第漆話 闖入者たち

「カァァアアア!」


 いつもよりだいぶ力いっぱい鳴いているけれど、この声を間違えるはずがない。イカスミだ。

 イカスミがわたしの首の後ろの襟を掴んで、飛んでくれているらしい。

 烏のくせに、すごい力だ。

 でもイカスミ。気持ちはありがたいんだけど、わたし、お前に首絞められて死んじゃうかも。

 とはいえ、そこはやっぱり肩乗りサイズの烏なので、体重を支え切れずにわたしはずるりと途中で落下した。

 だいぶ地上に近づいてからだったので、両足で踏ん張って立てるくらいの高さ。

 疑ってごめん。ナイスアシストだ、イカスミ。キングオブ烏と褒めてつかわす。


「そこの君! やめなさい!」


 誰か知らないけど観客席のおじさんが叫ぶ声がする。

 そんなの意に介さず、わたしは走り出した。

 篝はというとぼろぼろのぼろ雑巾状態だったけど、地面に横たわった身体は微かに上下に動いていた。


「篝! 起きて!」


 わたしの声に、篝よりも先に野馬さんが反応する。

 仄暗いあなぐらのような眸と目が合った気がして、わたしの全身が粟立った。

 だけどわたしは野馬さんみたいな陰湿クソサド男に用はない。走り出した足をもう、野馬さんにだって止めさせない。


「篝! わたしとコンビ組んだのに、勝手に解消しちゃダメ! 勝手にいなくなったらゆるさない!」


 瀕死状態の篝を前にして、わたしはそんな卑劣極まりない罵り言葉しか吐き出せない。わたしたちをつなぐのは、触れたら壊れてしまいそうな脆い約束しかなくて、だからわたしはそれに縋るしかなかった。

 だけど神様は意地悪だ。

 思わぬ闖入者にどよめく観客たちとは裏腹に、野馬さんはまるで面白い余興でも始まったみたいな顔をして宙を指で掻いた。

 途端、大鷲さんがこっちに突っ込んでくる。


「ぎぃやあああああああああああああああ」


 わたしは死に物狂いでその場を大回転した。ぎりぎりのところで一撃を躱し、あと十メートルまで迫った野馬さんの元にひた走る。


「篝ぃぃいいいい! 助けにきたけど、助けてえええええええええええ!!」


 わたしは物凄い情けない本音を吐き出しながら、ラケットを振りかぶった。

 後ろから物凄い風圧が迫ってくる。たぶん、大鷲さんが取って返してきたのだ。

 だけど振り向いて応戦したところで、わたしの非力では大鷲さんの攻撃を止められやしない。それよりはイチかバチか、野馬さんをぶん殴った方がまだマシそうだ。

 バドミントンのスマッシュの要領で、思いっきりラケットを振り抜く。


「あれ?」


 野馬さんの目の前まで迫っていたはずなのに、まったく手ごたえがなかった。

 空振りだ。

 見れば、野馬さんは半歩離れた場所に飛び退っていた。身を守ることを優先したためにか、骨繰と野馬さんをつなぐ糸が切れている。

 野馬さん本体には、かすり傷ひとつつけられなかった。


「一発くらい殴られてよ!! こんなに頑張ったんだからね!!」


 わたしのめちゃくちゃ理不尽な要求に、野馬さんは今世紀最大につまらない冗談を聞いたというような顔をした。めちゃくちゃ憐れまれている。

 む、ムカつくひとだ。超キラい。


 野馬さんはすぐにその無骨な指から糸を伸ばした。また大鷲さんにつないでわたしに攻撃する気なのだろう。すぐ傍にいるから、わたしのことを絞め殺すのだって造作もないはずなのに、あくまで骨繰に手を下させる魂胆らしい。

 そっちがその気なら、わたしはそれよりも前に反撃に出るまでだ。

 そう心に決めてラケットを握りしめ直して、野馬さんを睨みつけたときだった。

 わたしは妙なことに気がついた。

 大鷲さんが存在しているだけで場に立ち込めていたはずの、凄まじい怨念の凝りが消えている。

 遅れて、野馬さんもなにかに気づいたようだった。

 野馬さんの顔がはっきりと強張る。わたしは後ろを振り向こうとして、その態勢のまま硬直した。


 刹那、荒振る獣の咆哮を聞いたような気がした。


 鼻先すれすれを、夥しい死のにおいが掠める。

 肩に衝撃がきて、赤ぐろく光る白い骨がひとつ、地面にことりと落ちた。

 その一本を皮切りに、大小さまざまな形をした骨たちが、驟雨のようにわたしの周りに散っていく。

 それが大鷲さんの骨だと気づくのに、それほど時間はかからなかった。

 大鷲さんの体は、尾羽の辺りからばらばらとその形を崩壊させながらわたしの真横を通りすぎる。半分になった翼で、それでも大鷲さんは羽ばたいていた。

 野馬さんが動かしているんじゃない。もうほとんど慣性だけで、大鷲さんは飛んでいた。

 見上げれば、妖しく光る赤提灯の群れに照らされて、大鷲さんにしがみつく男の姿が見えた。


「篝!」


 もう羽根も崩れ落ち落下する大鷲さんの頭部で、篝が唸る。

 縫いとめられたように立ち竦んでいた野馬さんが、弾かれたようにたたらを踏んだ。

 だけどもう、間に合わない。

 篝は崩れゆく大鷲さんの嘴だけを掴んで、そのまま野馬さんの上にダイブした。野馬さんの身体が地に投げ出される。

 身体が変な方向に捻じ曲がって、なにかが折れる乾いた音がした。

 篝はそのまま嘴状の白い鉱石を振り下ろす。影になってよく見えないけど、野馬さんの顔の辺りから、血飛沫が上がった。

 もう勝負はついたはずなのに、篝は野馬さんに刺さった嘴を引き抜く。

 肉の裂ける音がして、血のにおいがわたしの鼻腔を冒していく。

 篝はもう一度、野馬さんに嘴を突き刺した。


 わたしの喉は引き攣れたように鉄錆じみた空気を吸い込むだけで、なにも言葉を紡ぎだせない。

 わたしは今さら、篝に掛ける言葉を持たないまま、この戦場に飛び出してきてしまったことに気がついた。


 だけど問題はそれだけじゃなかった。

 よくよく辺りを見回してみれば、武装した強面の人たちがこっちに向かってきている。


「え、なにあれ。こっわッッ!!」


 叫んだわたしの頭をスッパーンと誰かが叩く。見上げればイカスミがドリル攻撃を仕掛けてきていた。


「あ、そっか! わたしが乱入したから捕まえに来てるってこと!?」


 『そうに決まってんだろ、アホんだら!』とでも言いたげに横っ面を翼で叩かれる。


「やばいじゃん。やばいよ! 篝! 逃げよう!」


 だけどわたしの声にも耳を貸さずに、篝は野馬さんに馬乗りになったままだ。

 嘴が潰れて使いものにならなくなってしまったからか、素手で野馬さんを殴り続けている。

 その眸は、どこか喜色を湛えているようにすら見えた。


「こ……の、篝のばか!!」


 わたしは叫んで、振り下ろされかけた篝の手を掴んだ。

 篝の腕は、生温かい血でぬるぬるだった。手が滑って仕方ないし、指先が震える。

 だけどわたしは意地でもその手を離さなかった。

 篝が、ようやくわたしの存在を認識する。


「――ミチ?」


 この戦場にも、その血塗れの姿にも似合わないとぼけた声がして、わたしはようやく息を深く吐き出す。


「勝手に乱入してごめん! でも逃げないと。早く――ってハアァ!?」


 わたしは篝の説得も忘れて、目を真ん丸にして空を見上げた。

 知らないうちに円形の空を巨大な物体が覆っている。

 あれはなに。いやなにかは分かる。

 飛行艇的なやつだ。でもテレビの戦争ものドキュメンタリーなんかで見た日本の飛行艇とはちがって、なんていうか海賊船をお空に浮かべました、みたいなデザインをしている。その周りに飛行機が寄り添うように飛んでいた。ジェット旅客機よりもだいぶ小さくて、翼が上下に二枚付いている。たしか複葉機とかいうやつだ。

 その複葉機が、旋回しながらなにかをばら撒いていた。賭闘の主催側が空戦部隊でも投入してきたんだろうか。

 次から次へと奇想天外なことが怒って、脳の処理が追いつかない。

 わたしはほとんど惰性でバドミントンラケットを拾い上げた。


「ねえ、篝ぃ。あれと戦うの? ラケットで? わたし、むり。ぜったい死んじゃう」

「……大丈夫。味方じゃないけど、敵でもないよ」


 篝はそう言って、自分の服の裾で血塗れの手を拭く。それから観客席から落っこちてきた外套を纏って、釦をぴっちりと上から下まで閉めた。

 そうして自分の姿を見下ろすと、渋々といった様子で頷いて、わたしの膝の裏に腕を差し入れる。


「歩けるよ! 篝、怪我してるもん」

「大したことない。それより静かにしてて」


 さっきまで血を流して気を失っていた人がなんか言っている。

 さすがに無理やり振り払うことはできなくて、わたしは極力負担にならないようにぴったりと篝の身体に張りついた。

 外套を纏っても拭い去れない濃厚な血のにおいが、わたしの嗅覚を刺激する。もうだいぶ鼻が馬鹿になってきているのか、わたしにはそれがどの程度のものなのかすら、分からなくなってきていた。

 見渡せば、観客席は恐慌状態だった。わたしたちを捕まえようとしていた武装軍団もそれどころではなくなったらしく、謎の飛行部隊を迎撃するために隊列を組みなおしていた。

 混乱に乗じて、篝はわたしを抱えて駆け出す。


「あのばら撒いてるの、なんだろ。煙玉っぽいのと……あと紙に見えるけど」


 素朴な疑問に、わたしの頼れるキングオブ烏が紙を一枚取ってきてくれた。


「なになに、ええと『賭闘ノ開催ヲ中止サレタシ。野蛮ノ所業ニテ候。即刻汙徒ヲ解放セヨ。青鞜せいとう社』?」


 見上げれば、飛行艇や複葉機には晴れわたる空のような天青色の旗がはためいている。その飛行船の端っこにとんでもない美貌の女の人が、腕を組んで遊戯場を見下ろしていた。

 その人に見とれているうちに、わたしは遊戯場の入り口まで辿りついていた。


「今のうちに、人ごみに紛れて帝都を脱出する。そういえばミチ、鞄は?」

「――あ゛ぁッ!」


 わたしは遊戯場を振り返った。


「わ、忘れてきちゃった。どうしよ、中にアレも入っているのに……」


 間抜けすぎる。でもあのときは篝が死んだらどうしようと必死で、それどころじゃなかったのだ。だけどもし『神書』まがいの巻物が無くなっていたら、わたしは日本に帰る手がかりを永久に失ってしまう。


「――取ってくる!」


 青ざめた顔で篝から飛び降りようとしたそのとき、わたしの顔に薄く翳が落ちた。


「ミチちゃん、ひどくない? 置いてったでしょ。おかげで俺、ボコられるところだったんだぜ」

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