掌編作品集
久遠侑
雨上がりの朝
瑞々しい雨上がりの匂いがした。アスファルトは黒く濡れ、空はまだ薄青色に霞んでいる。僕は玄関から出ると、その湿った空気を小さく吸い、庭先のポストまで歩いて行った。
新聞の朝刊を取り出しながら、向かいの家に視線を向ける。その家には三原紗由利という同学年の女の子が住んでいて、彼女はいつも僕と同じ時間、きっかり朝の六時半に新聞を取りに外に出てくる。
僕たちはこの街に古くからある商店街の一画に住んでいた。僕の家は理容店で、三原の家は喫茶店だった。彼女の家の喫茶店は茶色のレンガ調の壁で出来ていて、店の前にはプランターに植えられた色とりどりの草花が咲いている。そのおしゃれな佇まいは、シャッターを下ろしている店も多いこの古い商店街のなかで唯一、花やかな印象を持っている。
彼女とは四年前、僕たちが中学二年生だったころ、一度だけ同じクラスになったことがある。教室ではあまり会話をすることはなかったけれど、登下校中に道でばったり会ったときはなんとなく一緒に歩いたり、どちらかが学校を休んだ時なんかは、家に配布物を届けたりするくらいの付き合いはあった。
ポストの中に入っていた新聞の束を取ると、三原の家から、カラン、というドアベルの軽やかな音がした。彼女が白いシャツに黒のロングスカート、それに青色のカーディガンを羽織って、ドアから出てきたところだった。
「おはよう」
と三原は言った。僕たちの間には、車二台がどうにかすれ違えるくらいの道路があったけれど、まだ街が活動を始めていない今の時間帯なら、それほど大きな声を出さなくても会話が出来る。
「おはよう」
と僕も答えた。
すると、彼女は自分の家のポストから取った新聞を胸に抱えるように持ち直しながら言った。
「ねえ、これから暇? よかったらまた新しいコーヒーの試飲をしてもらいたいんだけど」
彼女は最近、自分のオリジナルのメニューを開発しているところだった。新しいものが出来たらいろいろな人に飲んでもらって感想を聞いているらしい。今までもこういう機会は何度かあって、今回で三回目になる。
「うん。何の予定もないし、お邪魔するよ」
僕がそう答えると「じゃあ、七時にうちに来て」と彼女はにこりと笑みを浮かべながら言った。
わかったと僕は答えて家の中に引き返し、新聞をテーブルの上において、部屋着から薄手のシャツとチノパンという服装に着替えた。そして、七時になる二分前に再び外に出た。
『CLOSED』という札の掛かっている彼女の店のドアを脇にあるインターフォンを押し、その返事を聞いてからドアを開けた。
中に入ると、店に染みこんでいるコーヒーの匂いがした。
店内は木張りの床で、壁にはいくつかの風景写真がかけられている。たくさん光を取り込める大きな窓の脇には、真っ白なカーテンがまとめられ、天井ではシーリングファンがゆっくりと回転している。
それほど広くはないけれど、六人くらいが座れるカウンター席があって、ほかには四つのテーブル席が設置されている。
三原は店のカウンターの奥で、薄い桜色のエプロンをして立っていた。長い髪は、ゴムで一つに結ばれている。
「おじさんたちは?」と、僕は店内を見回して言った。店のなかには僕と彼女の二人しかいない。
「昨日から旅行に行ってる。温泉だって。だからうちは明日までおやすみ」
「三原は一緒にいかなかったんだ」
僕がなんとはなしにそう呟くと、うん、と彼女は頷いた。
「この連休中は、読まずに溜まってた本を読んだり、音楽を聴いたりして、ひとりでゆっくり過ごすつもり」
そう言うと、彼女は手を洗ってから豆をひき始めた。銀色の容器に入ったコーヒーの粉を慣らして、すばやく抽出器に設置した。それからミルクをスチームマシンで泡立てる。作業中の彼女の手元から響く金属と金属が軽くぶつかる音、コーヒーの匂いとスチームマシンとミルクが立てるどこか小気味良い音が、早朝の店内に満ちていく。
数分で、三原が今試作中だというカフェラテが出来上がった。
表面のミルクの泡がハート型になっているけれど、これは彼女の淹れ方のクセで自然にできるものらしいので、特に深い意味はない。以前、三原がそう教えてくれた。
「はい。甘さをひかえめにしてみたんだけど、どうですか?」
彼女はカップとソーサーを僕の前にコトリと置いた。自分の分もあるみたいで、彼女はそれを、ゆっくりと何かを確かめるみたいに慎重に飲み始めた。
「この前のより、飲みやすくなったような気がする」
と、半分くらい飲んだあと、僕は言った。
「うん。こっちのほうがいいかなぁ。すっきりしてる感じで、わたしも気に入ってたの」
そう言って、彼女は顎に手を当てて考え込んだ。コーヒーの味に詳しくない僕としては、自分の感想の他には言えることがない。けれど、もう店主である彼女のお父さんが出すものと、どこが違うのかわからない程度にはおいしいと思う。
カフェラテを飲み切ると、僕はカップを返して、お礼を言った。
「ごちそうさまでした。ありがとう、おいしかった」
こちらこそ、と彼女は言い、布巾でカウンターの周りを拭き始めた。
店内に差し込む光の量が増してきていて、床には窓の木枠の十字型の影が出来ていた。店の前を車が走って行って、静かな店内にその震動が伝わってきた。
「最近、暑くなってきたね」
三原が手を止めて言った。
「うん」と僕は頷いた。彼女は初夏の光に輝く窓の外に視線を移して、「もうちょっとしたら、海とかプールで遊べる季節になるなぁ」と言った。
「そう言えば、三原、泳ぐの好きだったよね」
彼女は意外そうな表情を浮かべた。
「どうして知ってるの?」
「小学校のときは夏休みによく市営のプールに行ってたし、中学に上がってからも、プールの授業のときは楽しそうにしてた気がしたから。何となく」
そう言うと、彼女は苦笑した。僕はふいに、中学校のプールのすぐ近くに生い茂っていた夏草と、塩素の匂いを思い出した。彼女と同じクラスだったときの夏の記憶だ。
窓から吹き込む風と、プールの後の授業のどこか甘ったるいチョークの匂い、夏の熱を持った陽光が誘う気だるさ。水から上がったあとの肌に感じる、ワイシャツのサラサラした着心地。そんな記憶に続いて、三原が僕の少し前の席で、長い髪を微かに揺らしながらペンを持って板書していた後ろ姿も浮かんできた。
「夏が来たら、海にでも行きたいね」
僕はほとんど無意識のうちに、そんなことを口走ってしまっていた。
独り言のようではあるけれど、誘っているようなニュアンスの方が強かった。言ってしまってから、自分でも驚いた。自然に出てきた言葉だったけれど、それは僕たちがこれまで保っていた一定の距離を、明らかに踏み越える言葉だった。
彼女も、おそらくそういうニュアンスを感じたのだろう。「え?」と、彼女は不意を突かれたような、どこか無防備な表情で僕の方を見た。
それから、また視線をすっと窓の方へと移した。そして、窓から差し込んでくる光を見ながら、掴みどころのない表情で、「うん。まぁ、夏が来たらね」と答えた。
それは肯定とも、はぐらかしとも受け取れる言葉だった。でも、僕は彼女のその曖昧な答えに安心してもいた。
このくらいの距離感の方が、僕たちらしい。
僕も頷いて、それから席を立って言った。
「じゃあ、帰るよ」
「うん。またね」
彼女は、柔らかな笑みを浮かべ、軽く手を振った。
店を出ると、ドアベルの軽い音が雨上がりの濡れた街に響いた。朝の陽射しの下、道路を横切って自分の家へ歩いていく。彼女が作ったひかえめな甘さのカフェラテの味が、まだ少し、僕の口のなかに残っていた。
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