二十二

 アニメの海賊旗が沢山プリントされたステテコを、ケンシは両手でバサッと振って広げ、中に新しい空気を通しました。

「やっぱり飲み込みが早いねあんたは。あたしらなんかより全然上手だよ」

 オッカが感心したようにそう言うとケンシは自慢げな笑みを見せ、そのままおばあさんの足を持ち上げて海賊旗のステテコをはかせました。

「父さんとはちょっと違うけど、大体要領は一緒みたい」

 ケンシはそう言いながらおばあさんの腰を少し浮かせると、はいたステテコとTシャツの裾まわりを綺麗に整えました。おばあさんの服は自然な形になりました。

「うん、やっぱり綺麗だあんたがすると」

 オッカがあまりにも褒めるので、照れたケンシはぎこちなく頬を上げて笑みを見せました。ケンシは最後におばあさんの体を整え、おむつ交換を終えました。

「ばあちゃん終わったで。ベッド上げるよ」

 ケンシの声に視線を向けたおばあさんの表情に笑顔はありませんでした。

 ケンシがクイナの町に来たあの日から三か月が過ぎました。おばあさんのALSも少し進み、自力で動かせる範囲は狭くなってきていました。認知症のせいなのかALSのせいなのか分からないのですが、表情も以前より少し表現しづらくなっているようにも見えました。

「フミ!」オッカが台所に向かってそう呼び掛けました。

「終わった?」台所から出てきたフミは、頬を何かで膨らませていました。

「ん?」それを見たオッカはそう低い声をもらし、険しい視線をフミに向けました。フミは何かを察したのか慌てて「パン! 食パン! 朝の残りの!」と声を上げました。フミが食べたのはオッカ達が用意していた昼食ではなかったようです。フミは怒られそうな空気が解けて安心したのか、頬張っていたパンを飲み込み揚揚と近付いてきました。

「ばあちゃん。すっきりした?」

 フミの声が聞こえたおばあさんは、視線をフミに向けました。そうやって声に対して認識してはいるのですが、当たり前のようにあったおばあさんの明るい感情は見えなくなってしまいました。いつもなら、大きな口を開けて笑顔になっていたのです。

「夢は?」

 フミは夢が居ない事に気付きました。

「ビデオ借りに行ったよ。姉さんの好きな映画を借りてくるって」

 オッカがそう答えると、フミは理解したように「ふーん」と何度か頷きました。そのままフミは思案するように黙ると、今度はおばあさんを見ていたケンシに話し掛けました。

「もう慣れたか?」

「まあな」

 フミに顔を向けたケンシは笑顔でそう返事をしました。

「そっか。それと、なあ、夢最近どう思う?」

 突然フミがケンシにそう問い掛けました。フミは、境遇の似たケンシなら何か気付いた事があるかもしれない、そう思ったからです。

「頑張ってる。頑張り過ぎてるよな」

 ケンシがそう言うと、オッカは何度も小さく頷きました。オッカ達はいつも、自然とそうなってしまう夢を心配していたのです。そしてやはり夢は、オッカ達が心配していた通りになってしまっていました。最近夢は、おばあさんの好きそうな映画のDVDをレンタルしてきたり、喜びそうな物を買ってきたりする事が増えていました。喜んでもらおうと頑張る夢の気持ちについては何も心配していません。そうではなく今の夢は、隠せる事ができないほどの焦る気持ちに突き動かされていたのです。そうなってしまったのも、おばあさんの笑顔が戻らない事、言葉を表現する代わりに使っていた腕が入院を契機に上がらなくなってしまった事、そんな重なったおばあさんの変化に怯えていたからです。さらにこうなった時の夢は、全く自分自身の事を考えなくなってしまいます。実際今も夢の足には良くない変化が現れていました。足首は薄ら赤く変色し、膝下全体が少し浮腫んでいたのです。夢は心配されないように靴下で隠してはいるのですが、いつも履いていた靴はサイズが合わなくなり、痛む足を庇うように歩いてしまっていたのです。夢のそんな姿を見るたびに胸は痛くなり、オッカ達はどんな言葉を掛ければ良いのか分からなかったのです。

「フミ、ちょっとお願い」

 オッカはフミにそう声を掛けると、壁の時計に目をやりました。

「あ、ばあちゃん、始まる時間!」

 フミはおばあさんにそう声を掛けると、ベッドの上のリモコンを手に取りチャンネルを時代劇の番組に合わせました。

「じゃあお昼ご飯持ってくるわ」ケンシはおばあさんにそう声を掛けると、台所に入って行きました。そしてオッカも「じゃあ姉さんちょっと行ってくるよ。フミも頼んだよ」と二人にそう声を掛け、ケンシの後に続きました。

「姉さんのためだから、頑張るのは良いんだけどね」

 オッカはケンシにそう話し掛けました。ケンシは台所のテーブルに栄養剤や胃瘻に使うボトルを並べていました。

「そやねんな。気持ちも分かるし、俺から話してみるわ。任せといて」

 明るくそう話したケンシは頼もしい笑みを見せ、グッと握った拳を上げました。

「頼んだよ」

 オッカも笑顔でそう言うと、壁の時計に目をやりました。

「じゃああたしは店へ戻るよ」

「後で店寄るわ。ちょっと話あるから」

 ケンシがそう言うと、オッカは少し考えるような素振りをし、そのまま頷きました。

「分かったよ。じゃあ後で」

 そう答えたオッカは玄関に向かわず台所の暖簾から顔を出し、そこからおばあさんの横顔に目をやりました。おばあさんはいつも通りテレビを見ていて、その姿を一目見て安心したオッカはそのまま家を出ました。

「あとこんだけか」おばあさんの昼食の用意を始めたケンシは、残りの栄養剤の数を確認していました。すると、玄関から扉の開く音が聞こえました。

「ただいま」

 数分前に出たオッカと入れ違いに夢が帰って来ました。

 夢が玄関に入ると、台所から「夢」とケンシの呼ぶ声が聞こえました。

「はい!」

 夢はそう返事をすると、靴のような形をしたオシャレなサンダルを脱いで台所に入りました。台所にいたケンシはボトルに液体の栄養剤を入れているところでした。

「あ、お昼? ありがとう」

「おかえり。それはええねんけど、後で時間ある?」

「大丈夫だけど、どうして?」

 夢はそう言いながら持っていたレジ袋と黒いバッグをテーブルの上に置きました。

 ケンシは栄養剤の入ったボトルに白湯を足し、ガポッとボトルの蓋を閉じました。S字フックからボトルを外して手に持つと、夢に笑みを向けました。

「ばあちゃんの事やけど、まぁ大した理由じゃないよ。後それと、これからオッカのとこ行くから付いてきてくれへん?」

「どうかしたの?」

 夢の質問にケンシは笑みを見せ、「後で」と言うと部屋に入って行きました。

 夢は閉じた暖簾を見つめながら頭の中で答えを探したのですが、分かりませんでした。オッカに関する事なのか、夢は色色と考えながらレジ袋の中の食材を出してゆき、冷蔵庫や棚の中にしまってゆきました。テーブルに置いた黒いバッグを手に取ると、夢も部屋に入りました。

「ただいま、おば様!」

 夢はおばあさんの顔を覗き込み、笑顔でそう挨拶しました。テレビを見ていたおばあさんは、スッと夢に視線を向けました。

「ただいま。おば様」

 おばあさんに頬笑み掛けていた夢はもう一度、静かな声でそう挨拶をしました。それはおばあさんに聞こえない、返事を求めない挨拶でした。慈愛に満ちたその声に、寂しさも少し感じられました。

 おばあさんの隣にいたケンシはクレンメの調節をしているところでした。栄養剤が入ったボトルは、鴨居に付けたフックに掛けられています。

「ケンシ、今ある分終わったら半固形か」

 おばあさんの隣で膝をついて座っていたフミが、期待を込めてケンシにそう話し掛けました。ケンシはクレンメを少し緩め、栄養剤の流れるスピードを調節していました。

「うん。うまい事いくとええな」

 ケンシがそう言うとフミはおばあさんに顔を向け、嬉しそうに何度も頷きました。

「フミさん、これ、借りてきたわ」

「おう、ありがとうな。後で見よか」

「うん。ちょっとケンシさんと出掛けるから、テレビ何もなかったら先に見てて」

 そう話した夢の笑顔にフミは「おう」と頷き、明るい笑みを見せました。

「よし。じゃあ、ばあちゃんちょっと行ってくる。すぐ帰ってくるわ」

 そう声を掛けたケンシは、おばあさんの手にポンポンと優しく触れました。


 太陽の存在を感じ始め、半袖のシャツが丁度良い季節になりました。ケンシと家を出た夢は、買い物の時に着ていた薄手のパーカーのジャケットを家に置いてきました。ケンシも上は半袖のTシャツで、下は七分丈の深い緑色のカーゴパンツを穿いています。夢とケンシは寒くても暑くても年中同じような服装をしているので季節の空気感はありません。

「この公園寄ろか」

 ケンシがそう言って指差したのは、おばあさんの家から少し歩いた所にある公園でした。そこは一目で見渡せるぐらいの広さで、設置されている遊具もすべり台や砂場やジャングルジムやブランコといった普通の公園です。

 公園に入った二人は出入り口側にあったベンチに腰を掛けました。子供も大人も誰も居ないので、静かに話すにはとても良いタイミングでした。

「何かあったの?」

 ベンチに座るとすぐに夢がそう聞きました。改まった感じのケンジが可笑しくて、夢は頬を上げて笑っていました。その雰囲気を感じたケンシも思わず笑みを浮かべました。

「なあ。その足どうしたん?」

 笑みを見せながらも真剣なケンシに、夢はごまかすのは止めようと思いました。

「何かあると私すぐ足に出るの。前に病院で診てもらったら免疫が弱って菌が体に入ったって。その時は熱も少しあったから点滴を打ってもらったわ」

 夢は正直に話しました。ケンシはベンチの背もたれに体を預け、懐かしさを感じる公園に目をやりました。

「大丈夫なん?」

「うん。体力が弱ってたのが原因みたい。でも、今日が初めてじゃないの。今まで何回もあって、疲れた時の目安にしてるわ」

 夢は笑顔のままそう話しました。夢は本当に何でもない事だと思っていたので、みんなに余計な心配事を増やさないようにと目立たないようにしていました。

「そっか、分かった。でも何かあったら言ってな」

 そう気持ちを寄せたケンシは夢の心労を想うような、そんな優しい眼差しで頬笑みました。頬が緩んだ夢は「ありがとう」と言いました。

「ばあちゃんの事も頑張り過ぎんように。みんな心配しとったで。笑ってほしい気持ちは分かるから俺も手伝うけど、体壊したらあかんで」

 夢は小さく頷きましたが、うつむいた顔は喪失感を抱えた寂しい笑みをしていました。

「もしこのままって思うと、怖くなってきて」

 夢は視線を沈めたまま力なくポツリとそう言いました。ケンシもその気持ちは痛いほど分かります。分かるからこそ夢はこのままではいけないのだとケンシは思ったのです。もし夢が居なかったらきっと自分がそうなっていた、そう思ったケンシは夢に伝える言葉を探していました。

「前より少し腕が動かなくなって。ありがとうっていう気持ちを、手を合わせて伝えてくれてたの。どれも大好きなおば様の仕草なの。おば様を見てると、苦しくなって」

 積もっていた夢の想いは溢れ、頬を伝いました。何も言わずうつむくケンシは、夢の言葉一つ一つに寄り添い、共感してゆきました。ケンシの知らないおばあさんを、夢は大切にしてくれたからです。

「前のばあちゃんに戻ってほしい気持ちは分かる。けどそれでも病気は進むんよ」

 言葉にすらしたくない現実を、ケンシは想いを込めて夢に話しました。

「病気んなったばあちゃんは暗い闇ん中を進んでくねん。自分がどうなってまうんか、怖くてたまらん思うねん」

 ケンシは話しながらおばあさんの気持ちに触れ、胸の奥でジワリと痛みが広がりました。

「だから夢がばあちゃんの前に立ってあげてほしい。過去ばっか見て、後ろから引っ張っても病気は進んでく」

 夢はうつむきながら小さく何度も頷きました。

「病気が進んでも大丈夫やでって、ちゃんと病気のこと理解してるから、これからどうなるか分かってるからって、夢が前に立って手え広げて、安心して進んで行けるばあちゃんの道しるべになってあげてほしい。ばあちゃんの光になるんは夢じゃないとあかんねん」

 ケンシの、おばあさんへの深い愛がこもった言葉に夢は何度も頷き、いくつもの涙をこぼしました。

「夢がやりたい事は俺らに任せとけ! 夢は、未来の準備をしてほしい」

 ケンシがニカッと頬笑むと、夢も涙を手のひらで拭い、元気な笑顔を見せました。

「多分、それが俺らそれぞれの役割やと思う」

 ケンシがそう言うと、夢は少し照れて笑顔になり、元気に力強く答えました。

「うん、分かったわ。任せて!」

 やっぱり夢は笑顔が一番、そう安心したケンシは嬉しくなってつい笑ってしまいました。でも、夢の力になるにはまだまだ足りないんだとケンシは思っていました。今まで夢が頑張ってくれた分、その何倍も感謝の気持ちを込めて力になりたいのです。

 クイナの町を照らす太陽。

 夢の涙でいっぱいになったシャツの袖を温かく乾かしてゆきました。


「ここ来ると思い出すな」

 公園を出た二人は谷の真ん中のオレンジ通りを歩いています。平日の昼時になると、学生や働いている人達が食事をしようとちらほらオレンジ通りに現れ始めます。通りにいくつかある定食屋がまず満席になり、後はおのおの散って行きます。外が心地よい季節なので、適当に店で買い合わせて通りにあるベンチで食べている人も増えてきました。もっともここは子供達にとって買い食いするのに丁度良い場所なので、オレンジ通りは変わる事なく子供達の遊び場にもなっているのです。

「あ、ヘルパーの事言ったっけ?」

 ふと何かを思い出したケンシは、考えるように宙を見つめながらそう尋ねました。夢は心当たりがなかったので、「ううん」と顔を左右に振りました。

「新しいヘルパーさん入るやろ? 年配の方。あの人から相談があってんて」

「相談?」

「そう。子供の行事とかで忙しくなるから辞める言うてたヘルパーが新しいヘルパーに引き継ぎやってるやろ? その教えてくれるヘルパーを別の人に替えてほしいって。まあ、そうなる思ったわ」

 夢は少し驚いたのですが、何故、とは思いませんでした。替えてほしいと言われたヘルパーとは、朝に来ていた四十代後半の女性ヘルパーの事です。以前からその女性ヘルパーは家でコソコソと何かをしているような、みんなが違和感を感じるような行動を多く取っていました。そのため家では一人にしないよう誰かが付いているようにしていたのです。しかしこれではヘルパーの意味は全く無く、どうしようかと思っていたところでヘルパーの方から会社を辞職するとの報告があり、次に入る新しいヘルパー二人に引き継ぎを行っていました。

「年配のヘルパーさんにめちゃくちゃ暴言吐くらしい。一言も喋んなとか。コミュニケーション取るのに喋るけどな普通。あと何か気に入らん事あったら時間終わっても帰さんと家の外で叱るらしい」

 ケンシの話した内容は、夢には想像も付かないくらい身勝手なものでした。しかし、家族の前では良い顔をし、家族の居ない所では問題行動を起こすヘルパーは確かに居ます。そういう職についているのだからそういう人間だ、とは限らないのです。

 夢は話を聞くうちに、険しい表情になってゆきました。

「けどな、引き継ぎしてるもう一人のヘルパーにはめちゃくちゃ甘いねん。陰でずっとひそひそ喋って仕事も一個もせえへん。しかも年配の人に聞いて始めて分かってんけど、嘘ばっか教えとったみたい。気切(喉の穴)の吸引で使う高い綿(アルコールを含んだカット綿)勝手に拭き掃除に使ったり、おむつ交換もパット替えるだけで洗わんでええとか、そのヘルパーには全然違うやり方勝手に教えよんねん」

 話せば話すほど苛立ちが高ぶって行ったケンシは、一歩、一歩、地面を蹴るように歩いています。

「でもよく気が付いたのね? 違和感はあったけど私全然分からなかった」

「見てたら時時な、相手が何考えとうか見える時あんねん。そういう時は警戒する」

 これには夢も少し納得できる部分がありました。時時心を読まれているような、そんな気がしていたのです。

 ケンシは小さい頃から他人に対して過度に気を使ってしまう性格で、人の表情や仕草、声や言葉、感じる微かな変化を掴んで相手の本心に触れてしまえる力が自然と付いてしまっていました。しかしケンシはそれを過信せず参考程度にしています。そうしなければ疑心暗鬼に陥り、逆に何も見えなくなってしまうのです。

 ケンシは道の先を眺めながら、しっかりとした口調で話しました。

「なんかあった時、黒やったらもちろんアウトやけど、灰色でもなるべく排除したい。様子見っていう選択は自分の事やったらできるけど、ばあちゃんやったら避けなあかん」

「何かが起きてるかもしれないものね」

 夢がそう言うと、微笑んだケンシは強い気持ちを込めて言いました。

「それが堂堂と出来るのはみんながいてくれるからや」

 一人で頑張っていたケンシにとって夢達は、本当に頼もしい仲間なのです。

 そうやって自分の心を隠す事なく話せるようになった二人の会話は弾み、介護の話が落ち着くと、いつの間にか活気あふれる魚屋の前に立っていました。

「そういえば、どうしてオッカさんの所に?」

 ケンシは夢の質問に答えずニヤニヤと笑うだけでした。

「オッカ」ケンシが店の中に向かってそう呼び掛けました。

 ケンシの声に気付いたオッカが店の中から出てきました。

「夢も一緒だったのかい?」オッカが珍しそうにそう聞くと、夢は「うん」と頷き「みんなに心配かけちゃった」とはにかんだ笑顔でそう言いました。そんな夢の笑顔を目にしたオッカは、「よかった」と言葉をこぼし、温かな笑みを浮かべました。

 そんな二人を見届けたケンシは、突然両手をバッと広げて見せました。

「夢。俺は今日からここで働く!」

「え?」驚いてしまった夢は言葉が見つからず、思わずオッカに振り向きました。ただ、それを聞いた夢の表情には驚きだけでなく、明らかに嬉しい感情も溢れていました。

「なんだいそういう事かい」

 そう声を上げたオッカは、可笑しくて大きく笑ってしまいました。

「確かに募集してるよ。あんたが来るとはね」

「じゃあオッケーや」

 ケンシがニカッと笑いそう言うと、オッカはうつむきながら頬笑んで「はいはい」と頷きました。夢は胸の前で手を組んで、キラキラと瞳を輝かせていました。

「何だか不思議な感じ! すごく嬉しいわ!」

「まあちょうど良かったさ。ちょっと待ってな」

 オッカはそう言うと店の中に入って行き、手に黒い何かを持ってすぐに出てきました。

「ほら」そう声を掛けたオッカがケンシに渡したのは、紺色の胸当付き前掛けでした。ケンシは「おお」と声をもらしながら受け取りました。オッカから受け取った前掛けはとても大きく、水仕事で服が濡れないよう防水仕様になっていました。

「ミゲロが使ってたのさ。丁度新調したばっかだから使いな」

 ケンシはそれがよほど嬉しかったのか、急いで前掛けを付け始めました。慣れていないケンシは前掛けの前後ろを確認しながら首に掛け、横の紐を腰で固く結びました。ミゲロの前掛けから、心地よい重さを感じました。

 オッカと夢はクスクスと笑いながらケンシの前掛けデビューを見届けました。

 ケンシが前掛けを付け終えると、オッカは「うん」と頷き言いました。

「やっぱり似合わないね」

 夢はクスクスと笑いましたが、ケンシは自慢げに胸を張り、手を腰に当てました。

「これから似合う男になんねや!」

 ケンシは顔を上げ、二人を見下ろしながらニカッと笑いました。

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