東京道中酒浸り
哲学徒
第1話 出発~一日目
コミックマーケット、通称コミケ。昔からあこがれてはいたが、田舎暮らしのわたしにとっては縁がなかったものだ。だが、今の私は一人暮らしで、成人していて、おまけに大学生だ。もはや怖いものなしの私は、「コミケ前に二日ぐらい観光しよう」と無茶な計画を立ててしまった。行きは深夜バスで、宿は一日目以外は適当にネカフェで泊まれば安く上がるだろう。そういう甘い算段で東京なんかに行ったのがすべての間違いだった。東京は怖いところだ。
深夜バスの予約はしていたものの、片道切符しか買っておらず、あとは野となれ山となれだった。バスのラウンジには、昼間の観光バスにはいないであろう人種でひしめいていた。疲れた中年か、元気な若者しかおらず、その中間の人間はいなかった。若者は連れと楽しそうに話していたが、中年たちはみな一様に静かだった。非日常に対する静かな熱気を放つラウンジで、私はスマホを見ながらその空気に耐えた。何分も遅れるので、本当に自分のバスが来るか半信半疑だったがようやく着いたようだった。
深夜バスの隣の席は中国人の男性だった。旅行で日本に来ているとのことだった。彼女と渋谷を見に行くらしい。「電化製品を買って帰る」と言うので「炊飯器がいいですよ」と勧めたところ、なんらかの琴線に触れたのか怒ってしまった。やっぱり食べ物の話題は喧嘩になる。そのあとは、眠ったのか静かだった。隣の彼から漂う鰹節の匂いからか、これからの旅路の不安からか、私は全く眠れなかった。
朝五時に東京駅に着いた。眠らなくても朝の空気はすがすがしい。今夜の宿は決まっているし、観光する場所もいくつか見当をつけてあるが、それまでどうしようか。東京駅周辺はコンビニも見当たらなかったし、なによりベンチも見当たらなかった。困った。ふらふらと歩いていたら、さく〇水産という店を見つけた。東京では朝っぱらから居酒屋が開いている。入ってみると、私以外に一組の客を見つけた。普通の会社員風の男女二人が、こんな時間に居酒屋のテーブルでエビを焼いている。東京は怖いところだ、と思いながら生ビールをすすった。
いい気分になったところで外に出る。ようやくコンビニを発見。お茶を買う。これからどうすればいいのか。仕方なく、ネカフェで一休みした。『めしば〇刑事』を読んで、富〇そばの薬膳そばを食べたくなる。昼ごろネカフェを出る。
このへんには観光地がないものかとスマホで地図を見ていると、靖国神社を見つけた。九段下駅に行く。昼下がりなので日差しが痛かった。へろへろになりながら靖国神社についたら、とてつもない数のコスプレおじさんがいた。いつのまにかコミケ会場に着いてしまったのか。後から知ったが、終戦の日は右翼や右翼的な精神をもったおじさんたちのコスプレ大会が行われるらしい。本当に慰霊の気持ちがあるのか、という怒りの気持ちと、疲れたから座りたいという怠惰の気持ちがせめぎあった。もちろん怠惰の気持ちが勝った。神社の中にある半分露店になっているおでん屋で、ラムネを飲んだ。当時は首相が参拝に来るかどうかが話題になっていたので、待とうかとも思ったがやめた。そんなことはテレビかネットで知ることができるのだ。
靖国神社を出て、行くあてもなくぶらぶらしていたら「戦争反対」と叫ぶ街宣車がいた。しかし、パトカーが近くに来ると止めていた。戦争に賛成しそうな連中は止められないのに、戦争に反対する連中は止めるんだなと思った。ああ、あんまりだ。私はこのあたりの静かな悪意と歪んだ熱意にあてられて、走っていた。たどり着いたのは、神保町だった。ボン〇ィのカレーを食べて、ようやく人心地ついた。あのあたりを気安く歩いてはいけない。なにしろ一軒あたり十冊の本を買ってしまうのだ。スーツケースがパンパンになってしまったので、近くの郵便局から家に送った。段ボール一箱分だったが、郵便局員は「こんなに送るんですか?」と困惑していた。神保町に来る人は皆これぐらい買うだろうと思っていたので、意外だった。後から、また買ってしまったのでもう一箱分送りたいと言ったら苦笑された。
高円寺に宿を取っていたので、向かう。ゲストハウスなので、色んな人と話せるだろうと期待していたが私以外泊まる人はいないとのことだった。少しがっかりした。気持ち良い夕暮れだったので、荷物を置いてすぐ外に出かけた。宿の前の狭い道を歩いていると、地下に降りる階段がある。板の看板に直接マジックで「バーあり」と書いてある。思い切って降りてみると、私の勢いにつられたのかサラリーマン風の男性が二人おっかなびっくり着いてきていた。
着いたのは、戦前からありそうなバーだった。薄暗く、地下室というより防空壕のようで、あらゆる調度品が年を取っていた。妙齢のおばさんが一人で切り盛りする店のようで、カウンターの上のメニューには色んなカクテルが書いてあった。もっとも私はソルティドッグぐらいしか知らなかったのでそれにした。安居酒屋や缶チューハイで飲んだことがあったのだった。グラスのふちに荒い塩が盛ってある本物のソルティドッグだった。私は、それを注意深く飲みながら店内を観察していた。店主のおばさんは、私と一緒に入ってきたサラリーマンたちを連れだと思っていたらしく、「偶然です」と言うと驚いていた。カウンターからなんとなくサラリーマンたちと話をしていたら、片方は何度かコミケに行ったことがあるようだった。カタログは買ったほうがいいなどのアドバイスを受けたが、しばらくすると二人は帰ってしまった。
彼らと入れ違いになるような形で入ってきたのは、どこかの社長風の人と、水商売風の女性だった。高級なものを身にまとった二人が隣に座って、「裸が隠れればなんでもいいだろう」という主義の私は肩身が狭くなった。社長風の人が私にズブロッカを奢ってくれた。これは桜の味がする酒のようだった。下心というより、若くて貧乏な私に同情しているようだった。困った私はトイレに逃げ込んだ。トイレが和式なのは覚悟していたが、流すときにレバーやコックではなく紐を引く方式なのには驚いてしまった。もう少しここでいたいという気持ちもあったが、私は同情されるのが一番嫌だったので金を払って出てしまった。次に行ったとき、ここはセブンイレブンになってしまっていた。
次に行った店は、常連が常連同士で話すだけの嫌な店だった。ガリ〇リ君がそのまま入っているラムネチューハイをすすって出た。ふらふらしながら戸を外してしまった私を店員が心配したが「一日中飲んでるから大丈夫です」とよくわからないことを言って出てしまった。宿に帰って大の字になって寝た。寝っ転がってからも地面がぐるぐるする感覚は続いた。なんだか幸せな夢を見た気がする。
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