第766話 お嬢

 続いて降り立った明石が母屋に目を向けると殿上貴族の邸宅らしい裏門の大きな柱の根元に海軍幼年学校の制服を着た少年が立っていた。


「あれは?」 


 明石が魚住を見るとにんまりと笑う。


直満なおみつ嬢ちゃん!」 


 黒田が叫ぶが、直満と呼ばれたその子はそのまま明石をじっと見た後そのまま走って屋敷の奥に消えていった。


「嬢ちゃん?」 


 黒田の言葉に明石は不自然さを感じた。その表情が面白かったらしく魚住が含み笑いをしている。


「赤松准将の上のお嬢さんだ」 


「でも直満やぞ!変やろ」 


 明石の顔を見ると別所は困ったような顔をした。


「それじゃあ先代の赤松家の当主は?」 


 そう言われて明石は初めて理解した。赤松家は海軍の要職を世襲する武家の名門であるが、先代には男子の相続者が居らず長女の虎満とらみつが家督を相続したことは有名な話だった。


『播磨の虎』と呼ばれた彼女は第三艦隊司令として先の大戦で初期の電撃的勝利を手中に入れた猛将として知られていた。そして彼女が胡州ではたまにある貴族の同性婚で三人の息子をもうけたことも思い出していた。


「妙な家じゃのう……」 


 そう言いながらトランクを開けた明石が着替えなどの最低限の荷物を取り出して裏口に立つとそこには直満を従えてすくっと立っている冷たい感じのある女性が明石を見つめていた。


 別所、魚住、黒田達が静かに目礼をする。


「あなたが明石大尉ですね。確かに強そうに見えますわね」 


 紫の小紋。どちらかと言えば落ち着いた色調の着物にその長い髪と目鼻立ちがはっきりとした気の強そうな表情が明石の視線を奪う。


「赤松の親父の奥方様、貴子様だ」 


 別所に耳打ちされて頭を下げる明石。それを見てにっこりと笑う姿に明石は緊張した手足の自由を取り戻した。


「直満!怖くないでしょ。いずれはあなたはこの家を離れて安東の家を継ぐことになるのですよ」 


 そう言って貴子が娘の頭を撫でる。直満は母が傍にいると言うこともあり、再び禿頭の大男である明石を見上げた。


「この人……お坊さん?」 


 直満の言葉に別所と魚住が目を合わせる。そして貴子も口に手を当てそれまでの楚々とした様子をひっくり返すような高らかな笑い声を上げた。


「そうよ、この人はお坊さんが本職なのよ。そうですわよね、別所君」 


「ええ、コイツは坊さんになり損ねて今は兵隊をやっていますが、いずれはどこかの住職になる予定ですから」 


 別所の言葉で自分の言ったことが正しいと分かると、初めて直満はうれしそうな瞳で明石を見上げてきた。


 明石は頭を掻きながらどうにも彼を恐がっている直満が近づくのを見ていた。そしてその少女が両軍幼年学校の最上級生である襟章をつけているのが分かった。


「お嬢、幼年学校に通っとるのか?」 


 荷物を担ぎながら明石は直満を撫でようとするがそのまま直満は後ろに下がってしまう。


「嫌われたもんだなあ、明石」 


 そう言うと魚住がそのまま裏口に腰掛ける。


「今日は少し料理にもこだわりましたのよ。新三郎さんから鯛の良いものが入りましたから」


 嵯峨家当主嵯峨惟基がまだ西園寺家の部屋住みだったころの西園寺新三郎の名を聞いて明石はここが政治の中枢帝都であることを思い出した。そうしてみると回りの気配が変わる。庭に続く道には衛兵がライフルを抱えて立っており、外にも私服の警備員と思われる人物が立っていたことも思い出される。 


「それは結構ですね。明石!とっとと荷物を片付けるぞ!」 


 別所の言葉に直満と向き合っていた明石は気がついたように靴を脱いで玄関に上がる。女中が手ぬぐいを差し出すが、魚住は笑ってそれを返した。

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