第17話 別れたくない

 それから二週間ほどは、変わらない日常が続いた。

 頼人は何かにつけては梨華にものを言いたそうにしていたが、梨華は取り合わなかった。

 頼人宛の内容証明が自宅に届き、梨華はそれを寝室にある夫の机の上に置く。郵便物は全てそこに置いておく習慣である。岩崎から届いた、慰謝料請求の書類であることはわかりきっている。

 職場に送らなかっただけマシである。

 同じ日には、不倫相手の自宅にも同じような封書が届けられているはずだ。

 ちょっとしたお嬢様の自宅に、弁護士からの手紙が到着し、さぞかし親は泡食っている事だろう。

 あるいは、夫の頼人から本人が聞いていて、郵便物を全て本人が自ら受け取るとか、なんらかの予防線を張っているかもしれないが、どちらにせよ伝わることだ。

 梨華が請求した金額は、ごく普通のOLが一括支払いするには大きいはずだから。親に頼らざるを得ないことになる。

 近頃は帰宅時間が早くなってきた夫が、机の上を見るなり寝室を飛び出してきてキッチンにいる妻を問い詰めた。

「なんだこれは!」

 封も開けずに怒鳴り散らす。

「向井頼人様宛の郵便物ですね。」

 しれっと応じた梨華は、時計を見ながら洗い物を続ける。まもなく、二人の息子が塾から帰るのだ。

「本当に俺に、慰謝料を請求するつもりなのか!」

「慰謝料だけじゃありません。離婚もです。別居に伴う婚姻費用、引っ越し費用、それから養育費も、です。別れた後の財産分与についても触れてますからしっかり読んでね。」

「俺は離婚なんかする気は無い。出て行く気も無ければ追い出す気もない。」

「では、それまでは家庭内別居で。どうしても離婚して貰えないなら調停申し立てもします。それでも駄目なら裁判も辞さない覚悟ですから。」

「梨華っ!」

 封書を床に叩きつけ、キッチンにいる妻の所までずかずか寄って来る夫に気付くと、彼女はさっとシンク下の扉から刃物を取り出した。

「近寄らないで。」

 長年愛用している肉切り包丁を右手に持ち、刃をこちらに向ける。とても使いやすいので、まめに研いでは毎日使用しているお気に入りだ。

 さすがの頼人も、これには怯んだ。

「な・・・馬鹿なことはやめろ。そんなもの、しまえ!」

「貴方が近寄らなければ、しまいます。先日貴方に殴られた事、わたしは忘れてませんので。これは護身用です。」

 怒りの勢いを失い、その場に立ち尽くす頼人が、小さく何かを呟いた。

「・・・まさか、本当にここまでやるとは。」

「嘘をつき通せばなんとかなるとでも思った?」

「・・・。」

「早い所決着をつけてしまいたいとこね。その方が貴方も好都合でしょう?わたしと別れてとっとと再婚すれば?幸いお相手は独身なんだから、そちらでまた新しい家庭を築いたらいいんじゃない?もちろん、こちらにはそれなりの補償をして頂いた上で、の話ですけど。」

「再婚したいのはお前の方なんだろ。だからこんなに準備がいいんだろうが。」

「別に。長引かせたいならそれでもいいけどね。調停や裁判にかかる費用は貴方に請求するつもりだし、離婚しないなら別居で婚姻費用を支払ってもらうだけのことだし。」

「なんだかんだ、金の話ばっかりだな・・・。俺を捨てて金だけもらって、新しい男と良い思いしようって腹か。」

「そうね、お金の話になるわね。」

「結局金なんだろ。」

 梨華は手にしていた包丁を、シンク台の上のまな板に力の限り突き立てた。

 その音にびっくりして、頼人が鼻白む。

「じゃあ、どうやって償ってくれるって言うのよ!?お金以外に償う方法が無いから法律でそう決まっているんでしょう!?自分のしたことを棚に上げて、わたしばかり責めているけど全ては貴方が原因なのよ!?この数年でわたしは肉体的にも精神的もボロボロになったわ。睡眠薬無しで眠れなくなって、抗うつ剤を飲んで、まともな食事も取れなくて、毎日生きているだけでやっとだって言うのに。お金の話ばかりだって!?当たり前よ!他に償う方法があるなら聞かせて欲しいわ!・・・お金を払うのは、唯一公式に認められた償いの方法なのに、それすらも拒否するのなら、貴方のご両親にも連絡するし会社の方にも給与差し押さえをお願いするしかないわね。」

 そこまで言われて、頼人は今度こそ本当に打ちひしがれたようだ。

 それはそうだろう。

 頼人の会社は社員の素行にうるさい。職場不倫で離婚され給与差し押さえなどと言う事が知れたら、左遷くらいでは済まないだろう。

 そして、実家の親に対してももはや合わせる顔がなくなるのだ。マイホームの頭金まで支払わせておきながら、離婚だなどととうてい言えるわけがない。

 万が一離婚すれば子供は母親の元へ行く。孫の様子を知りたがる親に、隠しおおせるものでは無い。

 だが、何よりも、頼人が拒否しているのは、梨華と別れる事だった。

 浮気や不倫を繰り返しているくせに、頼人は本当は今も梨華の事が好きなのだ。梨華がかまってくれないから浮気をしてしまうだけなのだ。

 だから、自分を大切にしてくれない梨華が悪い。

 不倫や浮気の理由は梨華にある。

 梨華が昔のようになってくれれば、杏奈などとっくに切っていただろう。

 今だって杏奈を切りたくて仕方が無いのだが、中々しつこくて困っているのだ。

 梨華が自分と別れて他の男と再婚するなど許しがたい。

 頼人に対し、梨華自身が『不倫相手と再婚したら』などと煽るようなことを言うから、ますます許せない。

「なんでなんだよ・・・。」

「・・・は?」

「なんでお前そうなの?どうして、浮気相手なんか放っといてわたしの所へ戻って来てって言ってくれないの?もっと一緒に居て欲しいって言わないの?」

「・・・はァ!?」

「離婚だ慰謝料だって・・・そんなんじゃなくて。他にないのかよ!?」

「・・・はァァ!?」

「海斗や陸斗は大事だよ。可愛い息子たちだけどさぁ・・・お前が仕事を好きなことも知ってる。だけど、俺ら夫婦だろ。レスってから何年経ったと思ってるんだよ。お前に拒否られる度に俺がどんなに傷ついてたか、想像もしてなかっただろ?この間も俺に触わられるのが嫌だとか言ってさ、・・・信じられない程ショックだった。目の前真っ暗になったよ。こんなに長い間一緒に暮らしてて、好きで結婚したのにさ。子供が大きくまでの我慢だからと思って、外で憂さ晴らししてたのに・・・いつか、元通りになれるってそう思ってたのに・・・。」

 床に膝をつき情けなく両手もついた頼人は、半泣き声で言い募った。

 いままでのいばった態度が嘘のように、その姿は哀れで、情けなく、みっともない。

「・・・、よ、頼人。」

 唖然となり、なんと言っていいかわからなくなった。

 梨華も、何故夫が不倫をしていたか、ずっと考え続けていた時期もあった。自分のせいなのか、と自責の念にかられたこともあった。

 家事育児で体力を消耗していく自分が悪いのか。もう若くも美しくない自分が悪いのか。彼の言った通り、セックスレスだったことは確かに後ろめたい理由の一つではあるが、梨華だって好きで拒否していたわけではない。身体がもたないから、相手できなかっただけなのだ。体力がもたなかったのは、家事にも育児にも夫の協力が大して得られなかったからだ。年子の育児は睡眠不足と持久力が勝負だった。あの頃にもっと夫が協力的であったなら、喜んで相手が出来ただろう。

 思い当たる理由の全ては、『不倫してもいい理由』にはなり得なかったと思う。

「嫌だ、離婚は嫌だ・・・、別れたくない。」


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