11
王立大学には様々な学部がある。
その中には薬学もあり、ダリウスが興味を示したために、昼前、サヴァリエはダリウスとともに王立大学を訪れていた。
午後からはダリウスはメイナードと貿易関連の最終調整のための打ち合わせが入っているためあまり時間は取れないが、授業の聴講くらいの時間は取れるだろう。
サヴァリエよりも二つ年下の大国の王子がどうしてこれほどまでに薬学に興味を示すのかはわからないが、ダリウスの真剣に知ろうとする姿勢は、サヴァリエ自身も見習うべきところがあるだろう。
「今からでは講義は途中からになってしまいますが、教授の一人に時間を取ってもらっていますので、少しであれば直接お話も可能ですよ」
ジオフロントの知人が王立大学で教鞭を振るっており、サヴァリエは事前にジオフロントを通じて彼に時間を作るよう頼んでおいたのである。
サヴァリエとダリウスは講義を聞いたあと、約束していた教授――エルンケの研究室へと向かった。
薬学部の教授は三人いるが、その中でエルンケは一番若い教授で、薬草学の専門家だ。
サヴァリエたちは教授の部屋の前で護衛の兵士たちを待たせて、彼の部屋をノックした。すると、中から若い女性の声が聞こえて、やがて扉があけられた。
現れたのはジオフロントの婚約者エデル・カーラル伯爵令嬢だった。
腰まである赤毛の髪を緩く束ねて、片手に本を抱えたエデルは、開いた扉の外にサヴァリエがいることに驚いたようだった。
「あー、ごめん、言っていなかったかなぁ。今日殿下たちがいらっしゃる予定でねぇ」
のんびりとした口調でエデルの背後から現れたのは、ぼさぼさの髪に丸眼鏡をかけた、よれよれの白シャツを着た男だった。彼がエルンケ教授で、年は四十手前、ひょろりとしたやせ型の男だ。
「先生、そういう大切なことはちゃんと教えてください」
「うーん、でもジオフロント君から聞いていると思ってたし」
「ジオ――いえ、ジオフロント様もご存じだったんですか?」
「うん。だって僕に連絡をくれたのはジオフロント君だからねぇ」
「……聞いていません」
エデルは少し拗ねたように口を尖らせた。
それからハッとすると、慌ててサヴァリエとダリウスを教授室の中に招き入れて、ソファを見て、エデルは顔を青くする。
エルンケは片づけのできない男だった。
王子たちが来ることが事前にわかっていたのなら部屋を片付けておけばいいものを、ソファや机の上には本や怪しげな薬品――さらには、変な仮面や大きな鳥の羽、食べかけのパンに、どうやらこぼしたコーヒーか何かを拭いたらしい汚れた布などが散乱していた。
「申し訳ございません! すぐに片づけます!」
エデルが誤る必要はどこにもないが、ここに居合わせた責任を感じているのか、エデルは手に持っていた本をおくと、のほほんとした顔で微笑んでいるエルンケを押しのけてソファやテーブルを急いで片付けはじめた。
この状況にも、大学の教授なんて誰もかれも変わり者だと思っているサヴァリエはたいして驚かなかったが、ダリウスは目を丸くしている。
「手伝おうか」
「殿下のお手を煩わせることでは……」
「でも、二人の方が早いし。それに……、教授には触らせない方がよさそうだ」
黒縁眼鏡の端を押し上げながらサヴァリエがエルンケに視線を向けると、片付けようと本を積み重ねていったエルンケが、積み重ねすぎて倒れてきた本の下敷きになっていた。
「先生! お願いですから動かないでください!」
エデルは頭を抱えてエルンケを本の中から救い出し、窓際の椅子に強制的に座らせると、エデルはサヴァリエに頭を下げた。
「本当にすみません」
「いいよ。待っていても暇だからね。とりあえず、このあたりのものは部屋の隅によけておけばいいのかな?」
「はい。よけておいていただければ、あとでわたしが片付けます」
「エデルはエルンケ教授の助手か何かなの?」
「……そういうわけではないのですが」
「エデルは薬学について学びたいそうで、でも父上のカーラル伯爵がお許しにならなくて、こっそりここに通ってきているんですよ」
窓際の椅子に座ってのんびりしているエルンケ教授が暴露すると、エデルが苦笑した。
エデルは幼いころから薬草学に興味があったが、エデルの父であるカーラル伯爵は頭の固い男で、「女に学問は必要ない」と言ってはばからない。そのせいでエデルがどれほど望んでも学ぶ機会が与えられることはなかったのだが、それを知ったジオフロントがカーラル伯爵に内緒でエルンケを紹介してくれたのである。
カーラル伯爵は、婚約から四年もたっているのにまだ結婚しない二人にやきもきしているようであるが、侯爵家――それも、家を継ぐジオフロントの妻になれば、ほかに覚えることが多すぎてなかなか勉強の時間が取れない。それをわかっているから、ジオフロントはぎりぎりまで結婚を伸ばしてくれているのである。
どうにか座るスペースを確保すると、エデルはサヴァリエたちの話が終わるまで研究室の外で待っていますと言って部屋を出て行った。
サヴァリエとダリウスはクッション性のない硬いソファに座ると、エルンケ教授が窓際の椅子から立ち上がって、目の前の一人がけ用のソファに腰を下ろす。
「それで、僕にどのようなことを聞きたいのですか?」
エルンケ教授がにこやかに問いかけると、一拍の間の後ダリウスが口を開いた。
「ある原因不明の病に効果のある薬を探しています。もし、お心当たりがあれば教えていただきたいのです」
「病ですか? どのような?」
「はい。その病に罹患すると、まず、全身の倦怠感からはじまり、次に体中に黒い斑点が現れます。大きさは――人によって若干のばらつきはありますが、おおよそこの硬貨くらいです」
ダリウスはポケットからグーデルベルグの金貨を一枚取りだすと、机の上においた。
グーデルベルグの金貨の表には、まるでワカメのように波打つ髪に、三又の槍を持った壮年の男性が描かれている。それは彼らが進行するタリチアヌ教の神の肖像だ。タリチアヌ教は大陸の南に位置する内海、サルドリナ海の海底深くに住むと信じられている海の神を信仰している。
「黒い斑点が現れたのち、発熱や呼吸困難などの症状が表れ、その後、死に至ります。黒い斑点は病が進行するにつれて、増えていくようです」
「……はじめて聞きますね」
エルンケ教授の表情から笑みが消えた。教授は丸眼鏡をはずすと、胸ポケットから取り出したよれよれのハンカチでレンズを拭いて、再び眼鏡をかけた。
「それだけでは内臓――例えば肝臓なのど臓器の機能の低下を引き起こすものなのか、呼吸器に異常を引き起こすものなのか判断がつきませんね。ほかにわかっていることはございますか? 感染経路は?」
「感染経路は、はっきりとはわかっていません。病は突然現れて、病の発症者と接触のないものも罹患します。あとは、発症者と同居する家族も罹患したり罹患しなかったりと、今のところ不明というのが国の医師たちの見解です。ああ、そうそう――、これはすべての発症者に言えることではないのですが、多くの人が『悪夢を見る』と」
「悪夢?」
エルンケの眉間にしわが寄った。
「不可解ですね。悪夢というのが本当にその病の症状の一つに上がるのであれば、今度は脳の異常です。呼吸器に内蔵に加えて脳――いや、すべて『脳』の異常だと考えられるのか……? 脳の異常から体への異常につながっていると……?」
「何かわかりますか?」
顎に手を当てて考え込んだエルンケに向かって、ダリウスが身を乗り出した。
エルンケは視線を落としてしばらく考え込んで、ゆっくりと首を横に振った。
「今のところなんとも。僕の知る病気の中で似た症例を取るものもなさそうです。僕はあくまで薬草や薬品が専門ですから、現段階でその病気に関する見解は出せません。まず医師にもう少し調べていただく必要があります。せめてどこの臓器が引き起こすどのような異常なのかが絞り込めれば、それに効果的な薬を一つ一つ試していくという方法も取れますが、何もわからない状況で手あたり次第に薬を試すというのはおすすめしません。僕からご提案するのであれば、おそらく国の医師たちと同じになるかもしれませんが、免疫力と体力に回復に役立つ薬湯を飲んでくださいということだけです」
エルンケが申し訳なさそうに、しかしきっぱりと告げると、ダリウスは表情を曇らせた。
ダリウスがランバースの薬や薬学に興味を示していたことは知っていたが、まさかグーデルベルグで原因不明と言われる病が流行していることは知らず、サヴァリエはただただ隣で驚いていた。
ランバースでは、伝染病などの病が流行って、効果的な薬の発見が遅れたとしても聖女をはじめ癒しの力を持つものたちの存在がある。そのため、どれだけ病気が流行しようと、最悪な事態を引き起こすことはまずなかったし、サヴァリエ自身もそう思っていた。
だが、聖女も癒し手もいない他国にとっては、『原因不明の病』というのは大きな恐怖なのである。サヴァリエはどうしてか、少し後ろめたいような気持になって、目を伏せた。
(考えてみたら、この国は恵まれているんだな)
聖女という絶対的な守りと、癒し手という医学の上を行く存在。もちろん彼女たちも神ではないのだから完璧でも全能でもない。けれども他国と比べて圧倒的に「死」という避けられない概念に対して有利である状況には変わりない。
ここでふとサヴァリエは思った。
聖女も癒し手も、大陸全土でランバース国にしか現れない。それはどうしてだろうか――と。
例えば癒し手が他国に嫁いだとする。彼女の力は消えることはないが、彼女の子孫に同じ力を持ったものが生まれることはない。もちろん癒し手の力が遺伝するかどうかまでわかってはいないが、癒し手を生むのが「ランバース国民」であるのならば、彼女やランバースの国民が嫁いだ先でも癒しの力を持ったものが生まれてもおかしくない。
つまりは――、聖女や癒し手の力を持つ女性たちが誕生する条件が、ランバース国民の血ではなく、国そのもの――この地にあるのだとしたら?
そう考えると彼女たちがこの国でしか誕生しない理由に説明がつくが、今度はどうしてランバース国だけがそのような恵まれた環境下にあるのかということが気になってくる。
ランバースに住む国民たちは、サヴァリエも含めて、聖女や癒し手の恩恵に疑念を抱くことは少ない。それらはこの世に生を受けてから「普通」に存在しているものだからだ。
(これを考えるときりがない、な)
サヴァリエは首を振って、頭の中を染めはじめた疑問を追い払った。
サヴァリエ自身が理解するのは、ランバース国は恵まれていて、聖女をはじめ癒しの力を持った女性たちには深く感謝しなくてはいけない――、これだけでいい。これ以上を考えはじめたところで、死ぬまでに答えが出るかどうかもわからない。
ダリウスを見ると、まだエルンケと話していた。けれども、結果は芳しくないままだったようだ。エルンケも申し訳なさそうに、何かあれば手紙でもいいので連絡してほしいとダリウスに告げた。
ダリウスは肩を落としてソファから立ち上がる。エルンケに免疫力の回復に役立つ薬草を、その配合をメモした紙とともに手渡されて、まるでそれが最後の綱のように大切そうに抱え持っていた。
自国で疫病が流行る――、それは王族にとって、ひどく心痛なものだ。もちろんそこに住む国民たちもそうだが、王族は彼らの生活を守る義務がある。国が弱れば他国からも侵略されやすくなるし、下手をしたら不満を持った国民たちのクーデターという結果も招きかねない。
ことは一刻も争う事態なのだ。
サヴァリエは自分よりも二つも年下のこの大国の王子にひどく同情した。同時に、グーデルベルグがこの時期での国交回復を望んだ理由を知って、小さな焦燥を覚えた。ダリウスは今はランバースの薬学に興味を示している。そこに救いを見出そうとしているからだ。けれども、それが役に立たないとわかったとき、彼らが目をつけるのは何か――、そんなもの、考えなくともわかる。
聖女や癒し手だ。
(まずいときに国交を再開させたかもしれない……)
ダリウスがランバースに来て真っ先に自国で流行している疫病について語らなかったのは、その時点では彼にランバース国を頼る意思は少なかったからだと考えていい。けれども、結果が思わしくなければ、次に彼らがとる行動は――、友好国として助けを求めてくることだ。国交が断絶されていると気ならばよかっただろう。関係ないと突っぱねることもできたはずだ。しかし今、もしも助けを求められたとして、ランバースは「関係ない」と突き放すことができない。
(兄上は知っているのか……?)
兄は頭はいいが、非情になり切れない性格だ。もしもダリウスに助けを求められたとき、兄はどうするだろう。おそらくグーデルベルグの現状と癒し手の女性たちの気持ちを思って揺れる。揺れたときに兄がとる行動は――
サヴァリエは頭を抱えたくなった。
消去法で考えた際に兄がとる行動で一番可能性が高いのは、兄自身がグーデルベルグに向かって現状を確認することだろう。しかしサヴァリエはそれを止めなくてはならない。世継ぎの王子を、原因不明の疫病が流行っている国に向かわせることはできないからだ。だが、兄はかわりにサヴァリエを向かわせることはしないだろう。あの人は弟に甘すぎる。
願わくば――、こちらに火の粉が降りかかる前にグーデルベルグの疫病騒ぎが沈静化することだ。
「本日はお邪魔いたしました」
ダリウスとともにエルンケに軽く頭を下げて部屋を出る。
部屋から出てすぐの廊下にはエデルが立っていた。
「待たせてごめんね」
サヴァリエが言えば、エデルは穏やかに微笑んで首を横に振った。
そして、エデルと別れて歩き出そうとした――、その時だった。
背後でエデルの悲鳴が聞こえて、振り返ったサヴァリエが見たものは、黒いフード付きの外套を羽織った人影で。
それを目にしたと思った直後、隣を歩いていたダリウスに向かってその影は突進するように体当たりをして、ふ――とまるで煙のように消えた。
そして――
「きゃあああああ――――――!」
ダリウスは、口から大量の血を吐きだして、その場に崩れ落ちた。
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