38. 分かってんだよ


「手の形はこう。三角形を作ってボールを取る」

「こう、ですか」

「そうそう。転がってきたのは、小指を付けて、そうそう。なんや、意外とセンスあるな」

「ばっ、馬鹿にしないでください……これくらい、誰でも出来ます」

「じゃ、今から実際にシュート打つから」

「いえ、ちょっと待ってください。心の準備がっ」


 どれだけ真面目に練習しても、恐怖心はある。

 その辺り普通の人間で非常に安心していた。



 その後は、倉畑が円滑にパス回しを出来るよう二人がレクチャーし、俺が楠美の指導に回っている。


 初心者らしくグダグダではあるが、倉畑もだいぶボールの扱いには慣れて来たようで。サッカー部との試合でも同じことが出来るかと言えば甚だ疑問だが、こればかりは積み重ねだ。



 楠美には、いきなりシュートを打つのも可愛そうなので、ボールを投げキャッチさせる。


 加えて、飛んできたボールを外に弾く練習を。実際の試合では、確実にキャッチするより外に弾いた方がずっと楽だし、実用的だ。



「ほいよ」

「……えいっ」


 結構厳しめのコースに投げたボールを、しっかり弾き出す。本物のシュートはこんなものでは無いが……練習初日なら及第点だろう。



「……反射神経はええな」

「なんですか。それ以外が悪いとでも?」

「いや、悪いって。そんな全身で止めに行かんでも、腕伸ばせばええから」

「……まぁ、その通りだとは思いますけど」

「初めてでこんだけ出来んなら十分やけどな。センスはあるわ。うん」

「…………それはどうも」


 少し照れたように、顔をプイッと逸らす。


 普段からこれくらい汐らしくしていれば、ダントツでタイプなんだけどな。どうでも良い話である。



「あら、もう時間じゃない。今日は終わりね」

「ハルぅー。比奈ちゃん超上達したよー」

「おー。見てた見てた」


 片付ける物も無いので、撤収も早い。


 本当なら、ビブスとかマーカーとか色々使いたいところだけど。この人数、この練習レベルではあっても宝の持ち腐れ。いずれは使いたい。予算があれば。



「……ハルト、その」

「はいはい、出す出す」

「ありがとうっ! これで晩御飯作れるっ!」

「困窮し過ぎだろ……」


 決めた。今後一切、彼女の金銭事情には口を挟まないこととする。



 着替えと支払いを終え、全員揃って駅に向かって歩く。金澤が自動販売機のアイスを買って、それに便乗して倉畑と楠美も買っていた。


 長瀬は、それを見ているだけ。

 見かねた倉畑が半分分けていた。

 それだけの金も無いのか。泣ける。



「……3週間、か」

「もう切っちゃったけどね。どーする? これ、毎日練習しないと間に合わんて」


 アイスをペロペロと舐めながら、呑気な声で金澤がボヤく。夕焼けの和やかな雰囲気のせいか、タルそうな声のおかげか、重たい空気にならず済んでいるが。



「……時間も場所も限られてるしな」

「二人とも、お家でも出来れば練習してほしいかなって……ダメ?」

「うんっ。でも、どうやって練習すれば良いかな」

「長瀬、ボール貸してやれば」

「あ、うん。それもそうね」


 ネットに入ったボールを倉畑に手渡す。


 ボール、一個しか無いんだよな。

 不便なこった。やはり買わないことには。


 ……まぁ、あるっちゃあるけど。あんまり人前で蹴りたくない。それに、普通のサッカーボールだし。大して練習にもならないだろう。



「くすみんはほら、イメージトレーニングでも結構出来ること沢山あるからさ。我慢してな?」

「……やるだけやってみます」

「絶対に、絶対に勝つからっ。私がずっと点取ってれば、二人の仕事も最小限でしょ?」

「いやー。どう考えてもあたしの方が活躍するね。ねーハルっ」

「……負けないからっ! アンタには、絶対ッ!」

「おーん!? 掛かってこいやッ!」

「相手間違えんなよ」


 二人が競い出して点を取るような展開になれば、それはそれで楽なんだろうけど。お世辞にも二人のコンビネーションは……時間が解決すれば良いが。



 本当は、俺が言い出さなければいけないのだ。

 いつも通り。

 あの頃と同じように。



「俺がいれば、絶対に勝てる」



 けれど、心はそんな言葉を否定した。

 言いたいけど、言えなかった。


 右横を電車が通り過ぎる。

 二人の言い争う声は綺麗に掻き消された。



「無駄な、悪足掻きだよ。ホンマに」



 代わりに出て来た言葉が、あまりに女々しいもので、いよいよ泣きたくなった。


 そんな俺の呟きも。

 きっと、彼女らには聞こえなかったのだろう。




*     *     *     *




 良い場所を教えて貰った。


 誰もいない、真夜中の公園。外側の草むらのなかに、ごそごそと手を突っ込む。数秒と掛からずにそれは発見された。土で汚れ空気も抜けつつある、小さなサッカーボール。



 わざわざ、原付を飛ばしてまでここに来た意味は、果たしてあるのかどうか。


 分からない。

 分からないけれど。


 全て無駄ではないと。

 信じている自分が、まだどこかにいた。



 手に取って、すぐに地面に転がしてみる。

 回転に違和感のようなものは感じられない。


 空気はまた次の機会に入れておけばいい。

 どうせ使うのは俺と長瀬だけだ。



「…………雨、ではないか」



 次第に風が強まってくる。


 元々それらしい形を成していなかったエセパーマ状態の髪の毛も、横風に吹かれ歪になっていく。


 足元には多少ばかりの寒気を生じさせた。仕方もあるまい。下半身は動きやすいようにと、膝が少し掛かる程度のパンツしか着ていないし。


 ここまですれば、誰がどこから見たって運動でもするのかという格好だ。人に見られたって、言い訳も出来ない。



 誰にするんだ、とも思うけれど。


 今や俺のことを知っているのは長瀬達を除いて、ほとんどいないどころか皆無である。


 そう、この街には。



 或いは、自分自身に対するものだったのかもしれない。ずっと心に残っていた想いを、決して否定しないように。


 さながら鎖で繋ぐような、暗示に近い。

 またある者は、それを呪いと呼ぶ。



「……っと」


 足裏でボールを引き、つま先に乗せて小さく浮かせる。大した作業ではない。このあとが重要だ。こんなところで躓いたら、もうヤル気なんて起きない。



 ポン、ポン、ポン。


 気の抜けた反発音が夜の公園に響き渡る。



 半年ぶりのリフティングは思いの外続いた。

 右足は勿論、左足もそれなりに上がる。

 痛みも感じない。


 ここまで来るまで、本当に長かった。

 半分以上、自業自得なんだけど。


 やはり一度染みついたものは、そう簡単には忘れない。ちょっと文系の大学行ったからって√の使い方くらい覚えてるだろう。そんなものだ。



 だが、これで安心してしまっては元も子もない。俺が目指すべき、目指さなければならない場所はもっと遠く、高いところにあった筈なのに。


 左足のつま先だけで、軽く突っつくような形に切り替える。


 特に身体のバランスが崩れるようなこともないし、続けるだけなら永遠と出来るだろう。でも、それじゃ納得いかない。



「…………っ……!」



 高く、高くボールを蹴り上げた。


 身長の5倍にも届きそうなところまで登って、下降し足元へと戻ってくる。そして一瞬のタッチと共に、再び空へ。



 何回繰り返したって、答えは同じだった。


 もっと、もっと、もっと高く。

 そう思えば思うほど、脚は上がらない。



 バン、バンと、ボールが土を叩く。ついに差し出すことも辞めてしまえば、無情にも地面へ叩き付けられるだけ。



「…………分かってんだよ、そんなの」



 これが現実。


 俺という人間の前の突き付けられた、どうしようもない事実なのだと。受け入れるしか無いのか。


 違う。俺はまだ、まだ。

 そんなところにまで落ちていない。



 こんな喪失感、さっさと拒絶したくて。

 再びボールを上げ、天高く蹴り上げる。


 上昇を続けるボールの少し先には、それなりの高さと傾斜を誇る滑り台が見えた。誰が使っているわけでもない深夜の遊具なら、迷惑も掛けられない。


 山頂で子供たちが座るスペースには、転落防止用にしっかり壁が張られている。その大きさは、そうだな。ボール一つ分、あるかないかというくらいだろうか。



 距離は5mも離れていない。

 まさか、あれくらいなら当てられるだろう。


 何十メートル以上も離れた場所から、誰かに向かってボールを蹴ることくらい、日常の一つであった俺には。



 出来ない筈が、無い。


 筈、なのに。



「………ッ!」



 視界が揺らぐ。


 いつどんなときだって丸いままのボールは、どこか角ばって見えて。雲一つない澄み切った空は、グレーの模様を描き。



 やがて、全てを疑いたくなった。

 俺は今、なにを見ているのか。

 なにが見えているのか。


 ついには、たった唯一の存在価値であったその身体すら、水に溶けていくような。




 弾けるような破裂音が公園に響き渡った。

 本当に破裂しているわけじゃ、無いんだけれど。


 だがそれは、どこか遠い場所に飛んでしまった心を現実に引き戻すには、十分すぎるほどで。


 転々と地面を転がり続けるボールを、なにか虚ろな瞳で眺めていた。


 でももう、それすらあやふや。

 なにを考えているのか。

 なにをしていたのかすら思い出せない。



 そうか。


 今、この一瞬だけ。

 俺は、思い出そうとしたのだ。


 ただ真っ直ぐ、輝かしい未来だけを見つめていた、あの頃の自分を。


 ひたすらに、喜びだけを追い求めていた。

 一番なりたくて、輝きに満ちていた俺を。



 でも、もう、駄目だった。思い出せなかった。



 髪の毛を揺らす静かな風が、動きを止めたボールと、空っぽの心ごと。


 どこかへ連れて行ってしまった。

 そんな気がして。



 無力な身体と心ごと、風に飛ばされて消えた方が、ずっと楽だった。


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