縁側

第307話 縁側

「ブゴっ!!……」 


 嵯峨の右のあばらに痛みが走り、木製の薙刀で切り払われた体は土蔵に叩きつけられた。肺に肋骨が刺さったような感覚が支配し、口元からはだらだらと血が流れ落ちる。後頭部は土蔵に打ち付けた傷みでしびれていた。


「義父上!」 


 そう叫び声をあげて縁側から飛び降りて駆け寄ってきたのは彼の義娘となったばかりの嵯峨かえでだった。


「ふー……」 


 嵯峨惟基は視線を目の前で木で作った薙刀を構える妙齢の女性を前に、木刀を杖代わりにしてよろよろと立ち上がった。


「無理ですよ!そんな!」 


 悲鳴にも近い義娘の言葉に口元だけで笑いを返そうとするが、喉の奥から吐き出される大量の血にむせるとそのまま膝から崩れ落ちた。


「ここまでね」 


 紫の小紋の留袖にたすきがけしている女性、西園寺康子は静かに薙刀を下ろした。


 かつての遼南帝国の栄光時代を築いた将軍カグラーヌバ・カバラの三女であり、嵯峨の母の妹、つまり嵯峨惟基にとっては叔母に当たる人物である。西園寺家に嫁いだ当時は秘匿されていた遼州系の中でも稀有なほどの法術の適正を見せ、『西園寺の鬼姫』と呼ばれることもある法術の使い手としても最近知られるようになっていた。力の使い方、剣の使い方をすべて彼女に学んだ嵯峨にとっては天敵と言えるような存在だった。


 血まみれの義父を抱きかかえていたかえでが自分の体が黒い霧のようなものに覆われていくのを感じて思わず抱えている義父を突き飛ばしていた。


「なんだよ縁側まで連れて行ってくれるんじゃないのか?いきなり放り出すなんてひでえじゃねえか……」 


 言葉を話すことすらつらいと言うように体勢を立て直そうとする義父からその不気味な霧は発生していた。折れ込んだあばらが次第に元の姿に直り、額や右肩から流れている血も次第に止まっていく。


「義父上?」 


 その不思議な有様にかえでは義父に手を伸ばす。


「やっぱ久しく本気で剣を振っていなかったのがいけないんですかね、姉上」 


 縁側に腰掛けて先ほどかえでが運んできた玉露をすする康子は黙ってうなづく。嵯峨は咳き込んで肺にたまっていた血をすべて吐き出すと何事も無かったかのように立ち上がった。


「義父上?」 


 かえではただ呆然と義父である嵯峨を見つめていた。法術師の中のごく一部に見られる強力な自己再生能力の発現。その能力を義父が持っていることは、物心ついたころに何度か冗談で手に穴を開けてはその直る様を見せると言う、少し考えてみれば異常ともいえる義父の芸を見て笑っていた時代から分かっていた。


「私も新ちゃんと稽古するのは久しぶりだから張り切っちゃった」 


 実母である康子の無邪気な言葉にかえでは肩をなでおろした。


 義父の剣術の腕、そして干渉空間の時間軸をずらすことで発動する人間の限界を超えた動きですら康子の前には子供の遊びとでも言うべきものでしかなかった。一方的に薙刀の攻撃が嵯峨の急所を狙い放たれる。なんとかそれをかわそうと木刀を繰り出す嵯峨だが、着実にその一太刀一太刀ですぐには回復不能なダメージを受ける。


 そして立ち上がってかえでの運んできた湯飲みに手を伸ばす嵯峨だが、その稽古着は朝下ろしたばかりだというのにすでにぼろ雑巾のようになっている。


「それにしても新ちゃんの回復力は早いわよねえ」 


 嵯峨のことをいつも母が『新ちゃん』と呼ぶのは嵯峨が遼南を追われ、西園寺家に引き取られた時に名乗った『西園寺新三郎』と言う旧名によるものだとは知っていたが、かえではこの抜け目の無い策士でもある義父を『新ちゃん』と呼ぶ母の態度にいま一つなじめなかった。


「まあ力が封じられていた時もこれだけは何とか使えましたからね。意識に依存するもんで不安定なのが玉に瑕ですが」 


 そう言いながら照れ笑いを浮かべると嵯峨は湯飲みの玉露を飲み干した。


「そう言えばかえで。転属の件は片付いたのか?」 


 嵯峨は肩をまわして先ほど康子に砕かれた右肩が直ってきているのを確認していた。


「ええ、すべて書類上の手続きは終わりましたから」 


「そうか」 


 それだけ言うと嵯峨は湯飲みを置いて立ち上がる。そのまま手にしていた木刀を正眼に構えすり足で獅子脅しのある鑓水やりみずの方へと歩み寄っていく。


「ああ、そうね。そう言えばかなめちゃん。元気かしら」 


 あっけらかんと康子が娘の名を呼んだ瞬間、嵯峨親子は微妙に違う反応を見せた。


「お姉さま……」


 明らかに困ったことを言われたなというように木刀を納めて、照れ笑いを浮かべながら嵯峨は姉を見つめる。一方かえでは頬を赤らめて遠くを見つめるような浮ついた視線をさまよわせる。


「私もねかえでちゃんとかなめちゃんが結婚するのが一番いいように思えてきたのよ。確かに姉妹同士だけど前例はあるって新ちゃんも言うし……」 


「それはそうなんですがねえ……」 


 口答えをしようとした嵯峨だが、康子に見つめられるとただ口を閉じて押し黙るしかなかった。


「かえでちゃんなら安心よね。新ちゃんとは違ってきっちりしてるし……あの人にもあまり似ていないみたいだし」 


 かえでの後ろに白い幅のある髪留めでまとめられた黒く長い髪を撫でながら康子は再び弟に視線を送る。ごまかすようにして廊下を小走りに走る人影に嵯峨は目を向けた。そこには西園寺家の被官である別所晋一べっしょしんいちがいつもの寡黙な表情のままかえでの座っているところまで来ると片膝をついて控えた。


「大公殿」 


「大公殿は二人居るよ。どっちだい」 


 嵯峨の投げやりな言葉に別所は視線を嵯峨の方に向けた。


「では泉州公。クバルカ中佐から連絡で作戦開始時間になったそうです」 


「そうか」 


 嵯峨はそれだけ言うと再び木刀を手にして立ち上がり素振りを始めた。


「義父上、心配ではないのですか?」 


 別所の言葉を聞いてかえでは静かに問いかける。だが、嵯峨はまるで表情を変えずに体の回復具合を確かめているかのように素振りを続けるだけだった。


「大丈夫よ、かえでちゃん。かなめちゃんもついているんだから。それに新ちゃんの話では今度の作戦の鍵になる誠君ていう人は結構頼りになるみたいだし。ねえ、晋一君」 


 その勇名で知られる康子に見つめられ、ただ別所は頭を垂れるだけだった。


「ああ、別所。オメエが長男で無けりゃあこいつと……」 


「僕は嫌です!」 


 嵯峨の与太話をかえでは思い切りよく否定する。そしてただ頭を下げる別所に嵯峨は諦めたような笑いを浮かべるしかなかった。


「どうもねえ、こんなふうに現場に立てねえってのは……つらいもんだねえ」 


 そう言って木刀を納めて縁側に戻る嵯峨を康子はいつにない鋭い視線で見つめていた。


「大丈夫よ。かなめちゃんがうまく動いてくれるわよ。なんといっても私の娘でかえでちゃんのお姉ちゃんなんですから」 


 嵯峨は姉のその迷いの無い言葉に複雑な笑みを浮かべることしかできなかった。


「まあ、果報は寝て待てさ」


 嵯峨はそう言うと、ごろんと縁側に横になった。

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