三十三
雲一つなく広がる空はクイナを包み、町の住人達の心を清清しくさせます。季節は変わり、梅雨があったなんて想像も付かないくらいに過ごしやすい日が続いています。
そして退院してから十日後。今日の日は、おばあさんにとって、夢達にとって、未来に期待を持てるようなそんな一日になるかもしれません。
車に近付いて来る男性に気付いたタクシーの運転手は、後部座席のドアを開けました。ケンシがタクシーに乗り込みながら目的地を告げると、運転手は「はい」と返事をして後部座席のドアを閉め、病院の玄関にあるタクシー乗り場から車を発車させました。
ケンシが今日訪れたのは三年前に開院したナガという病院です。今まで利用していた病院と同じ大規模で、午後三時を回った今でも多くの人が受診をしに来ていました。予約をしていたケンシも二時間ほど遅れて診察が始まりました。
病院の敷地から出たタクシーが車道を走り出すと、ケンシはふと窓の外に目をやりました。所所に自然を残した街並の空は開けていて、流れる時間の違いを感じました。
「そんなに変わってないですよね。ここ」
窓の外を眺めていたケンシがポツリとそう話し掛けました。
「そうですね。住宅街も近いですから」
ハンドルを左に切りながら、運転手は短くそう言いました。ケンシは外を眺めたまま「そうなんですね」と答え、それ以上何も言いませんでした。
ケンシはそのまましばらく対向車線を眺めていたのですが、ふとそこに走る路線バスが目に入り、反射的にその姿を視線で追ってしまいました。ケンシはバスを目にした瞬間、遠い記憶の中にある、若かった自分の心と姿が脳裏に映し出されたのです。大人から見れば小さな事でも子供にとっては世界のように広く、そんな日日を想い懐かしい気持ちになりました。
ケンシは思わず溢れたそんな過去にふけっていると、体を右側にクッと軽くあおられました。車窓の外を見渡すと、街にあった自然は途切れ、背の高いビルが並び始めていました。ケンシはレジ袋から財布を取り出すと、小銭を確認し始めました。
「駅の前でいいですか?」
タクシーの正面に中型の駅が見えると、運転手はケンシにそう尋ねました。
「あ、はい、そこでお願いします」
ケンシはそう返事をしながら携帯電話で時間を確認しました。予想していたよりも移動時間は短縮できそうでした。
運転手は駅のロータリーに入ると徐徐にスピードを落としてゆき、空いたスペースに停車させると後部座席側のドアを開けました。ケンシは運転手に運賃を手渡しながら「ありがとう」と明るく声を掛けると、そのままタクシーから降りました。運転手に軽く会釈をしたケンシは急いで駅に向かい、ICカードで改札を抜けて階段を上ると二階のホームに入りました。そしてすぐに携帯電話を取り出し、逸る気持ちを抑えながら電話を掛け始めました。相手の応答を待つケンシはとても嬉しそうな表情をしていました。
「もしもし」電話がつながるとそう呼び掛けたケンシは、すぐに話し出しました。
「ごめん遅なった。今駅着いてこれから帰る」
自然と早口になったケンシには、報告したい事があるのです。
「手術してくれるって! うん、良い感じやった。手術の日は決まったけど、今日は遅なったから入院の手続は別の日にする!」
ケンシはとても嬉しそうにそう話しました。もちろん電話の先に居る夢も同じです。夢は家でケンシを見送ってからソワソワと落ち着けていなかったのですが、その話を聞くや否や隣に居るおばあさんに笑顔を向けました。
ただ、夢達がここまで焦燥感に駆られるのは病気の影響だけではありません。退院してから数日後にあった、泌尿器科の担当の医師とのやり取りも影響していました。その日ケンシは退院時に予約していた診察のために病院に来院していました。ケンシは医師に退院後のおばあさんの様子を伝え、最後にサトの病院の話をしました。サトの病院については入院前の診察で既に話はしていたので、今後の方針だけを簡潔に伝えました。
そしてその帰り際、医師がケンシに言いました。
「では、この病院ではこれで最後ですね」
医師はケンシに、別の病院へ行くのだからこの病院では最後、という圧力を掛けてきたのです。そもそもこの時点では、サトの病院で診てもらうのは泌尿器科であって神経内科ではなく、まだ受診すらしていません。しかも医師は以前の退院時の診察で「多分同じ事を言われると思いますよ」とケンシに言いました。ケンシは医師に、サトの病院へ意見を聞きに行く、とだけ伝えているので、もしサトの病院で治療が出来なかった場合、言葉だけを受け取れば、今まで通っていたこの病院へは来れなくなります。医師法によれば、正当な事由がなければ拒んではならない、となっているので、これは医師に有るまじき発言なのです。この時ケンシは笑顔でいましたが、念のため、一言だけ付け加えておく事にしました。
「泌尿器科では、ですね?」
「もちろん」
これで一旦この病院の泌尿器科とは区切りをつけることが出来ました。これでやっと終わる、先にやっと行ける、そう想えたケンシは不安と期待が胸の奥で入り交じり、全身に広がって行くのを感じました。
そしてケンシは信頼出来る医療を目指しサトの街へ向かいました。サトの病院で相談した結果、懸念していた事が現実になりました。サトの病院では結石を除去する手術自体は行えるのですが、術中やその前後に起こるかもしれない急変に対応することが出来る内科等が必要になるということでした。つまり、泌尿器の専門であるサトの病院では手術は行えないということです。サトの病院の医師からそう言われた時、手術と入院を総合病院と分担することは出来ないか、急変した場合に総合病院へ救急で行けないか等、ケンシはいくつか提案してみたのですが、それによって生まれるマイナスのリスクを考慮すると無理でした。ケンシは思わず考え込んでしまい、そのまま数秒の沈黙が広がりました。するとその様子を見ていた医師が、ここよりさらに東へ行った所の総合病院で相談してみてはどうか、とケンシに提案したのです。ケンシはその病院の名前を耳にした瞬間、記憶の中に残っていた断片的な情報が浮かび上がってきました。それは、ナガの街にあった二つの病院が統合し、総合病院として新しく開院したというニュースの映像でした。ケンシは前のめりになりながらナガの病院の事を聞くと、要望通り行ってくれる可能性が高いと教えてくれました。いずれにせよ別の総合病院を探さなければいけないと考えていた事もあり、さらに結石除去の手術に関しても要望に応えてくれる可能性は高いと聞けば、ケンシがそうなるのも無理はありません。もちろんケンシは迷う事なくサトの医師の提案を受け入れました。その後紹介状を書いてもらい、ナガの総合病院の予約も取り付けてもらいました。
そして、今日という日が訪れたのです。
「駅からバス乗らなあかんけど移動時間は一緒! 良い病院やったらここにしよ!」
ケンシは期待のこもった声と笑顔で夢にそう言いました。一言一言話すたび、ケンシの気持ちは胸の中で高ぶって行きました。おばあさん達は未来へと、一歩ずつ、一歩ずつ、確実に歩んでいるのです。
二日後の水曜日。入院の手続のためにケンシは再びナガの街の総合病院へ行くことになりました。こんな嬉しい日は玄関のドアをカラッと開けて、軽やかな気持ちで家を出たかったのですが、あいにく昨晩から天気は崩れ、今も雨がぱらついています。家に居れば除湿した空気が肌を撫でてくれるのですが、外に出ると湿った空気がケンシの髪にまとわり付き、その癖っ毛を解き放ちます。そんな湿気を嫌うケンシは、昨日のニュースの発表なんて聞きたくなかったのです。
「午後からは曇りだって。梅雨は梅雨で素敵だわ」
夢はガラス戸から見える空を眺めながら、支度を始めたケンシにそう話し掛けました。ケンシは夢の言葉で外の様子を凝視すると、大げさに眉間にしわを寄せました。
「こういうのが一番最悪やねん。霧みたいなやつな!」
ケンシが不機嫌そうにそう言うと、夢は笑顔で「そうね」と返事をし、そのまま振り返るとケンシの髪の毛が目に入りました。もともと強い癖を持つケンシの髪はどうしようもないぐらいにピンッピンッと外側に跳ね、ケンシは毛先を面倒くさそうに指で伸ばしていたのです。夢は楽しそうにクスクスと笑いました。
「まあ、ええわ」
ケンシは夢に笑顔を向けながらそう言うと、おばあさんの側に歩み寄りました。おばあさんは側に来たケンシに気付いて視線を寄せると、口を少し開きました。頬笑んだケンシは「うん」と頷くと、おばあさんの頭の後ろにそっと触れました。
少し前までおばあさんは眉を上下に動かして、今の気持ちを表情豊かに訴えていました。しかし退院後、おばあさんは必死に眉を動かそうとするのですが、眉間が一、二ミリほど上がるだけで、眉を動かす事が出来なくなってしまいました。必死に眉を動かそうとしているのに動かない、おばあさんのその苦しさが、手や足が動かなくなった時よりもハッキリとおばあさんの表情ににじんで夢達に伝わってきて、その表情の向こうにある色んな想いを感じました。介護が始まり何度もそういった現実を目の当たりにしてきたのですが、今回は他のどんな時よりも夢達を辛くさせたのでした。
そうやって進んで行くALSはまだ、治す事も止める事も出来ません。その影響も一部だけで、五感を含む感覚神経や内臓機能、知能や意識は障害されずに保たれます。しかしそれこそが、おばあさんを苦しめるのです。眼球しか動かなくなった体の中には、夢達と変わらない感覚が存在するのです。伝える事が出来なくなった心の中には、痛い、楽しい、苦しい、温かい、数え切れないほどの伝えたい想いが存在するのです。
ただ、夢達は一つだけ救いだと感じた現実がありました。それは認知症の発症でした。もちろん病気になることを望んではいません。それでも、少しでも体が動かないという苦痛を和らげることが出来たなら、認知症はおばあさんの心を守るものになるのかもしれない、夢達はそう想ったのです。しかし病気自体もどうなっているのか分からず、一つの評価としてある画像診断を見る限りでは、それほど進んでいないようでした。おばあさんの救いになってくれる事を想いながら、進行してほしくないと願う、心をどこに持っていけばいいのか分からない夢達の苦しみもありました。それでも、たとえどんな状況だったとしても、ALSを止める薬が出来る事を、それをおばあさんが使う日を、夢達は決して諦めません。おばあさんが居るこの世界を、夢達は決して諦めません。
ケンシは手のひらでおばあさんの頭の後ろを優しく撫でました。そんな二人を眺めていた夢が、おばあさんの側に歩み寄りました。
「おば様、お昼が終わったらごろごろしましょ」
穏やかにそう声を掛けた夢は、優しく頬笑み掛けました。ごろごろするとはリハビリの事で、いつものんびりとテレビを見ながらリハビリをします。夢に目をやったおばあさんは、眉間を微かに上げました。それに気付いたケンシはおばあさんを抱きしめるような形でベッドと背中の間に両手を入れました。そしておばあさんの額を自分の胸元に当て、おばあさんの頭が前にガクンと落ちないように支えながら背中を浮かし、手のひらでグッグッグッと擦りました。圧迫されていた背中を浮かし、おばあさんの背筋を伸ばしました。するとおばあさんは気持ち良さそうに目を閉じて、穏やかな顔になりました。今おばあさんは、背中が熱いと言っていたのです。
夢とケンシは目を合わせ、嬉しそうな笑顔を浮かべました。
おばあさんは大きなあくびを一つすると、揺られながら夢に視線を戻しました。
嬉しそうなケンシはおばあさんの表情を見つめながら話し掛けました。
「目蓋の力はそのままやな。目がぱっちり開いとうわ」
すると夢は「うん」と大きく頷きました。
おばあさんの瞳の中には、いつも夢の笑顔がありました。
少しすると、ケンシはおばあさんの背中をそっとベッドに戻しました。
「なあ、夢」
ケンシは夢にそう声を掛けると、尿道カテーテルを持ち上げました。「うん」と頷いた夢は、ケンシの思っている事が分かりました。
「少し気になっていたから見ていたの」
夢が心配そうな笑みを見せてそう話すと、ケンシは「そっか」とつぶやきました。
短い間隔で二回の入院を重ね、おばあさんの尿の出は少しずつ不安定になって行きました。尿管の閉塞、投薬、これらは繰り返され、負の螺旋が続いていたのでした。
「マッサージの時間増やしてん。時時はっちゃんとかフク達も午後来てくれるみたいやから、一緒にマッサージしたってな」
ケンシは夢にそう話すと、反応がなかった尿道カテーテルを戻しました。
辛そうに頬笑む夢が「うん」と頷くと、ケンシも「ありがとう」と笑みを向けました。
ケンシが壁に掛かった時計に目をやると、針は午前十一時を過ぎたところでした。
「よしッ」とケンシは声を上げると、不安を吹き飛ばすように言いました。
「じゃあ行ってくるわ!」
ケンシは笑顔でおばあさんと夢へ視線を向けると、床に置いていたレジ袋を手に取りました。すると夢が「ケンシさん」と声を掛けました。
「いつもありがとう」
夢は感謝の気持ちを込めてそう伝えました。
笑みを浮かべたケンシは「おう」と返事をしました。
「でもそれは俺が夢に言わなあかん言葉やで。いつもありがとうな。それと」
ケンシは続けておばあさんに視線を寄せ、「ばあちゃん」と声を掛けました。
「ばあちゃんも、ありがとうな。頑張ろな」
明るくそう言葉を掛けたケンシは、握った拳を見せてニカッと笑いました。頬笑みながらおばあさんを見つめる夢も、「ありがとう」と言葉を掛けました。
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