第26話 慈悲、成長、機転、物語
「凄いぞ。これほどまでとは。お前達の力、存分に使わせてもらうぞ」
シナオカはエリルに向かって走り出す。同時に自分の身体ほどある球体を両手から放つ。その勢いは目で捉えるのがやっとで、すぐにエリルの両翼を消滅させた。
地面にふわりと落ちるエリル。しかし彼女からは焦りや恐怖は一切感じられなかった。その代わり、まるで慈悲のような感覚が身体を伝う。
地を駆けるシナオカに対し、ゆっくりと歩くエリル。対峙のその瞬間。大きく振りかぶったシナオカの腕の軌道を、紙一重で避けるエリル。その姿は半紙のように薄く感じられる。
「あなたの攻撃はもう当たらないわ。風が教えてくれるの。あなたはとても、悲しい人だと」
「俺を哀れむんじゃねぇよ。だったら風ごと吸収してやる」
シナオカは周辺の空気を吸収し出す。そして身体の大きさもさらに増した。動けない僕達はそれに引き寄せられている。このままだと全員奴に取り込まれてしまう。
「『風断』」
エリルが言葉を発すると、まるで刃物で何かを切り落としたような音が聞こえた。刹那、引き寄せられていた身体が止まる。
「ほう。空気を切るのか。面白い」
「私は何も面白くないわ。早く終わらせましょう」
「馬鹿にしやがって」
シナオカは顔のない表情で怒りを表した。少し焦り始めているんだ。見守る事しか出来ない。それに《癒しの眼差し》すら、今のエリルには必要ないように感じる。
「この空間ごと、全て取り込んで終わりだ」
シナオカの纏った闇が、今まで以上に黒く唸る。すると空気が震え出す。部屋の中瓦礫が引き寄せられ、天井や壁も崩れ落ちた。デタラメな事をしようとしているが、古来種とはそういうものだ。本当に全て吸収する気なのだ。
「エリル!遠くへ逃げて!」
僕は声を振り絞り叫んだが、エリルは振り返り、ただ微笑んだ。それは彼女の心の声を届けた。もう、終わりにしよう、と。
エリルは逆にシナオカの方へと歩いて行く。そして彼女の言葉と共に、時間が止まった。
「『無風』」
空気の震え、落ちる天井、シナオカの動き、その全てが止まる。その中をエリルはゆっくりと歩いて行く。しかしそれは時が止まった訳では無かった。時が止まったと錯覚するほど、エリルが早く動いていたのだった。
一歩一歩踏み出すエリルは、悲しい顔をしていた。もうこれ以上誰も失いたくない。それが知らない誰かであったとしても、出来る事なら救いたい。そう言っているようだった。
動かないシナオカの前に立ったエリルは、右手を伸ばした。そして手の平を向け攻撃を仕掛けた。
「『花鳥風月』」
大きく柔らかい風が吹いた。そこには花が咲き乱れ、鳥が鳴き、木々が茂り、月が照らす。その全てが風によって作られている。透明で見えないはずの風が、その光景を幻想かのように脳裏に浮かび出させた。
「あなたに、風の慈悲と裁きを」
その景色がゆっくりと時間を掛けて、シナオカの身体に吸い込まれていく。花も鳥も月さえも、全てが消えて無くなった。数秒の出来事だったろうか。しかし永遠にも近い時の流れを感じた。その時だった。また時間が動き出す。
「はっはっは。何故か分からないが凄まじい力を俺の中に感じるぞ!」
シナオカが壁を軽く指差しただけで、触れてもいないのに壁が崩れ落ちる。まさか、今ので逆効果になったのか。
「よしよし。これで本当にお終いだ!うぉぉおおー!」
シナオカの身体から闇が溢れ出す。周りの空気にヒビが入ったかのように、空間が歪み出した。するとエリルは振り返り、僕の方へ歩いて来た。
「お待たせ。もう大丈夫よ」
「背を向けたな。もうお前の負けだーーー」
「『風の籠』」
僕に向かって歩き続けながら放った一言は、シナチクの身体を空中に飛ばした。そして奴の周りは分厚い風の球体で囲われている。
「籠の中の鳥。あなたの最後に合っていると思うわ」
「こんなものー、弾き飛ばしてやるわーーー」
『風の籠』の中で闇のエネルギーを放出するシナオカ。しかし籠の内側に当たると、それが跳ね返り自身へと戻っていく。
「なるほどなーー!でも吸収すれば問題ねぇ!」
シナオカはしばらく籠の中で、自分の力の吸収と発散を繰り返した。そして数十秒もしない内に、圧倒的な危機を察したようだった。
「ふざけるな!俺がこんなところで死ぬわけがないんだ!」
徐々に膨れ上がった身体は、もう籠の中いっぱいになっている。そしてシナオカの身体は、弾け飛んだ。
『風の籠』が消え、バラバラになった肉片がそこら中に落ちる。その一つ一つがまだ闇を纏っていた。すると遠くでアイリスの声が聞こえる。
「エリル、ちょっと退いてて!『豪雨』」
アイリスは無数の矢を空中に放った。そして一つ残らず肉片を突き刺す。その炎は煙を上げて燃え、シナオカがいた事を否定するように、全て燃やし尽くした。
すると僕の無くなっていた下半身が戻って来た。アイリスの右脚も、キャンネルさんの身体も戻っている。終わったんだ。本当にこれで、終わったんだ。
「あらん。私はどうして倒れてるのかしらん」
キャンネルさんが意識を取り戻す。
「『風鈴』」
エリルは僕達三人を引き寄せた。その風は優しく、とても優雅だった。そしてエリルは僕達を抱きしめた。
「ありがとう。みんな、本当に無事で良かった」
エリルの腕から感じたのは、姉と言うより母のような愛情だった。その愛に包まれながら、僕達はしばらく勝利の喜びと生きている実感に身を委ねた。
「アイリス。あなたには酷い事を言ってしまったわね」
「ううん。そんな事ないよ。私の気持ちを救ってくれたんだよね。エリルだって辛かったはずなのに…」
アイリスは涙を流す。
「私ね、自分勝手だったんだよ。仲間の恨みって言いながら、本当は自分のために考えてた。でも本当に報われていなかったのは仲間じゃなくて私だったの。もう後ろは向かないよ!仲間は今でも私の記憶の中にいるんだから」
「アイリスちゃん、お疲れ様。これでやっと報われたわねん」
「うん。みんなありがとう」
そうなんだ。エリルとアイリスの共通の敵の親玉を、この手で滅ぼした。念願が叶ったんだ。でも今は、それ以上に価値ある物を手にしている。それは、自分を愛する事の出来る自分になれた事だ。
「これでやっと目的を果たせたね」
「そうねん。でも」
「キャンネルさんの約束ですよね。忘れてないですよ」
キャンネルさんは首を振った。
「違うのよん。エリルちゃんのもう一つの目的。お父さんの記憶の事」
「大丈夫よ、キャンネル。私はもうそれ以上に大切なものを見付けてるわ。新しい家族とのこれからをね」
「でもねん。私、とっても重大な事を言わなきゃなのん」
そう言ってキャンネルさんは、胸の谷間からある物を取り出した。
「じゃーん!これは何でしょう?!」
「それは、記憶カプセル?」
「そうよん。中身が分かるかしらん。ヒントは《交換所》よん」
「まさか!」
「キャンネル、あなたって人は」
「うふん。これでも年長なのよん」
「もー!私何か分からないーー!!」
それは間違いなく、エリルのお父さんの最後の記憶だった。シナオカが握り潰す直前に、転がっていた小石と入れ替えていたらしい。
「凄い凄ーい!天才キャンネルだ!!」
「もっと褒めても良いのよん。でもね、誰か一人でも欠けていたら、こうはならなかったのよん。エリルちゃん、ありがとう」
そう言ってカプセルを渡すキャンネルさん。
「ええ。これは四人の、いえ。今まで関わった人との力があったからこそよ」
息の切れた優しい達成感の中、突然アイリスが抱きついて来た。
「ねぇビン!私お腹空いた!」
「そうだね、僕もペコペコだよ。エリルは何食べたい?」
「そうね。マヨネーズかしら」
「それ食べ物じゃないよー!」
「それよりまずはシャワーを浴びたいわん。ビンちゃん、早く一緒に入りましょう」
「駄目!ビンは私と入るの!」
「いや、一人で大丈夫だから」
こうして僕達の旅路は、一旦幕を引く事となる。失ったものは多かったが、それでもこの旅には深い意味があった。人はいつも成長している。失敗も成功も、好きも嫌いも、過去も未来も関係なく、全て自分のために起こっている。起きた事をどう捉えるかで、人生の意味は大きく変わっていくのだ。僕達は覚えている。仲間と過ごした記憶がある。例えそれが辛い記憶だったとしても、これからの僕達がその意味を変えていけば良いんだ。人生という旅は、まだまだ続くのだから。
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