバツが悪い。後ろを向き、そのまま放送室を出ようとした。

 …………いや、最後に一つだけ。


「相田。お前が出るアニメ、絶対見るから。全部見るから」

「ふふっ。見るアニメの本数が増えて、時間が足りなくなっても後悔しても知らないよ」


 びしっと指をさしてほくそ笑む相田の顔に陰りの色はない。むしろ俺を試しているようすで、安心した。


 グッドバイ。好きだった人。


***


 放送室を出て校舎内を歩いていると窓の外に三田の姿が見えた。


『渡会君。先に帰ってもいい? クリちゃんに誘われていて』


 指が震える。ボタンの入力一つで震えるよりも、この窓一つ開ければ三田を直接呼び止めることができるのに、体は迷っていた。


『もうちょっと時間かかるから先に帰っていいぞ』


 押してしまった。また窓の外を覗くと、三田が安宅と一緒に校門を出て小さくなっていくのを見届けると、その場に座り込んでしまった。


「この間別れたばかりなのに、どんな顔して好きって伝えればいいんだろう」


 別れた後の距離感に俺が悩まされるとは、あの時には思いもしなかった。だが物思いにふけっても、俺の気持ちが三田に伝わるわけでもなく。ぼんやりと空を見上げているとあっという間に終業式の日となり、俺と相田が別れた噂が流れてしまっていた。

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