第七章:異国にて
第七章:異国にて 01
空がティンダル王国より蒼い気がする。
マーソン帝国に着いて、ヴィヴィアンが思ったのはそんな事だった。
街並みもティンダルの港町と大差がないのが大きいかもしれない。そんなことを想いながら、ヴィヴィアンは船から足を踏み出した。
「わっ」
2刻、船に揺られていただけで、足はすっかり地上の感覚を失ってしまっていたらしい。
歩きやすいローヒールのブーツで停泊所に足をつけると、堅い地面の感覚に脚がぐらついた気がした。
「エレイン」
先に船から降りていたエムが、体勢を崩したヴィヴィアンをぐっと引き寄せた。エムの手が腰に触れて、距離がぐっと近くなる。
「……大丈夫よ、ありがとう」
まだ、エムの顔に慣れない上に、聞きなれない自分の名前。ヴィヴィアンはなんだかドギマギしてしまい、目を合わせないままエムの胸を押した。
エムはそんなヴィヴィアンの様子に少しだけ腑に落ちない顔をしながらも、彼女からそっと体を離した。
「あまり大丈夫そうに、僕には見えないんだけど」
「ああ、ちょっと感慨深くて。……本来ならあの子が来るはずだったでしょう?」
「何事も、予定通りにはいかないってことだね」
人があまりいないとはいえ、ここには荷物を運び出す船夫とほかの商人たちもいる。あまり具体的な名前を出さないほうがいいだろうと、ヴィヴィアンは敢て固有名詞を濁した。
それでもエムには伝わったらしい。物語を、予定と言い替えてヴィヴィアンに苦笑していた。
停泊所の先に小さな詰所があった。他に降りた旅人や商人たちはその詰所に向かい、銅貨や銀貨と交換になにかの紙を貰っていた。
どうやら、そこで外から来たものであることを証明する書類を貰うらしい。
「そういえば、お金ってどうなってるの?」
その様子を見ていたヴィヴィアンはふとそのことを口にした。ティンダルの港町でも船主に渡し賃である銀貨を渡していた。
「まあ……僕の貯金から」
少し目を逸らしてエムが答える。その言葉にヴィヴィアンは目を見開いた。貯金。正直エムの性格とは全く無縁の言葉のように思えたし、何よりヴィヴィアンから目を逸らして答えたのが怪しい。
「――それ、本当?」
「とにかく、金銭の心配はしないで大丈夫だから」
エムはそれだけ言うと、詰所にさっさと足を進めてしまった。
ヴィヴィアンはエムの態度に少し眉を顰めながらも、その後をゆっくりと追った。
ヴィヴィアンが停泊所を抜けると、意外な人物がそこに立っていた。
その人物に会った記憶は、ヴィヴィアンの中では1度きりだった。まっすぐな黒髪に、意志の強そうな目。誰もが口ごもる中で、唯一ハキハキと話していたその人だ。
ヴィヴィアンはまさかこんな見知らぬ土地で知己に会えると思わず、大きな声を上げてしまう。
「ロベルタさん――!?」
「お久しぶりです。あのお茶会以来ですね――名前を憶えて頂けていたこと、嬉しく思います。……今は、何とお呼びすれば?」
ヒューイ子爵令嬢、ロベルタは騎士のような口調はそのままに、優雅な令嬢の所作でうっすらと笑みを浮かべた。
* *
地図の読めないヴィヴィアンは知らなかったのだが、ヒューイ子爵はシートン子爵と同じく港町を擁する領土を持っていた。
北方の痩せた土地である、ヒューイ子爵領は輸出品に乏しく、輸出することが出来たのは羊毛や皮革といった日用品のみであり、それらは主に北東の地域の国々のみと交易していた。
しかし、この度採掘した山から宝石の原石が数多く出土した。
そのためその貿易網を従来の北東から大幅に拡大し、マーソン帝国を含む東南地方にも手を広げたのだそうだ。
そして、自領の宝飾業のため、ロベルタ自身がティンダルとマーソン帝国をよく行き来しており、この港町と首都のバルジャンに邸宅を持っているのだという。
「ですから、エレインさんがこの国に滞在する間、どうぞ我が家を好きなだけ使ってください。小さい家ですが、その分小回りが利くよう設計されております」
何でもない事のように、ロベルタは紅茶を飲みながらヴィヴィアンに話しかけた。
ヴィヴィアンは混乱していた。
この家に招かれたこともそうだし、その直後にエムも消えてしまったから余計だった。しばらくこの家にいて欲しい。エムはそれだけ言うと、颯爽と消えてしまったのだ。
彼を追おうにも、ヴィヴィアンでは手段がわからない。
結局、エムの言うまま、ロベルタと茶会をするしかなかったのだ。
「貴女がこの国にいる理由とこの家を持っていることは理解したわ。でもどうして助けてくれるの?」
ヴィヴィアンは一番疑問に思っていたことを早速ぶつけてみた。
「そうですね、端的に言えば、貴女が好きだからです」
「えっ、いや、それは……ありがたいのだけど……」
ますます混乱したヴィヴィアンは、先ほど必死に取り繕った公爵令嬢の仮面がボロボロと剥がれていくのを感じた。
そんなヴィヴィアンを見ながら、ロベルタは口を開いた。
「理由はそうですが、きっかけはあります。話を持ちかけられたのは少し前のことです。とある男がクロムウェル公爵の使いだと私の家を訪れまして。彼は私がもらったのと同じ、小さなサシェを持っていました……金の薔薇の刺された薄水色のサシェです」
ロベルタは胸元から、ヴィヴィアンがあげた小さなサシェを取り出した。
まさかそんなところに入れているとは思わず、ヴィヴィアンは、あ、と声を出してしまった。
「その男が言うのです『不遇の令嬢に選択肢を与えてあげたい』正直、彼の言っていることは私にはわかりませんでした。選択肢が何かは、今もわかりません。それに、その方のことは尊敬こそすれ、不遇とは思ったことがなかったのです。悪い噂が流れていたことに同情はしましたが、たかが嫉妬と軽視しておりました」
「……」
「ですが、その噂は醜聞となりました。その時初めて私は彼の男の言っていた『不遇』の意味を理解したのです。その方は立場はあれど、自由はなかった。私が見たその人は平等で、優しく、聡明です。そんな人が立場故にどこかの誰かの、思惑の犠牲になろうとしている――私は、それが嫌だったんです」
「……でも私はあなたに何もしてあげられないわ」
ヴィヴィアンの言葉に、ロベルタはくすりと笑った。
「好き嫌いに、損得の感情など要らないんです。好きだから助けたい。それだけでいいのです――エレインさん、これだけは覚えていてください」
貴女が金の薔薇を差し上げた人たちの中に、貴女を好きでない人など、いないんですよ。
* *
ヴィヴィアンは結局、5日間、エレインとしてロベルタの家の世話になった。
使用人はいなかったがロベルタが一緒にいてくれて、火の熾し方から、水の汲み方から、何でも教えてくれた。
しかし、ヴィヴィアンは家事について絶望的に適性がなかった。
ロベルタも最初はエレインさん、と言って優しく教えてくれたが、2日を過ぎたあたりからそんな遠慮がなくなってきた。
「あの公爵令嬢がこれほどまでに不器用だとは思いませんでした」
そうして言われたのがこの言葉だった。その時にはヴィヴィアンは既に皿を5枚は割っていた。
「掃き掃除だけは得意になったわ」
結局ヴィヴィアンがこの5日間で身に着けたのは掃き掃除と、雑巾縫いだけだった。
ヴィヴィアンの家事への適性を二人が見限った6日目、エムはようやく戻ってきたのである。
「遅いわ!」
ヴィヴィアンは玄関をノックしたエムを、使用人のエプロン姿のまま仁王立ちで出迎えた。
「……いろいろ言いたい事はあるんだけど。まず、何してるの?」
「掃除よ!」
「君が!?」
エムはこの世の終わりでも見たような顔で、聞き返してきたので、ヴィヴィアンは思わずむっとした。
「……とりあえず中で話してください」
玄関先で大声で叫び合う二人に、ロベルタが冷静に口を挟んだ。
5日間の成果としてヴィヴィアンはエムに紅茶を淹れた。茶器の扱いについては、音もなく優雅な手つきで入れることが出来る。綺麗な所作で入れられた紅茶にエムはそっと唇を寄せる。
「不味い」
「エレイン、淹れる所作だけは素晴らしいんです。肝心なものは不味いです」
「ロベルタ!」
そう言いながらも、ロベルタもヴィヴィアンの不味い紅茶を口にする。
ヴィヴィアンも最後に自分の紅茶を口に入れてみる。蒸らし時間も、温度も適正なはずなのに、なぜか味がしなかった。不思議である。
「……ヒューイ子爵令嬢、彼女の面倒を見てくれて本当にありがとうございます。まさかエレインに掃除や紅茶の淹れ方まで教えてくれるとは」
「とんでもない、従者殿。それはエレインが世話になるだけなんて嫌だと言ったからですよ。 まあ手間が倍になりましたが」
「そのことについては何度も謝ったじゃない、ロベルタ」
「謝ってほしい訳ではないので、謝罪は要らないんですよ」
「……有難う、ロベルタ」
「どういたしまして」
ロベルタはヴィヴィアンに向かってにっこりと笑っていった。
「さ、積もる話もあるでしょうし、私が立ち入れない話もあるでしょう。何かあれば一階まで来てください」
ロベルタはそれだけ言うと、ぐい、と味のしない紅茶を飲み干してきびきびと立ち上がり、退室した。
その仕草は淑女というより騎士のソレだ。
「随分、仲良しになったんだね」
階段を降りる音を聞きながら、エムがヴィヴィアンに向かって不思議そうな顔をして言った。
「気が合ったの。それで、エムはこの5日間、何をしてたのかしら」
「ああ、とある人と約束を取り付けたり、君のドレスをティンダル王国に取りに行ったりしたよ」
エムがさらりと言った言葉にヴィヴィアンはピシリと固まった。
「私、出奔同然で家を出てきたんだけど」
「ヴィヴィアンはたまに抜けているよね。君のお忍びデートに、旦那様の影がいただろう。 こんな逃亡劇とっくにばれてるに決まってるじゃない。そもそも、ヒューイ子爵令嬢だって貴族だよ? 僕が突撃したところで取り合っちゃくれない。クロムウェル公爵からの名代だって言えば取り合ってくれるけど」
「貴方、この国に入国したとき出したお金、自分の貯金からだって」
「あの時は僕のポケットマネーだったんだよ」
さらりと言われた言葉に、ヴィヴィアンはすごく腹が立った。
腹が立ったが、ヴィヴィアンは大きく息を吸ってその衝動が癇癪として爆発するのをどうにか抑止する。
「……エム、今から私が言う事に『はい』か『いいえ』で答えなさい」
「え?」
「わかった?」
「……はい」
「私、あなたに感謝していると同時にものすごく怒っているの。その理由はわかるかしら?」
「いいえ」
「感謝していることは、私を逃がしてくれたことよ。まだ5日だけど、とても学びが多いわ。ロベルタとも仲良くなれたもの。そして、怒っていることは貴方がこの逃亡について詳細を一切語ってくれないこと。此処まではよろしいかしら」
「……はい」
「エム、貴方は本当に私のために動いていると信じてる。でもね、未来の私のためになることだろうと、今の私にちゃんと説明しないと、私のためになどならないの。現に私は何が選択肢かもわからないまま、貴方に次の場所へ連れていかれようとしているんでしょう?」
「……ヴィー、それは」
「私はまだ、貴方に話す権利を与えてないわ」
言葉を紡ごうとするエムを、ヴィヴィアンはぴしゃりと払いのける。閉口したエムを見て、ヴィヴィアンは続けた。
「私に選択肢を与えるというのなら、今この場で『次の場所に行かない』という選択肢を私に与えるのも、その一つなんじゃないかしら。私の言っていることは、間違っている?」
「――いいえ」
「なら、まずちゃんと説明して。どうして私はマーソン帝国に来たの。そして貴方は私に何を選ばせようとしているの」
もう、言葉を話していいわ。
ヴィヴィアンがそう言うと、エムは一つ大きく息を吐くと、まいったな、と声に出した。
「ヴィー、その話し方誰に教わったの」
「ロベルタよ。あの子、自領でとれたルース石を宝石商たちにこのマーソン帝国で売っているの。私なんかよりずっと、殿方との対話が上手いのよ。さ、話すんでしょう? 喉の渇きを潤す紅茶は如何かしら」
ヴィヴィアンが綺麗な手つきで、ポットに入ったままの冷めたお茶をエムのカップに注いだ。
「まだあったの、そのお茶」
エムは苦笑しながら、ヴィヴィアンの入れた味のしない紅茶に口をつけた。
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