127. 理想的なキャンバス


 内側から込み上げるように溢れ出る熱量が、目から頬へ。頬から腕へ。腕から指先へ。巡り巡って微かな暖かさへとやがて生まれ変わり、自らの身体さえ支配し始めていた。


 人間生活におおよそ必要とされる光源までシャットアウトされたダークブルーにおいて、唯一、血の通いを感じられる場所。それがこの右手。


 ところが、交差した華奢な人差し指は想定していたよりもあまりに冷たく、無機質で。氷塗れのバケツに手を突っ込んだような衝撃と、ペパーミントにも似通う華やかな香りが、交互に押し寄せてくるような。不思議な感覚だった。


 確かに握られた右手は、どこへ消えたのか。

 リアリティーの欠片も無い。

 その存在は、現実か。否か。



「耳、真っ赤」



 見下ろされた瞳は、やはり俺が感じていた通り、心はおろか身体さえここに非ず。俺ではない俺を見つめている。


 単に俺へ対して見惚れている、というよりかは、あまりにも非日常なこの空間に酔い痴れていると評するのがより的確だろう。


 言葉通り、なんなら耳どころかつま先まで真っ赤に染まり上がった自身の身体のみが、嫌に生々しくて。尚更屈辱的であった。



「――――ふふっ……冗談っ」

「…………えっ?」

「もう、そんな顔しないで? わたしが意地悪してるみたい」


 依然として世界観に入り切れない俺のせいなのか。比奈は人が変わったように、幼子の成長を眺めるような慈愛に満ちた笑みで、口元を和らげる。


 というか、いつも俺の相手をしているときの。

 あの、顔だ。すっかり元通り。


 そして、何事も無かったかのようにその手を離し、レイさんのもとへと小走りで駆け寄って行く。後方からの眺めは、フットサル部で和気藹々と手を叩く、いつも通りの彼女。



「マジでヤッッバイの撮れちゃいましたっ……これ、コンテストとかに出したら大賞モノですよ、ほんと、めっちゃ綺麗でっ、ヤバいですっ!」

「もおっ、言い過ぎだよ~」


 他人事のように笑う比奈のことが、今この瞬間だけは恐ろしくて堪らなかった。どんな感情を拵えてあの写真を目にしているのだろう。


 そこに居るのは、お前だけど。

 間違いなく、お前じゃないし、俺でもない。



 ちょっと疲れたので、後は見学させてもらいます。そんな一言を告げ、俺は暫し、比奈がコスプレを楽しむ姿を遠目から眺めていた。


 ファッションの趣味に違わず、現れるのは装飾の重たいドレス調の衣装がメインで、そのどれもが不気味なほどに良く似合っていて。


 時折ブレイクを挟むような少女趣味の格好は彼女とて恥ずかしそうに佇んでいたけれど、それも含めてモノにしてしまう、被写体のポテンシャルは隠し通せない。



 留まることの無いシャッター音。


 基本的に彼女はレイさんにあれこれ乗せられて楽しそうに笑っているのだけれど、写真に写る瞬間だけは「違い」というか、別人のような顔を綺麗に作る。


 底が見えない。

 俺は、彼女のなにを知っているのだろう。

 なにを、知った気でいたのだろうか。




*     *     *     *




「今日もありがとうございましたっ! 1時間ご利用のお持ち帰り10枚でっ、4,200円でーすっ」

「あ、こないだ貰ったクーポン使っていいかな?」

「はいはいどーぞーっ!」


 写真館にクーポンの概念が存在するのか。

 せめてポイントカードとかにしろよ。



 俺たち以外に客らしき人物の影は見当たらなかった。というか店員もこのレイさんしか見かけなかったし、割と本気でどういう営業形態なのか気になるところ。


 レイさん自身もコスプレが趣味らしいが、写真は「今度来たら見せてあげます♡」とのこと。別にええわ。


 珍しく歳の近い常連で、比奈ともそれなりに長い間柄らしい。いつから通っていたのかとか、そういうのはもうお腹いっぱいだから聞かないでおこう。



「はいっ、ひろぽんさんっ! サービスです!」

「え……なんすかこれ」

「こっそり撮っちゃいましたっ!」


 そう言って差し出されたポラロイド写真には、例の執事衣装のまま比奈の撮影をボンヤリと眺めている、俺の姿が映し出されていた。


 いや、なに勝手に撮ってん。

 しかもなんのポーズも取ってねえときに。



「普通に立ってるだけでメチャクチャ様になってたんで、ついっ……あっ、これはホント、わたしの趣味なんで! お金とかいいですからっ!」

「は、はぁ……っ」

「だからっ、また来てくださいねっ!」


 こうも念押しされるとどうにも弱い。

 そのうちまた来るんだろうな。嫌でも。



 陽が落ち掛けて来た頃、俺たちは再び繁華街へとその身を投じることとなる。右隣には、先ほどよりかはまだ大人しめだが、やはり街を歩くには目立つ彼女。


 そう言えば、店を出てからまだ会話が無い。

 というかエロ本云々のくだりからやり取りすら無いことに気付く。


 絶え間ない雑踏の最中。コミュニケーションさえ覚束ない二人の距離感は、少し浮いた恰好よりも、よっぽど異質なものに思えた。


 なにを考えているのだろう。

 悩めば悩むほど、分からなくなっていく。



「なんかもう、いいかなって」

「…………あ?」


 静寂を打ち破ったのは、どことなく気の抜けたような。いや、間違いなく気が抜けていたのは空返事に終わった俺なのだろうけれど。


 けれど、他に適した言葉も見当たらない。



「すっごく楽しかったのっ。いつもなら、絶対に恥ずかしくなっちゃうんだけど……なんでかなあ。陽翔くんが相手だと、全然緊張しないんだよねえ」


 その感想は、共に過ごした午後の時間を一纏めにしたものなのか。それとも写真館での出来事を指して言っているのか。いまいち見当がつかない。


 他に意味は無いよ。そう言っているかのような、屈託の無い笑みばかりが飛び込んでくるものだから、余計に混乱してしまうのだ。



「どう? コスプレ、楽しかったでしょ?」

「……まぁ、新鮮な体験ではあったな」

「ふふっ……また一緒に来ようよ、いいでしょ?」


 踊るようにステップを踏み、一歩先へ。

 揺れ動いた影は、まるで心模様。



「わたしっ、白黒なんだよね。髪の毛と肌の色も、そうだけど。だからたまに、虹みたいに派手な色を、思いっきり描いてみたくなるの。まぁ、あんまり人には教えられない、過激で、インパクトのある、おかしなイラストだけどね?」


「そういうところ、見せたくないし、見せる必要も無い……そう思ってたんだけど。でも陽翔くんなら、良いかなって。なんか、思っちゃったんだ。おかしいよね。あんなに自分のこと知られるの「イヤだ」って、泣きながら言ったのにね?」


「……わたしがパレットなら、フットサル部も、陽翔くんも、わたしに色んな色を与えてくれる、絵具、絵筆……うーん、まだクレヨンくらいかな? でも、わたしはそこに居る、ただの板だから」


「みんなが……陽翔くんがいるから、自分が自分で居られて、わたしになれるんだなって。そう思いましたっ。以上、ですっ」


 跳ねるように振り返って、ニッコリと微笑む。

 一人で勝手に盛り上がって。

 なんやねん。コイツ。



「パレットのくだり、瑞希の前ですんなよ」

「……あっはははっ! もうっ、ひどいよっ!」


 笑ってやるなよ。本格的に可哀そうだろ。

 つうか、今の皮肉が分かるんだな。お前でも。

 やっぱコイツ、天使より小悪魔の方が似合うわ。



「まぁ、板ではないな。確実に」

「…………へっ?」

「あれや。類は友を呼ぶってヤツやな。うん、間違いねえ。やっぱ琴音が親友なだけはあるわ」

「……どういうこと?」

「お前だけじゃねえって、そういう話」


 云うならば、真っ白な壁みたいなもんだ。

 そこに色を与えてくれたのは、お前もそうだろ。



「この服、ちょっと気に入ったわ」

「…………うんっ……」

「比奈が選んでくれたんだろ。なら、俺だってパレットで、比奈が描いた絵。そーゆーこった。自分が思ってるより、ずっとデザイナー気質やで。お前」


 その事実に、彼女は気付くのだろうか。

 遅すぎることはない。今からだって。


 お前が思っているより、俺は色んなものをお前から教えてられたり。与えて貰ったり。人間なんて、総じてそんなものだろう。


 誰かにとって、都合の良い。

 あぁ、言い方悪いかなこれは。


 理想的なキャンバス。そんなところだ。



「…………ねえ、陽翔くん」

「んっ」

「わたし、髪の毛染めようかな?」

「……はっ? 急にどした?」

「ちょっとだけ興味あったんだよね」

「黒髪が琴音だけになっちまうだろ。やめとけ」

「陽翔くんがいるでしょ?」

「同じ括りにすんな」


 どういう風の吹き回しか。あの優等生が染髪して教室に現れたら……いやフットサル部でも同じか。どんな反応が返ってくるのだろう。それはそれで興味はある。


 どうせ、似合うんだろうけどな。

 お前なんて、どうせ可愛いんだから。


 つうかさ。言った通りだろ。

 お前やっぱ、ただの壁じゃねえよ。


 仮にそうだとしても。自らの意志で筆を滑らせる、最新型のキャンバスだな。景気の良いことで。



「あっ。そうだ。やっぱりこれ、貸しておくね」

「…………はい?」


 鞄から取り出された一冊の本。

 強引に手を掴まれて、受け取らせに掛かる。


 これ、あれじゃん。

 さっき買ったエロ本。


 え? なに? 急にどうした?

 街のど真ん中でなにしてんのこの人?



「あのね。こういう本に出てくる女の子って、すっごく可愛いんだよ。でもね、すっごくえっちなの。凄いでしょ? 可愛さといやらしさって同居できるんだよ。これって、奇跡だと思わない?」

「いや、え、ちょ、待って。待っ」

「これだけは二人の秘密なんだから。ちゃんと理解して、共有して貰わないと困る……っていうか、駄目なんだから。いい? 読んで感想言ってね? 絶対だよ?」



 裏表のない、純粋な笑みがもはや恐ろしい。

 ブレーキが壊れている。なんなら最初から無い。


 あぁ。これは、不味い。

 そこまで気遣うつもりはなかったというのに。


 小悪魔なんてもんじゃねえ。

 とんでもないモンスターを生み出したかも。




「――――楽しみに、してるから」



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