72
――早々に去って行ったノエルを抜いて、静かな教室には現在東条と馬場の二人だけだ。
……古びたコンクリートの匂い。
……遠く聞こえる喧騒。
……窓から差し込む陽の光。
……光に照らされ、キラキラと漂う塵埃。
膝枕をされ、足を投げ出す彼の顏は、聖母に抱かれる赤子の様であった。
馬場は、「撫でて」と言わんばかりに出された東条の髪の毛をゆっくりと撫でながら、依然隠されたその黒い顔を優しく見つめる。
「……何だかこうしていると、あんたの表情が見える気がするよ」
「どんな顔してます?」
「緩み切っただらしない顔」
「正解です」
二人の笑い声が淡く響く。
「……なぁ、あんた彼女はいるのかい?」
「なんです?いきなり」
「いいから」
東条は一つ身じろぎをし、自分を見つめる女性を見上げた。
「……いた。と言うのが正しいかもしれません」
「……そうか。……あんたもか」
そう言う馬場の表情は、天井に向けられ分からなかった。
「……私の元カレはな、小さくて、弱っちくて、心配で目も外せないような奴だった。その癖人一倍勇敢でな。……最後は恐怖で動けない私を守って、モンスターに食われちまったよ」
東条は目を瞑り、静かに傾聴する。
「いやー泣いたねぇ。めちゃくちゃ泣いた。何のために格闘技を習ったのか。何のために強く在ろうとしたのか。あん時の光景は、今でも、夢に見るよ……っ」
「……」
「……あんたの彼女はどんな人だったんだい?」
「……そうですね。腹黒くて、お節介で、俺の行動を管理していないと気が済まない、独占欲の塊みたいな奴でしたね」
「それは、なんとも……」
嘗ての光景を思い出し、東条の頬が緩む。
「でも……可愛らしくて、献身的で、常に俺の事を想ってくれていて、全部ひっくるめて、本当に愛していました」
こんなことを他人に言ったのは初めてかもしれない。馬場さんが同じような境遇にあるからか、不思議と心は晴れやかだ。
「ふふっ、熱いな。…………モンスターか?」
「……いえ、自分です」
「……強いな、君は」
馬場の目が、眩しい物を見る様に窄められる。
「……なぁ、まさ」
「はい?」
「私と付き合わないか?」
「……」
見上げる彼女の瞳は、真っすぐで、それでいて少しだけ、潤んでいた。
東条は漆黒の下で優しく微笑み、
「……その依頼は受けられません」
丁重に断った。
「何故だ?自分で言うのも何だが、私達結構相性いいと思うぞ?」
「それはまぁ、俺も思います」
「じゃあ何故「だって……、馬場さん、俺を使ってその大事な記憶、上書きしようとしてるんですもん」……」
馬場の唇に力が入る。
「そんなの、もし付き合っても俺最初から男として負けてるじゃないですか。俺はそんなお人好しじゃないですし、何なら本当に忘れさせちゃいますよ?俺はそんなの嫌です」
「……ははっ、随分な自信だな」
「思い出して下さいよ、その人と過ごした記憶。それが一瞬の悲劇で、全部絶望に変わったりなんてしないでしょ」
「――っ」
「今は失った時の衝撃が忘れられないかもしれないけど、いつか必ず、心の大切な場所に仕舞える時が来る。
そん時、改めて一歩を踏み出せばいいのよ。
……塗り潰すなんて、勿体ないだろ?」
彼女の頬から一筋零れる涙を、人差し指でそっと掬った。
「……それは、いつだ?」
「さあ?一年後か、十年後か、それとも今かもしれませんよ?」
東条の無責任な解答に驚く馬場だが、
「……ククっ、ふっ、あはははははっ」
「ビックリした」
突然腹を抱え涙目になる程笑い出した。
「――ふふっ。いや、すまない。何だか、少し軽くなった気がするよ」
彼女の清々しい泣き笑いに、東条も笑顔になる。
「そりゃ良かった。笑うのは大事だ。俺もそう教わった」
「ノエルかい?」
「おーよ」
「ふふ、本当に羨ましいコンビだね」
馬場は東条の頭をポンポンと叩き、立ち上がる。
「それ、もう充分だろ。彼女の所に行ってやりな」
「……最後にもう一揉み」
「しつこい男は嫌われるよ」
「むー」
とぼとぼと教室を出ていく東条。その後ろ姿は何とも惨めだ。
「まさ!」
「はい?」
そんな彼に、馬場がニカっと笑う。
「ありがとな」
「……どーいたしまして」
大人の女性の満面の笑みは、それはもう綺麗だった。
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