第12話

 居玉は避けよ、という将棋の格言がある。

 玉を初期配置のまま放置するのは良くない、という意味だ。

 しかし、将棋の初学者にこの言葉を送ってもあまり意味をなさない。

 現状が良くない、と分かっていても具体的にどう動けば良いのか分からないからだ。

 良くない状況だと分かっていながらも、打開策が分からずにそのまま押し切られる。敗ける時は大体そういうものだ。

 俺はいま、それと同じ感覚に包まれていた。

 霧香との拗れた関係を放置してはおけない。

 どう考えても話し合いが必要だった。

 しかし、それには四季さんとの約束が枷となっていた。

 霧香と二人きりのところを見つかれば、間違いなく誤解されるだろう。

 現状維持は避けなければならないのに、解決策が見つからない。


「ねえ」


 不意に声をかけられ、顔をあげる。

 机の前に、同じクラスの銀原さんが立っていた。


「ちょっと良い?」

「ああ、うん。いいよ」


 答えながら、反射的に周囲を見渡す。

 最後のホームルームが終わったばかりの教室。

 まだ人が多い。四季さんに報告が必要な状況ではない。


「霧香の事なんだけど」


 銀原さんはそう言って、空いている隣の椅子に腰かけた。

 それから声をやや落として言葉を続けた。


「昨日からちょっと様子おかしくない? 金城くんなら何か知ってると思って」


 うまく言葉が出なかった。

 言葉に詰まった俺を見て、銀原さんが微笑む。


「ああ……やっぱり金城くんが原因なんだ?」


 銀原さんは俺の顔を下から覗き込むように、机にもたれかかった。

 それから悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「何があったか当ててみようか」


 そうだな、とわざとらしく考えるような素振りを見せながら銀原がゆっくりと口を開く。


「たとえば」


 一瞬の間。

 銀原さんの目が、俺の表情を観察するようにじっと向けられる。


「霧香が告白したとか?」

「いや――」


 霧香の名誉のために反射的に否定しようとするも、うまい言い訳が思い浮かばず後が続かなかった。

 それを見た銀原さんが笑みを深くする。


「金城くんは嘘が下手だね」


 思考も言葉もまとまらず黙り込む俺に、銀原さんが言葉を続けた。


「それで、金城くんは霧香を振ったわけだ? 付き合いが長くて、いまさら女として見れなかったとか?」

「……その前日に、先輩と付き合う事になったんだ」

「――え?」


 それまでどこか楽しむような表情をしていた銀原さんの顔が固まる。

 予想外の答えだったのだろう。


「だから振ったというのは少し違うかな。それを踏まえた上で一方的に告白されただけだよ」

「……それは随分と……霧香らしいね」


 銀原さんが言葉を選ぶように言う。


「霧香は多分、時間が経てばいつも通りに戻ると思う。だから心配ないよ」


 思ってもない事を口にして、俺は話を切り上げた。

 気づけば、教室には俺と銀原さんしか残っていない。

 これ以上話を続ければ、先輩にバレた時に面倒な事になる。


「じゃあ、俺はいくよ」


 鞄を手にとって立ち上がる。


「あ、私も帰る」


 後ろから銀原さんがついてくるのが分かったが、意識的に足を速めた。

 一緒にいるところを先輩に見られたくない。

 そう思って教室を出た途端、一番聞きたくない声が耳に届いた。


「竜也くん」


 自然と足が止まった。

 廊下の壁に背中を預けるように、先輩が立っていた。


「遅いから様子を見に来たんだ」


 先輩はそう言って笑みを浮かべたが、その目は笑っていなかった。


「念のため、様子を見に来て良かったよ」


 壁に預けていた背中を起こし、先輩が近づいてくる。


「部室、行こうか」

「……はい」


 表には出さないが、怒っているのが分かった。

 自然と返事が小さくなる。


「その人が、金城くんの彼女さん?」


 背後から飄々とした声が届く。

 振り返ると、銀原さんが興味深そうに先輩を見ていた。


「綺麗な人だね」


 先輩が不審そうな顔で銀原さんに視線を返す。

 銀原さんは上級生相手に怯む様子もなく、にこやかに自己紹介を始めた。


「金城くんと同じクラスの銀原です。霧香の友達もやってまぁす」


 先輩は一瞥だけして、すぐに興味なさそうに踵を返して部室に向かい始めた。


「じゃあ」


 銀原さんに一声かけて、先輩の後を追う。


「また明日ね」


 後ろから銀原さんの声。

 先輩の足がやや速くなる。

 銀原さんから十分に離れると、先輩が口を開いた。


「彼女とは仲が良いのか?」


 いつもより低い声だった。

 先輩の視線は前を向いたままで、表情が見えなかった。


「霧香繋がりでたまに話す程度です」

「そうか」


 部室につくと先輩は鞄を下ろしながら、それで、と俺に目を向けた。


「竜也くん、昨日の約束を覚えているか?」

「……はい。あの、すみません」

「他の女子と二人きりになるのはやめてくれ、とは言わない。ただ報告して欲しい、と言っただけだ。これはそんなに難しい事かな」

「いえ……少しだけ話すつもりだけだったんです。ただいつの間にか周りが帰っちゃってて」

「そうか」


 先輩は小さくため息をつくと、駒を並べ始めた。

 俺もそれに倣って散らばった駒を手に取る。


「良くないな」


 不意に先輩が零した。


「こういうのが良くないのは分かっているつもりだ。ただ、少し……不安でね」

「そんな……約束を破った自分が悪いです。先輩は何も悪い事なんて」


 先輩は小さく笑って、指そうか、と盤面に目を向けた。

 それからは暫く無言の時間が続いた。

 駒と盤面が擦れる音だけが部室に響き渡る。

 窓から夕陽が差し込みだした時、先輩が沈黙を破った。


「罰則のない約束は、あまり意味がないと思わないか」


 思わず顔をあげる。

 先輩は盤面をじっと見つめたままで、表情をうかがう事が出来なかった。


「何か罰を作れば、もう少し真剣に約束を守ってくれるかな、と思ってね」

「……どういう罰ですか?」


 恐る恐る問いかけると、先輩はゆっくりと顔をあげた。

 予想に反して、先輩は微笑んでいた。


「冗談だよ。そういう息苦しい関係は長続きしないだろう。私だってそれくらい心得ているさ」


 安堵すると同時に半分は本気なのだろう、と思う。


「……ごめんなさい。次から気を付けます」

「ああ、明日からそうしてくれ」


 先輩が王手をかけ、小さく息をつく。


「今日はこれくらいにしようか」

「はい」


 俺が駒を片付けている間、先輩は何かを考えるように窓の外を見ていた。

 そして、不意に口を開く。


「竜也くん」

「はい」

「今度の休み、どこか遊びに行かないか?」


 突然の誘いに、一瞬だけ間が空いた。

 先輩が補足するように言葉を続ける。


「思えば、デートらしいデートをしてないと思ってね。どうかな?」

「……自分から声をかけるべきでした」


 もっと早く俺から声をかけていれば先輩の不安も払拭出来ていたかもしれない。


「決まりだな。明日の部活で話し合おう」

「はい」


 頷いてそのまま先輩を並んで部室を出る。

 帰りの先輩は普段と変わらない様子に戻っていた。

 それに安堵し、いつものように駅前で別れる。

 その直後、スマホが短く震えた。

 駅で確認すると、銀原さんからメッセージが届いていた。


『何か悩み事あるんじゃない? 相談乗るよ?』

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