1000. 前へ
偶然にも準々決勝の会場は、瑞希の実家から比較的近い小田原市のアリーナであった。と言っても電車で一時間以上は掛かるのだが。
フットサルのプロチームも本拠地としていて、収容人数はなんと6,000人強。
流石にスタンドすべてが埋まることは無いだろうが、これまでプレーして来た会場のどこよりも広い。ついに決勝トーナメント、って感じ。
「すごーい! モニター付いてる~!」
「ほっほー。また一段と豪華ですね~」
広くて綺麗なロッカールームに比奈とノノは大興奮。山嵜はこの日の第一試合、モニター越しに見るスタンドには、ファビランら子ども応援団と保護者会のみならず生徒も多く集まっている。
サッカー部が大挙して押し寄せたからだ。インターハイを敗退し暇を持て余していたようで、決勝へ進むまでも無く早々に駆けつけてくれた。
「ふーん……西ヶ丘の方も結構いるんだネ」
「人気校やからな。今年は藤村もおるし」
真琴はエンジ色に染まったアウェーサイドのスタンドが気になるようだ。メイン層は生徒たちだが、周囲には一般客もちらほら。
西ヶ丘は高校サッカー界において、近年飛躍的に勢力を拡大している新進気鋭の強豪校。今年のチームも、夏の段階でプロ入りがほぼ内定している藤村俊介、松永ヂエゴと逸材が多い。
将来のサッカー界を背負って立つかもしれない逸材を間近で見られるとなれば、ライト層も挙って集まるわけだ。
『あらっ。半分は貴方のファンじゃないの?』
「どうかな。シルヴィア目当てかもしれないぜ」
「ふんっ! 我の門下生に決まっておろう!!」
(す、すげえ栗宮さん、会話に混ざっとる……!?)
何より、その対戦相手が我らが山嵜である。
ネットでも既に話題らしい。『どちらかが全国に行けないなんて惜し過ぎる』『注目の元セレゾン対決』『予選屈指の好カード』だそうで。
「ふむ。少し早過ぎたがまぁ良いか。まだ一時間以上あるし、サブアリーナでアップするぞ。全員さっさと着替えて…………おっ」
峯岸の号令でみんなが動き出した、ちょうどそのとき。ロッカールームのドアが開き、エナメルバッグを下げた彼女が現れる。
集合時間には余裕で間に合っているが、当日まで連絡が無かったから少し心配していた。なんだ、もうユニフォーム着てるのか。
「瑞希っ! 待ってたわ!」
いの一番に愛莉が飛び出し、彼女の手を掴んだ。挨拶もさせて貰えない電光石火の先制パンチに、やや面食らっている様子。
が、流石に態度が露骨すぎると今更気付いたのか。愛莉はハッと息を呑むと、じんわり頬を染め目を泳がせる。なんて分かり易い。
「あっ、いや、そ、その……こっ、こないだのことっ! 早く謝りたくて、それで……っ! 絶対パニくってたのに、強く言い過ぎたなって……!?」
しどろもどろで弁解するも、瑞希はきょとんとした顔をしていた。まさか覚えていないなんてことは無いだろうが……。
「あーあれ? いーよ別に。気にしてないし」
「へっ? そ、そうなの……っ?」
「あたしもヒスっちゃったし。お互い様っしょ」
「……う、うん。そ、そうね」
「取りあえずさ、長瀬。手」
「あっ……ご、ごめんっ!?」
慌てて繋ぎっぱなしだった腕をブン回す。まるで片思いしている男を相手取るような、ちょっと初心過ぎる反応だ。まさかレズに目覚めたのか。
痛ってーな、とくすぐったそうに微笑んだ瑞希は、バッグを置いてロッカールームを見渡す。
みんなの顔を一人ひとり確認し、最後に俺を見てから、口元をキュッと閉じた。
「……ごめん。心配掛けちゃった。大会中なのに、調子乗ったわ。ごめん」
丁寧に頭を下げる。それだけでも瑞希にしちゃ珍しい行動だが、彼女に非が無いのは分かり切った話。ぞろぞろと駆け寄っていく。
大丈夫だ、なにも悪くない、無事で良かった、今日も頑張ろうと、思い思いの言葉を掛ける皆に囲まれ、少しずつ自然な笑顔が戻って来る。
「……取りあえずは?」
「みたいやな」
「行って来いよ。お前待ちだぜ」
陰で耳打ちする峯岸に、俺は声にならない声で頷いた。一先ずは、いつも通りの瑞希だ。そのように見える。
背中を押され彼女の前へ。お互い手探りなのは重々承知だが、昨日そうすると誓ったばかりだ。これだけは貫き通さないとな。
「……お帰り。瑞希」
「へへっ。どこにも行ってねーし」
照れくさそうに頬を擦り、やんわりと微笑む。
嗚呼、良かった。これならきっと……。
サブアリーナでウォーミングアップを進める最中。手洗いに向かい戻って来ると、ドアの手前で彼女が待っていた。
早くもアリーナから歓声が聞こえて来る。小規模ながらオーロラビジョンが備わっているので、ベンチ入りメンバーの発表でもしているのだろう。でも、心拍音の方が大きいな。心なしか。
「ちょっと重そうやったな」
「まーねっ……夜と朝に走っただけだし。今日はベンチスタートだって」
「流石にな。しゃーないわ」
西ヶ丘の情報も先に行われたミーティングのみ。いきなりスターターとして復帰させるのはリスキーだろう。峯岸を責める理由も無い。
ただ、こうしてプレーヤーとして戻って来てくれたのであれば。やはり期待したくもなる。キャプテンとしての役割やチームを活性化する華麗なテクニックも、今日ばかりは二の次だ。
「……あのさ、ハル」
「うん。どした」
「…………ありがとね」
なんとも言えない面でゆっくりと歩み寄り、腕をふらふらさせて俺の手をちょこんと突っつく。まったく、握って欲しいならそう言えば良いのに。
「あっ……」
「急ぎ過ぎたかなって、少し思ってた。確かにとんでもない事件やったけど……あれくらいで解決するようなモンちゃうもんな」
「……うん。そーだね」
「でも、瑞希が前に進むきっかけにはなったんじゃないかって……まぁ、言うとった通りやけどな。俺がそう思いたい、信じたいってだけの話やねんけど……その、どうやった?」
手には少しずつ力が籠る。あの日は泣きじゃくったまま寝てしまったし、朝はすぐ警察署に行ってしまって、以来話も出来ていなかった。
要するに疑っているわけではないが、確証が無かった。チームのことを考えて、無理して来てくれたんじゃないかって。
尤も、その心配も余計なお節介で終わりそうだ。こうして握り返してくれたことが何よりの証拠。
それどころか、力の籠った右手から『あたしを舐めんじゃねえ』と気楽な暴言でも聞こえて来そうで。酷く安心した。
「……約束。したからさ。全国の会場に、あの人連れて来るって。色々あって、ブレちゃいそうになったけど……でもやっぱり、変わってないから」
真っ直ぐな視線を拵え、言葉一つひとつを咀嚼するよう丁寧に並べていく。
そうだ。春休み、彼女は言った。
すべては解決出来なくても。
自分なりに向き合い、納得してみせると。
極端な話、親子仲が改善しようとしなかろうと、どうだって良いのだ。いや、どうでも良いなんてことはないけれど。でも優先順位がある。
「仲直りするのは、もっと後でも良いかなって。あたしがその気無いし。がんばるとこが違うってゆーか」
「……ん。そうかもな」
「あたしの問題なんだよ。いっつも。勝手に期待して、裏切られた気になって、その繰り返し……だからさ。決めたんだ」
曇りの無い晴れやかな笑顔に、漸く張り詰めた糸も降ろせそうだ。うん、それが良い。まずは一つずつ、ステップを踏んで行くんだな。
あの日から今日に至るまで、進んでは後退の繰り返しだったのだろう。だがその後退こそ、今に繋がる大事な一歩だったと。
彼女は気付いた。
納得して、後退を受け入れた。
そして今日から、また前へ進むんだ。
「これからきっとまた、何度もあの人のこと嫌いになると思う。絶対そうなるって分かってる……でも、やめない。あきらめるのを、あきらめる」
「難しい話しとるな。瑞希らしくない」
「ううん。簡単だよ? だってあの人のこと『ママ』だって、ずっと思ってれば……それだけで良いんだもん。直接言わなくても、思ってさえいれば……あんな奴でもママなんだって、納得しちゃうんだ」
「……なるほど。なら、瑞希らしいかも?」
「へへっ。そーお?」
見慣れたやる気のない弛み顔に、思わず釣られてしまった。
繋がった腕を引き寄せると、細くて小さな身体が腕中に軽々と収まる。驚いたように吐息を漏らすが、彼女は何も言わなかった。
生涯のトラウマさえ乗り越えようとしている自分には、これくらいの権利は当たり前だと無言のまま訴えているようだ。溢れるのは、笑顔だけだった。
「……ありがとう。瑞希」
「んー? なにがー?」
「一緒に、前を向いてくれて」
「なんそれ。よく分かんない」
「ならええよ。分からなくて。そのままの瑞希でいてくれれば、十分やから」
「……んっ。じゃー、そーするっ」
ピタリと重なった額。その隙間を縫うよう音の振動が二人の身体を揺らす。どうやらメインアリーナのドアが開いて、爆音のBGMが漏れているようだ。
現れたのは出来れば今は会いたくなかった、でも向こうにしたら今しか無かったんだろうなとも思わされる、妙な因果を感じるあの男だった。
「ハッ。試合前だってのに、余裕だな」
「黙って見とけ。ええところやぞ」
「……仕方ねえ、大目に見てやるよ。試合が終わったら、そんな調子じゃいられねえだろうけどな!」
さて、そろそろ切り替えるか。
他でもない彼女と、俺たちの未来のために。
こちとら這いつくばって血反吐を撒き散らそうとも、全国まで辿り着かなきゃならないんだ。邪魔するな。
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