第726話 確保

「馬鹿!早く降りろ!」 


「椅子を蹴らないでよ!」 


 暴れるかなめに悲鳴を上げながら助手席からアイシャが転がり出る。素早くかなめは銃を構えて飛び出すとそのまま背の高い枯れ草の間の獣道の中に消えていった。


「追わないと!かなめちゃんは撃つわよ」 


「軍用義体と追いかけっこか?無茶を言う」 


 苦笑いを浮かべてカウラはゆったりと構えつつエンジンを止めてからドアを開けた。高原の冷たい空気が車内に流れ込んできて誠は厚着をしてこなかったことを後悔した。


「それにしても冷えるわね……」 


 アイシャも運を天に任せたというようにゆっくりとそのままかなめの消えていった獣道に入り込む。


「荷物は無いか……おそらく女性だな……しかも一人」 


 カウラはレンタカーの運転席をのぞき込んでいる。確かに見る限り荷物のようなものは無く、運転席側のホルダーにだけジュースの空き缶が刺さっているのが誠にも確認できた。


「カウラちゃん!早く!」 


 叫ぶアイシャの声に思わず誠に向き直り苦笑いを浮かべるとそのままカウラは空色のレンタカーから離れて獣道へと踏み込んでいく。誠もまた仕方なくその後に続いた。


 草むらに入って誠はそこが切り開かれた山林であることに気づいた。この東都の北西に広がる森は落葉樹の森。針葉樹が広がっているのは要するに林業の為に植えられたものなのだろう。


「急いで!」


 すでに斜面を百メートルほど先に登っているアイシャが振り返って叫ぶ。先を行くカウラは誠に苦笑いを浮かべるとそのまま確かな足取りで滑りそうな霜でぬかるむ獣道を進む。


「西園寺がいくら馬鹿でもそう簡単には撃たないだろうな」 


 自分に言い聞かせるように呟くカウラを見て、ただ誠もそのことを祈りながら正面の丘を見上げた。相変わらずぽつんと茶色い塊が山の尾根をゆっくりと移動しながら視線の中央でうごめいている。


「これは確かになんだか確認したくもなりますよねえ……双眼鏡でもあれば熊だと分かって警察に通報されますよ」 


「すでにされたから私達はここにいるんだろ?まあいい、とにかく穏便に済ませることが一番だ」 


 カウラが登る速度を速める。誠はそれに息を切らせながら続いた。


 一瞬、丘の上に続く獣道の全貌があらわになる地点にたどり着いた。すでに斜面をほとんど登り切って丘にたどり着こうとしているところに黒い小さな塊が見える。


「西園寺さん……あんなところまで……」 


「まあそれが生身とサイボーグの差だ。それくらいの違いがないと採算が取れないだろ?」 


 一瞬だけ呆れたような表情で振り返ったカウラだが、すぐに表情を引き締めて斜面を登りはじめる。先ほどまで獣道の奥にちらちら見えていたアイシャの姿ももう消えている。


「早く行かないと……」 


 焦った誠の右足が霜で緩んだ斜面をつかみ損ねた。もんどり打って誠は顔面から泥のような獣道の土にまみれる。


「何やってるんだ?」 


「はあ……転んじゃいました」 


「見れば分かる」 


 それだけ言うとカウラはそのまま誠を置いて歩き出す。誠は額に付いた泥をたたき落としながら今度は慎重な足取りで斜面を登りはじめた。


「早く!」 


 遠くで叫ぶアイシャの声がこだまする。先ほどかなめを見た地点くらいにはアイシャはすでに到着しているらしい。


「こりゃあ……急がないと」 

 

 自分自身に言い聞かせるようにして誠はぬかるむ山道をただひたすらに上へと登っていった。


 右足、左足。次々と滑る冬の軟弱な泥道。ただ夢中で誠は登り続けた。ただその間願うことはかなめの無思慮な発砲音が響かないことだけだった。次第に意識が薄くなり、足を蹴る動作だけにすべての神経が集中するようになったときに不意に傾斜が緩くなり始めた。


「終わった……」 


 誠はようやく泥ばかりで覆われていた視界を何とか上に持ち上げた。


 そこには一本だけ残っている大きな杉の木の陰で息を潜めて先の様子をうかがうアイシャとカウラの姿があった。


「ああ、すいません……ようやくたどり着きました……」 


「しっ!」 


 アイシャは唇に人差し指を当てて沈黙するように促す。その隣のカウラの視線の先を誠は静かに目で追った。


 草むらの影で銃を構えて身を潜めるかなめの後ろ姿が見える。そしてその向こうの枯れ草の穂の隙間からは茶色いコンロンオオヒグマの頭がちらちらと見て取れた。


「間に合ったんですね……」 


「本当に間に合ったかどうかはこれから分かることだ」 


 カウラの感情を押し殺したような声にそれまでの誠の到着した喜びのようなものは瞬時に吹き飛んだ。熊の周りを草の隙間から様子をうかがっていたかなめがそのまま銃を構えて飛び出していく。


「カウラちゃん止めないと!」 


「まったく世話が焼ける」 


 苦虫をかみつぶした表情のカウラが覚悟を決めて杉の木陰から飛び出してかなめの姿を追う。かなめはすぐに距離を詰めたようで先ほどまでの場所に人の気配は無い。


「キャア!」 


 明らかにシャムとは違う女性の叫び声が熊の頭の見える辺りで響く。誠もその尋常ならざる驚きの声に残った力を振り絞って枯れ草の中を駆け抜けた。草のついたてを抜けて断崖絶壁にたどり着いた誠の目の前にただ銃を構えて動かないで居るかなめの背中が目に入った。


「なんでテメエがここに居るんだ?」 


 誠達がたどり着いてもしばらくじっとしていたかなめがようやく口を開いた。その視線の先、手にしたバスケットからサンドイッチを取り出して頬張っているシャムがいた。そしてその隣には技術部所属の女性士官、レベッカ・シンプソン中尉が腰を抜かして倒れていた。


「その……あの……」 


「だからなんでテメエが居るんだよ!」 


 いつまで経っても驚きの中から抜け出せずにおたおたしているレベッカにかなめのかんしゃく玉が炸裂した。カウラがかなめの銃を掲げた手に静かに手を添えてその銃を下ろさせる間もレベッカはただずり落ちた眼鏡を直すのとなんとか先ほどまで座っていた石の上に座り直すのが精一杯でかなめの質問に答える余裕は無かった。


「レベッカさん……シャムちゃんから頼まれたんでしょ?何か食べるものを持ってきてくれって」 


 にこやかな表情を作りつつアイシャがゆっくりとレベッカに歩み寄る。ようやく現われた自分の理解者を見つけたというようにレベッカは引きつった笑みを浮かべつつおずおずと頷いた。


「あ!でも連絡はさっき入れましたよ……班長も本当に困った顔してましたけど……」 


 自分の不始末に謝るレベッカだが、その島田を指す『班長』という言葉を聞くとアイシャとかなめは顔を見合わせてにんまりと笑った。


「おう、確かに島田には連絡は行ってるみてえだなあ……通信記録もある。島田も……すぐに本部とやらに連絡はしているな」 


 脳内の端末を確認して要が呟く。アイシャはにこやかな笑みをレベッカに向ける。レベッカは先ほどの慌てた表情からようやく落ち着いてきたようでまるで他人事のようにことの顛末を眺めているシャムの隣で大きなため息をついた。


 アイシャはジャンバーから携帯端末を取り出すと笑顔のまま菰田に連絡を入れた。


『あ!』 


 茶を啜っていた菰田の顔が誠が覗き込んだアイシャの端末の中で次第に青ざめていく。


「菰田ちゃん……いいえ、本部長とでも呼んだ方が良いかしら……」 


『シンプソン中尉のことでしたら……忘れてました!済みません!』 


 ごたごた言うだけ無駄だと諦めた菰田は素早く頭を下げてみせる。ただ相手はアイシャである。にこやかな笑みを浮かべながらもその表情は怒りで青ざめているように誠には見えた。


「良いわ……後で折檻だから」 


 一言言い残してアイシャが通信を切る。かなめはその様子に満足げにうなづく。一方、カウラは最後のサンドイッチを飲み下したシャムのところへと足を向けていた。


「ずいぶんと悠長な態度だな」 


「別に悠長なんかじゃ無いよ」 


 それまでののんびりとした表情がすぐにシャムから消えた。そのまま彼女は断崖絶壁の向こうに目をやる。しばらく続く針葉樹の森。それも限りがありそのまま落葉樹の冬枯れに飲み込まれていくのが見える。


「思い出でも探しに来たか?」 


「いつも通り直球だねかなめちゃんは……でもまあそんなところかな」 


 冷やかすかなめにシャムは苦笑いを浮かべる。その姿はどう見ても小学校高学年という感じだが、浮かんでいる憂いの表情には年輪のようなものが感じられるように誠には見えた。


「吉田少佐の失踪……それなりにショックだったんだな」 


 カウラの言葉にしばらく彼女を見つめた後、静かにシャムはうなづいた。


「単純にショックという訳じゃ無いんだけど……なんだかせっかく手に入れた何かをなくしちゃったような感じというか……ああ!なんだか説明できなくてわかんなくなっちゃうよ!」 


 自分の語彙の少なさにシャムは叫んで気を落ち着けようとする。そんな主を静かに心配そうにグレゴリウスは見下ろしていた。


「まあショックならショックでいいじゃないか。心配なら私達に何か言えばいい……」


 緑色の髪を崖を吹き上げてくる風になびかせながらそっとカウラはその手をシャムの頬に寄せた。シャムは静かに俯く。ただ強い風だけが舞っていた。


「ショックというか……俊平が居なくなってからなんだか思い出しそうなことがあって……それでそれを思い出すとなんだか悪いことが起きそうで……」 


「鉄火場の思い出か……遼南内戦の地獄の戦場。確かに悪夢だな」 


 うんざりした表情のかなめがタバコを咥えながらつぶやいた。静かにそのままジッポで火を付けようとするが強い風に煽られてなかなか火が付く様子がない。それでもいつもなら苛立って叫ぶかなめも落ち着いた様子で静かに試行錯誤を繰り広げている。


「そんな最近の話じゃ無いんだ……俊平と会う前……それ以前に明華や隊長と出会う前……ううん。もっと前だよ、お父さんにも出会う前……うわ!頭がウニになる!」 


 シャムは頭を抱えて俯く。カウラは何も出来ずにただシャムの隣で立ち尽くしている。


「ナンバルゲニアの名前を継ぐ前か……遼南第一王朝壊滅以前ねえ……それこそ吉田や叔父貴に聞くしかないな」 


 ようやくタバコに火を付けることが出来た要のつぶやきに誠はただしばらく黙り込んで思いを巡らせていた。


 崑崙大陸南方の帝政国家、遼南帝国。ムジャンタ・カオラに始まった遼南朝は四代目の『廃帝』ハドの乱行などの混乱はあったものの、その血脈は三百年あまりにわたって延々と続くことになった。


 衰えていく朝廷の権威は有力諸侯や外戚としてのさばることを許し、傀儡に過ぎない皇帝ばかりが続いた。とは言え王朝が揺らぐことは権力を握る有力諸侯や外戚達にも損害をもたらすことになり、また東和や胡州、遼北、西モスレムなどの近隣諸国も大国の崩壊に伴う難民の流出を恐れて形ばかりの王朝は長々と続くことになった。


 そんな王朝に現われた『寡婦帝』ムジャンタ・ラスバ。兼州侯カグラーヌバが送り込んだ操り人形の二人の子持ちの女帝は、諸侯達の思惑を超えて傾いた遼南を再建していった。太祖カオラの作った遼南人の海外コネクションを再生し、細心かつ大胆な外交施策は遼州のお荷物と呼ばれた遼南を確かに一列強に変貌させることになった。


 さらに彼女が帝位に就く前に古代遼州文明の研究者であったことが遼南の再建へと導く力となった。鉄器さえも封印した遼州文明がかつては遺伝子工学や素材加工技術、反物質エンジン搭載の戦闘兵器や宇宙戦艦を建造していた。その技術の研究者であるラスバは多くの先遼南文明の再生に取り組み、独自の技術をそこから得て海外に売りつけて王朝の財源として次第に朝廷の力はそれまでぶら下がってきた諸侯達を圧倒し始めていった。


 ただしそのような独断的な政策が有力諸侯や軍部、他国に歓迎されるはずもなかった。母に暗愚と烙印を押されて東宮を廃された嫡男ムジャンタ・カバラは次期皇帝と決められた実の息子のラスコーを追い落とすべく、野心家である近衛軍司令官ガルシア・ゴンザレス将軍と結託。彼等の動向に注視していた胡州宰相西園寺重基は彼等の協力を取り付けてラスバ爆殺したとされていた。静養中の北兼宮にあったラスコーだが、近衛軍がガルシア・ゴンザレス将軍の指揮の下、仁族に首都、央都を制圧したために静養中の北兼御所を動くことが出来なかった。


 結果、遼南帝国は央都のカバラ帝と北兼のラスコー帝という二人の皇帝が並立する事態へと発展した。


 有能に過ぎるラスバ帝を失った遼南の没落はあっけないものだった。東海の花山院、南都のブルゴーニュなどの有力諸侯は胡州の工作を受けてあっさり央都側に寝返った。頼りの北天軍閥は遼州北部の利権を狙った遼北の侵攻によりあっさりと崩壊した。


 ラスバ帝崩御から4年後、北兼宮を捨ててカグラーヌバ一族が守る兼南基地に籠城した遼南朝廷軍は央都軍の圧倒的な物量の前に全滅した。ただ時に十四歳の幼帝ラスコーは家臣の必死の抵抗で難を逃れて東和へと逃げ延びた。暗愚なカバラ帝は政治を顧みず、これよりのちはガルシア・ゴンザレス将軍が国家権力のすべてを握り、その事実を持って歴史上は遼南第一王朝は滅亡したとされている。


 そんなラスバ帝の末期、一人の少女が遼南帝国騎士団長ムジャンタ・アサドの拾われた。その過去を持たない少女はシャムと名付けられ、アサドの養子となった。ラスバ帝崩御で朝廷を離れ、生まれ故郷に帰っていたアサドの村は北兼朝滅亡の際、央都軍の襲撃を受け、彼女以外は老若男女問わず皆殺しにされたと言う話。身の上話をほとんどしないシャムの過去。誠も人づてにそのことは耳にしていた。


 そんな悲しすぎる過去。それでもシャムは笑顔を絶やすことなくいつも隊でグレゴリウスと一緒に元気に走り回っていた。忘れるのが人間の才能の一つならその才を遺憾なく生かしている人物。誠はシャムのことをそう思っていた。


 しかし、目の前のシャムはそんな悲劇よりも何か大きな忘れ物を捜している。誠にはそんな風に思えた。たぶんそのことに気づくきっかけになったのが吉田の失踪なのだろう。


「今、分からないのなら……こんなことしか私には言えないが、気にしない方が良い」 


 言葉を選びながらのカウラのつぶやきにシャムは静かに頷く。その視線の先には東都の北に広がる山脈地帯が見えている。シャムが望むような針葉樹の森はその山脈の僅かに上部に広がるのみ。それ以外は落葉樹の森が寒々しく広がっているのが見えるだけだった。


「ああ、シャム。帰りは……」 


「うん、跳べるよ。レベッカも心配しなくて良いから」 


 面倒見の良い言葉に少し涙目のレベッカがうなづく。グレゴリウスは相変わらず心配そうに主人の落ちたままの肩を眺めていた。


「でもね……もう少しで思い出せそうなんだ。なんであの森にあたしが一人で居たか……それ以前にあたしが何者なのか……」 


「過去か。知っていい話なら知るのも悪くないな」 


「何よ、まるで知らない方が良いってことをかなめちゃんが知っているみたいじゃないの」 


 アイシャの冷やかすような言葉にタバコを咥えたかなめは下卑た笑みを浮かべた後、静かに煙を口から吐き出す。吐き出された煙はそのまま強い風に流され視界から消え去る。


「いい話じゃ無いと思うよ……でも一度は思い出したいんだ……なんて言えば良いのかな……喉に小骨がつかえたみたいな感じ……それともちょっと違うな」 


「無理に思い出す必要は無いだろ。4日後には演習に出るために新港に行かなければならないんだ。まずは任務が優先だ」 


 カウラの冷淡な言葉にレベッカが少しばかりむっとしたようにエメラルドグリーンの瞳でシャムを見下ろすカウラを睨み付けた。カウラの表情はいつものように押し殺したというように感情の起伏の見えない顔をしている。


「そう言えば明日で謹慎も解けますよね。明日からは……」 


「あのー、誠ちゃん。明日はあたしがお休みを取っているんだけど……」 


 シャムの一言に誠は自分の間の悪さを実感する。かなめは冷ややかにそれを笑いながらタバコをもみ消す。


「誠ちゃんらしいわね……じゃあ撤収しましょう」 

 

一言アイシャが言ったのを聞くと素早くカウラは元の獣道に足を向けた。


「ちゃんと帰れよ!」 


 革ジャンのポケットに手を突っ込んだままカウラに続いて走っていくかなめの言葉に、シャムは力ない笑みを浮かべた。そんなシャムの頬を悲しげな表情のグレゴリウスが優しく舐めているのが誠の目に映っていた。

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