浮気者、ヤルべからず
ちわみろく
第1話 鵜飼の鵜
今日も今日とて主人は出て行く。
私はその後姿を何も言わずに見送る。
ちらりとだけこちらを見て、
「・・・行ってくる。」
低い声で独り言みたいに口にするのが聞こえた。
私はいつものように、
「気を付けてね。」
淡々とした声で答えた。
困ったような顔を外へ向けて、背を丸めて玄関を出て行く夫。
どうせ今日も遅くなるのだろう。もはや、帰宅時間を確認するつもりもなかった。彼は先月購入したばかりの新しい革靴を履いているから、きっと今夜も午前様。どんなお相手かなんて興味もない。
完全に出かけて行ったな、と確信すれば、私は短く
「けっ」
と舌打ちを一つして、玄関の鍵を掛けた。
おっと失礼。下品なふるまい。
そう自嘲しつつエプロンをはずした。
夫を送り出した後は、自分も出勤せねば。
子供たちは30分前にすでに学校へ出かけている。
最後に家を出る自分は、何もかもが家族の中で後回しだけれど、仕方がない。
玄関に置いている姿見に映る自分を見る。
化粧もしていないスッピンの私は、朝だというのに少し疲れて見えた。
とっとと外へ出て稼いで来い。
たんと時間外労働してたくさん稼いでらっしゃい。
鵜飼の鵜のように生活費さえ持って帰って来てくれればそれでいいのだと、そう言われているようである。
勿論妻の
なかったけれど。
なんだか妻の傍に自分の居場所がないかのように思えてならないのだ。
梨華の気持ちはいつだって二人の子供に向いている。おはようからおやすみまで、妻の心は子供のものだ。当然ながらその行動は子供中心であるからして、態度そのものも子供向けである。
そしておやすみの後は、疲弊しきっていくら起こしても起きてくれない。
いい年こいてと言わないで欲しい。頼人だって妻に構ってもらいたいのだ。好きで結婚した相手である。当然ながら子供は可愛いが、恋女房だって変わらず好きなのだ。
しかして、妻の気持ちはこちらを向いてくれなくなった。
長男、次男を産んでから、頼人に対しては優しくない。
『大人なんだから、自分で出来るでしょ?』
そう言われれば、ご飯をよそうのもお茶を入れるのも、シャツにアイロンをかけるのも、洗濯物を畳むのも自分でやるしかない。
献立だって子供の好物ばかりだ。ハンバーグや唐揚げも結構だが、たまには頼人の好物を出してくれてもいいではないか。
いつからだろうか、帰宅する時ため息が出るようになったのは。
今日は早く帰れたから、録画しておいたドラマを見たい。出来れば梨華の作ってくれたおつまみと、彼女の優しい御酌つきの日本酒で。その後ゆっくりと一緒にベッドに入るのがいいだろう。そんな風に期待して家に帰る。帰ると、待っているのは険しい顔をした梨華とわあわあと泣き喚く
結婚した時は、本当に優しい人だなぁと思っていたのに。
息子兄弟を叱る梨華は鬼のようで。
「ただいま」さえ言えずに宥めなければならなかった。
そういうのが何度か続くと、早く帰宅できなくてもいいや、と思い始める。
結婚する直前の優しくて可愛かった妻の事を思い出しては、あれは夢幻だったと自分に言い聞かせる。
「頼人くん、好き。今日もとっても楽しかった。」
デートの終わりには必ずそう言って優しく笑ってくれた梨華は、遠い日の思い出なのだ。
重い足取りで最寄り駅の改札を通った後、誰かが軽く肩を小突いた。
「おはようございます。今日も早いんですね、向井主任。」
「やあ、おはよう。永原さん。」
同じ部署で働く永原杏奈だった。偶然にも最寄り駅が同じだと知ったのは、一年ほど前のことだ。
栗色の長い髪が朝日を受けてキラキラ輝いた。軽くウェーブのかかった柔らかそうな髪は、シャンプーの匂いがする。五歳年下の若い同僚は、さして美人という容貌ではなかったが、何と言ってもその若さが眩しかった。溌剌とした雰囲気と健康的な色気が同居するぽっちゃり体型の女子として、割と職場で人気がある。
駅のホームを二人で歩いて、いつもの乗車口に立ち止まる。
「今夜もいつもの場所で、お待ちしていますね。」
ふふっと蠱惑的に笑う彼女に、頼人は、うん、と答えた。
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