私とレイの出会い 01

 しくった、と内心舌打ちしたのはこの学校の音楽の授業について、だ。

 最寄りの高校を受験したので、音楽の授業があることまで調べていなかった。絶対に出たくないと思っていたのに。僅かでも触れる可能性を捨て去りたかった。隣町の高校は音楽か美術か選択できると訊いたので、そっちに行けばよかったと思ったが後の祭り。


 溜息をつきつつ、まぁ大人しくしていれば大丈夫よね、と楽観視していたのが危機感無さ過ぎて我ながら笑う。

 案の定、音楽の先生にピアノを弾くよう名指しでお願いされた。


「……お断りします」


 私はヘラヘラ笑う先生の顔を睨みつけながらそう答えた。まさかそんな返事が来るとは夢にも思わなかったのか、先生の表情がみるみる凍りつく。若い先生で、クラスメイトと和気藹々と進めていたので、それに水を差すのはちょっと申し訳ないわ。

 けど、無理だった。

 弾きたくない。

 ってか、弾けないのよ。


 ──先生は知っていた。

 私があの柊響ひいらぎ ひびきの一人娘、だと。

 私の母は世界的に有名なピアニストだった。

 私が母に憧れてピアノを弾いていると……。

 古い情報ね。


 先生が苦笑いを浮かべて、そうだよね、突然指名されたら柊さんも困るね、それじゃあ……私が弾こうかな! とハキハキと続けるけど、この淀んだ空気を切り替えるのには力不足だった。そのままギクシャクと授業は進み、ようやく終了を告げる鐘が鳴る。先生は淡々とテンプレの言葉を並べ、逃げるように教室を後にした。


 ……視線を感じる。

 ジロジロと私を伺うクラスメイトの好奇心満載の視線が嫌でも感じ取れる。


 ――まだ入学したて、高校一年になったばかりなので話せる知り合いは居るけど、友達は居ない。……このままできないかもと思ったけど、別にその方が気楽かもしれない。中学の頃とか一緒に会話する友人には恵まれたけど、グループ作って行動するのは時々めんどくさいと思ったから。


 私はわざとゆっくりと支度を終えて、音楽室を後にするつもりだった。この後は……昼休み。何故か女子は教室で一箇所に固まってご飯を食べてる。きっと私の噂話で盛り上がっているわね。まだ各々友達が居ないので、お互いのことを上っ面だけ並べて相手を知ろうともがく友達のお見合いサークル。そろそろ脱退を考えていたので願ったり叶ったりじゃない。


 立ち上がると、堂々とその巨躯を魅せつけるグランド・ピアノが嫌でも目に入る。途端に、幻影が私の視線に浮かび上がる。ドクン……ドクン……と歪な脈動を覚え、私は頭を振ってそれを振り払う。で、さっさと教室から退出したらいいのに、引き寄せられるように近寄ってしまう。

 ピアノ椅子に座る。

 鍵盤蓋に手をかけ、そっと開く。……その瞬間、まるで匂いがわっと私に降りかかるように、当時の記憶が幾重も私の中で浮かび上がり、そして消えた。鍵盤に指をかけて……嗚呼、やっぱり嫌だ。

 痛い。

 痛みを感じる。ぞわぞわと震えが止まらない。あの……私を蔑む視線が怖くて堪らない「なんだ、弾かないの?」


「誰!?」


 びくん! と体が震え、反射的に声を出していた。声がした方向を向くと、扉の前に一人の女子生徒が立っている。


「誰って酷くない? クラスメイトだよ」


 足音を立てず、そっと音楽室の中にその生徒は(クラスメイトと名乗るけど名前は不明)入ってきた。


「……ごめん、あなたの名前がわかんなくて」

「ふふっ、天彩あまいろレイ。別に気にしなくていいよ、私もさっきまでひいらぎさんって先生に呼ばれるまで名前わからなかったし」


 ナチュラルにふわりと靡くボブカットがまず印象的だった。前髪を小さな花飾りのついたピンで留めている。続いて、吊り上がった大きな瞳とツンと尖った鼻、薄い唇がバランス良く配置された整った顔立ちの……こんな可愛い美少女が私と同じクラスに居たの? と焦った。けど、まぁ名前順の席なので、天彩と柊では席が離れているから気が付かなかったのかも。


「で、弾かないの?」


 腕を組み、天彩さんは問う。不思議な威圧感を覚えつつも「私は……弾かない」と答えた。


「え~今めっちゃ弾きそうだったじゃん」

「いいでしょ、別に」

「さっきみたいに『お断りします』って奴?」


 天彩さんは小首を傾げ、片腕で顎を支えながら訊いてきた。外見は小動物っぽい印象を覚えたけど、仕草からは妖しい雰囲気を漂わせる。まるで私の胸の内を探るような視線に思わず目を逸らす。私の視線が行き付く先に広がる鍵盤……これからも逃げるように、蓋を閉じた。


「そうよ」

「えぇ~なんで? だって柊さんってピアニストの娘で、ピアノ習ってたんでしょ? 先生めっちゃ熱く語ってたな~。でもそれぶった切るように断わって、クラスの皆あわわわ~って焦ったよ」

「不快にさせたなら謝るわ」

「ううん、面白かった。凄い子いるなぁ~って。高校に入学しても結構平和だったからいやぁ~いい刺激になりました」


 あけすけにものを言う態度に面食らった、けど私は振り切るように立ち上がる。そのまま天彩さんの隣を通り抜けようとした。


「え、待ってよ」

「お昼休み終わっちゃうわ」

「ピアノ、弾かないの?」

「だから……お断りします」突き放すように言い放つ。

「どうして?」天彩さんは特に気にすることなく食いついてくる。

「……秘密」

「教えて」

「嫌よ……。ってか何なの、あなた」

「ただのクラスメイト。好奇心旺盛な――」


 近い、と思った。

 大きな瞳に映る私が見えるくらいに、近いじゃない……。

 一歩下がろうとするけど、それを見越すように更に天彩さんは距離を詰める。……何なのこの子は。真っ直ぐに見つめられる瞳が、……私の記憶と重なる。嫌でも思い出してしまう。夢から逃げようとする私をじっと眺めるその瞳は、蔑みと失望に塗れ、私を抉るように眺めるあの表情が……。


「ねぇ、柊さん」

「何って……ちょっと」


 ぎゅっと手を握られた。

 冷たい。

 天彩さんの指先から忍び寄る冷気を感じた。ぼぉっと伝わる何かを感じて、咄嗟に指を引き抜いてしまった。


「──そうだね、柊さんはトラウマでもあるんだよね?」

「トラウマ?」

「そうそう、ピアノに対しての。だから拒否するんでしょ?」「さぁ」「ふふっ、わっかりやすいね、柊さん。無表情飾るけど実は顔に全部出ちゃうタイプだね」

「ごめん、もう行っていい?」

「――私もだよ」


 天彩さんから得体の知れない何かを感じ取り、思わず逃げようとしたけど、再び指を掴まれる。今度は……優しく。震える私の指先をねっとりと絡みつくように捉えて、そして……私の掌に描かれた傷跡を指で擽るように擦る。


「私もね、夢を諦めたの」


 囁くような声色だった。

 鼻と鼻が触れ合いそうな距離で、天彩さんはそう告白する。ぞわぞわと背筋が震えた。私の傷跡に天彩さんの指が突き刺さるようで、不快。ただ……天彩さんのにぃっと笑みを浮かべる表情はとても可愛らしくて、一瞬何も考えられなくなるほど、天彩さんの笑顔に見惚れていた。


☆★☆★



//続く

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