第280話 幼馴染
一瞬、風の温度が変わった。都市近郊に設置された気温制御システムが夜のそれへと変わったのだろう。開いたふすまの向こうに広がる池で三尺を超える大きな金色の錦鯉が跳ねた。
「ほうか。じゃあお前さんはこのまま黙っとれ言うつもりか?汚れた金を
赤松の眼が鋭く光る。湯飲みを口にする嵯峨の手元にそれは突き刺さる。茶を勧める老女が赤松から湯飲みを受け取る。中の冷めたお茶を捨て、新しく茶を入れていた。
「誰もそんなことは言っちゃいねえよ。いつかはけじめをつけてもらう予定だ。だが、その面子にはアメリカ軍人はいらねえな。いや、アメリカだけでなく遼州系の住人以外はいちゃいけねえんだよ」
嵯峨の言葉、そして赤松を見つめるその目はいつもの濁った瞳ではなく、殺気をこめた視線だった。赤松はようやく自分の説得が無駄に終わったことを感じた。
「ほうか、わかった。人斬り新三の手並みいうのを見せたってくれ。それと……今日来たんは他にも用があってな……実は貴子がな新三に久しぶりに挨拶したい言うとんやけど……」
そう言って相好を崩す赤松に嵯峨の瞳もいつもの濁った緊張感のない表情に変わった。貴子。赤松貴子。かつて軍の高等予科に所属していたときに憧れの美人と嵯峨も赤松も一緒になって盛り上がっていた女性だった。結局は赤松家に嫁ぎ、嵯峨はそのまま振られた感じを引きずっていた時期もあった。そんな胡州を代表する美女だった。
「貴子さんか。相変わらず頭が上がらねえらしいなあ。まああの人は昔からきつかったから」
嵯峨はそう言って笑った。貴子はかつて二人の親友だった亡き安東貞盛の姉である。稀代の美女にして女傑と言われた彼女が赤松を尻に敷いていることを思い出しに嵯峨は下品な笑みを浮かべた。
「叔父上」
そう言って静かに廊下から入ってきたかえではそのまま嵯峨のそばに寄って内密な話をしようとした。
「いいぜ、別に。胡州海軍第三艦隊司令赤松忠満中将殿に内緒ごとなど無駄なことだよ。なあ!」
そう話を振られて少しばかりあわてて赤松が頷いた。
「ベルルカンの
かえでの言葉に赤松は少しばかり頬を引きつらせた。
現在、ベルルカン大陸には約三万の胡州軍の兵士が駐留していた。しかし、それはどれも二線級の部隊であり、馬加の指揮する下河内特科連隊のような陸軍の精鋭部隊が動いていると言う話は海軍の赤松には初耳だった。下河内連隊は初代連隊長を嵯峨が勤めた嵯峨の子飼いの部隊とでもいえるものだった。
「ああ、後にしろよ。時間はまだ来てはいないみたいだからな」
そう言うと嵯峨は立ち上がった。
「かえで坊もまあ……べっぴんはんにならはってまあ……新三!貴子も久しぶりに新三の顔が見たい言うとんねん、うちに来てや、な?」
そう言うと赤松は立ち上がる。そして少し下がって控えているかえでを見て赤松は何かがひらめいたとでも言うように手を叩く。
「ああ、そうや。かえでも来いへんか?貴子も喜ぶ思うねん。それとうちの
赤松忠満の次男、
「あの、お申し出はうれしいのですが、お断りさせていただきます。僕には心に決めた人がいますから……」
そう言ってかえではその細い面を朱に染める。
「ああ、姉さんか!しかし、女同士……しかも姉妹ちゅうのはどないやろなあ?まあワシのおかんの例もあるいうてもなあ!」
「俺に聞くなよ!」
赤松は頭を抱える嵯峨を見て大きな声で笑い始めた。先ほどまでの殺気立った政治向きの話は消え去り、世間話に花を咲かせる時間が訪れた。
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