三章~漆話
朝から風呂に浸かるという行為はとても贅沢で、至福なのだと朱音は一人感じていた。と、同時に慣れている家の風呂でなく他人の風呂だというのに幾ばくかの恥ずかしさも感じていた。
「……いくら冷えてたとはいえ、人様の家のお風呂に朝から入るなんて失礼なんじゃ……」
「黒紅が良いって言ってたんだから良いんだよ。あんた細かいこと気にしすぎ。良いじゃん朝風呂、さっぱりするよ」
戸の向こうから聞こえてくる、心底面倒臭そうな空隠の声に朱音はなにも言えずに湯船に浸かる他なかった。だが、そんな沈黙に朱音は耐えきれずすぐに口を開く。
「ねぇ、空隠さん」
「なに」
「空隠さんは……その、黒紅さんと住んでどのくらいたつの」
「さぁ? 一年はたってないかな。覚えてない、どうでもいいから」
抑揚のない、感情を伴っていない声だがどこか本当にどうでもいいというのが肌で感じられる空隠の言葉に朱音は少しの寂しさを覚えながら、また口を開ける。
「……でも、私よりは黒紅さんといるからわかるよね。ねぇ、黒紅さんっていつもああなの?」
「ああっていうのは? 聞きたい事とかはぐらかして腹立つ事? 嘘つきでうざったい事?」
「え、嘘つき?」
予想だにしなかった言葉に驚きを隠せない朱音に対し、空隠は戸を隔てていても聞こえる大きなため息。
「嘘つきだよ、といっても商人として物を売ってる時だけね。安いもん高く売り付ける時に軽々と嘘つくだけ。あんたと話してる時の黒紅はそれなりに本心でいるから、嘘つかれてないよ」
「そう……ねぇ、他にも教えてくれる? 黒紅さんの事……それと、空隠さんの事」
「……物好きな人間だね、あんた」
「っふふ、そうかも。ねぇ、まず空隠さんは──」
風呂場でそんな会話を繰り広げているとは知らない鬼族の二人は、居間で朝餉の準備を黙々と行っていた──のだが、沈黙を破ったのは黒紅の大きな声。
「……っくしっ! っだー! んだよ朝から!」
「黒紅、風邪か」
「いや、体調は悪くねぇ。多分空隠の馬鹿が俺の悪口でも嬢ちゃんに話してるんだろ」
「空隠に陰口を言われるような事をしていたりするのか、黒紅は」
無表情の青天に言われた言葉に、黒紅はわかりやすく眉をひそめる。
「してねぇよ……俺はな、空隠にここで暮らす代わりに、店の従業員として働けってあいつに言ったんだ」
「従業員として……」
「空隠のやつ、自分の事を綺麗だ可愛いだと自意識の強い事を言う割に……人間に姿を見られるのを嫌っててな」
「……それは、そうだろう。人間は、自分達と違う外見というだけで忌み嫌うのだから」
青天は空隠の姿を思い浮かべた。人間にはあり得ない、長い長い空色の髪。片方ずつ色の違う瞳は、茶と赤で光る。半身が妖だからなのか、年齢にそぐわない体躯や雰囲気。
「あいつさ、両親を喪ってから……独りで生きていて、そんで人間に色々と……まぁあんま口にしたくねぇような事されたり、されかけたり……そのせいなのか引きこもりでな。だから、人前に出たがらない。でも自分の事は見てほしい。不安定で、怖がりな奴……面倒くせぇ奴なんだよ」
「……不安定……」
「そう、不安定。前に一度、人間に姿を見られたときに……気持ちが悪いって言われてな。傷付いてるんだよ。それからだ、あんな風に可愛いだ綺麗だと自分に言い聞かせるみてぇに連呼するようになったのは」
顔をしかめる黒紅に、青天はかける言葉を探した。口ではどうこう言っていても、空隠を大事に思っているであろう黒紅にどんな言葉をかけるのが正解なのか。自分の中にある多くの言葉を紡ごうと考えるが、そんな考えは黒紅の言葉で吹き飛んでいった。
「だがまぁ、嬢ちゃんは空隠を見てすぐに綺麗って言った。態度はつんけんしてたが空隠はその言葉で嬢ちゃんには少しだけ心開こうとしたみてぇだし……ま、なんとなんだろ」
「……なんとか、なる……?」
「人生なんだかんだ、どうにかなるもんだろ。予想だにしねぇような事ばかり。だからまぁ、軽く考えようぜ? 過去は変えられねぇが未来はわかんねぇんだ、どうにかなる。なんとかなる!」
「……黒紅は、楽観的だな」
「そうかぁ? お前は難しく考えすぎなんじゃねぇの。いや、難しくっつーか……こうだと思い込んだらずっとそうだと決めつけてるよなぁ」
頑固だよな、と笑う黒紅に対し青天は小さなため息。
「仕方ないだろう」
「そうだけどよ。空隠と同じで青天も人間の事を未だに嫌ってて。もったいねぇよ」
「……黒紅に言われたくない。お前の方が、人間を──」
「……空隠さんって、男の人だけどそうじゃなくて。女の人だけどそうじゃないんだよね」
「そうだよ。どっちでもあるけど、どっちでもない。そうでなくても、半人半妖の僕は人間からも妖からも【半端者】で……父様と母様が亡くなってからは大変だった」
相変わらず抑揚はないが、どこか苦しげに聞こえる空隠の声。
「あんたも変だと思ってるんでしょ、僕の事。いいよ、はっきり言ってくれて」
「そんなっ……」
「口じゃどうこう言ってても、心では皆思ってるんだよ。僕の事をどっちつかずの気持ち悪い存在ってね」
感情の伴わない声色だが、卑屈めいた空隠の言葉に朱音は我慢出来ず勢いよく飛び出し戸を開け、そして──
「本当に空隠さんって青天そっくり……人の話聞きもせず、人の気持ち勝手に決めつける……」
「は……? ちょっと、あんた……」
「私はっ! 空隠さんの事綺麗だって思った! 心から思った……こんなに綺麗な人がこの世にいるんだって、姿を見た時見惚れたの。人間だとか、妖だとかどうでもいい……私は、空隠さんを綺麗だと思った。そんな私の気持ちを、空隠さんは否定するの?」
「本当に、そう……思ったの?」
空隠の問いに、朱音は小さく頷く。
「……そう。なら、うん……ごめん。勝手に決めつけて。ありがとう、朱音」
「え……名前……」
「可愛くて綺麗で可憐な空隠さんに名前を呼ばれて嬉しいでしょ」
少しだけ口角をあげている空隠に、朱音も笑みが溢れはじめた。お互い心を開き始めていると感じて、またその口角は上がるばかり。
「……それにしても、朱音さ」
「なに?」
「真っ裸で出てこないでよ。僕だから良かったものの黒紅とかだったら大変だったよ……もう一度湯船に浸かって、そんで出な」
冷静な空隠とは裏腹に、朱音は恥ずかしさからみるみる顔を真っ赤にさせぷるぷると震えながら「そう言うことは早く言ってっ!」と大声を出し、ぴしゃりと風呂場の戸を勢いのままに閉めた。
「……まったく、慌ただしいんだから」
そんな風に小さくため息をつく空隠の表情は、誰から見ても笑顔だと言うような。そんな表情だった。
「黒紅は、いつまでこんな人間だらけの町で暮らしている」
「なんだよそれ」
「……黒紅は、この辺り全ての鬼族の次期長。こんな所で油を売っている暇はないのでは」
少しばかり「次期長」という言葉に力が入る青天に対し黒紅はやれやれといった、どこか呆れのような表情を返す。
「青天も知ってんだろ? 俺が嫁を探してるの。人間の娘だっていうしこの辺にいるってのはわかってる。そいつさえ見つけ出したら俺はもう町から出てくよ」
「……人間を娶るのか」
「何度も言わせんな。そうだよ、娶るよ。なんか文句でもあんのかよ」
「黒紅は、人間と鬼族が愛し合えると思っているのか」
どこか怒りを感じる青天とは裏腹に黒紅は笑顔のまま。
「さてなぁ? 相手が俺の気に入るような娘なら愛せるかもな。そいつ次第だ、わからねぇよ」
「……まだ見つからないのか」
「見つかってたら報告するっつの。でもま、少しずつ情報は手に入れてる……時間の問題だと思うぜ」
「そうか」
「青天はどうなんだよ、誰か好いやついねぇの?」
「いるわけがないだろう」
馬鹿馬鹿しい、と珍しく眉をひそめる青天。
「朱音の嬢ちゃんはどうなんだ? 年齢も良さそうだし、お前にしては人間だけど仲良くしてるじゃねぇか。同じ鬼族とは交流してねぇし、そこんとこどうなんだよ」
「朱音は居候だ……なんだその薄ら笑いは」
「本当かぁ? 俺には嘘つかなくて良いんだぜ?」
「違うと言っているだろう。俺のような──と人間がそんな事は……ありえない」
「わかんねぇよ? 嬢ちゃん肝っ玉座ってるし、もしかしたら……」
そんな黒紅の軽口は、青天がちゃぶ台を力一杯に叩く音で強制的に止められた。
「あーあー、俺達鬼族は力強いんだから壊れたらどうしてくれんだよ、弁償しろよ」
「……鬼族の伝のものならば壊れはしない」
「そうだけどよぉ……ったく、なんだよ。怒ったのか」
「五月蝿い」
「人間嫌いの筆頭みてぇなお前さんが、人間の娘と暮らしてんだ。興味深いじゃねぇかよ」
「……朱音は……朱音は、俺にとって──なだけだ」
それだけを言い残すと、青天は頭を冷やしてくると言い氷漬けとなっている空隠の部屋へ向かった。一人残された黒紅はただただ呆然と座り込み、そして。
「……頭冷やすって、そういう意味じゃねぇだろ……っくく……ちっとばかしふざけすぎたかねぇ……しっかし嬢ちゃんを──とは……本当に俺と違う【人喰い鬼】だな、
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