第149話 豪華に過ぎるホテル

「いらっしゃいませ」 


 誠がようやく地面の感覚を掴んだ目の前で、支配人と思しき恰幅のいい老人が頭を下げていた。さらにその後ろには従業員らしい二十人余りの人垣が一斉に頭を下げる。


「また世話になるぜ」


 かなめの声に合わせるように従業員達は一斉に頭を下げる。


「行くぞ、神前」 


 誠の手を引いてかなめはぞんざいにその前を通過しようとする。こういうことには慣れているのだろう、かなめは支配人をはじめとする従業員達の存在など別に何も思っていないというように建物の中に入る。そこにはロビーの豪華な装飾を見上げて黙って立ち尽くすシャムと小夏の姿があった。


「おい、外道!お前……」 


 小夏はしばらく言葉をかみ締めてうつむく。かなめはめんどくさそうに小夏の前で立ち止まる。


「実はお前、結構凄い奴なんだな」 


 小夏は感心したようにそうつぶやいた。それに誠が不思議そうな視線を送っていると、かなめはそのままカウンターに向かおうとする。


「ちょっと待ってなアタシの部屋の鍵……」 


「待ったー!」 


 突然観葉植物の陰からアイシャ乱入である。手にしたキーを誠に渡す。


「ドサクサまぎれに同衾(どうきん)しようなんて不埒な考えは持たない事ね!」 


 しばらくぽかんとかなめはアイシャを見つめる。そして彼女は自分の手が誠の左手を握っていることに気づく。ゆっくり手を離す。そしてアイシャが言った言葉をもぐもぐと小さく反芻しているのが誠にも見えた。


 瞬時にかなめの顔が赤くなっていく。


「だっだっだ!……誰が同衾だ!誰が!」 


 タレ目を吊り上げてかなめが抗議する。


「同衾?何?」 


 シャムと小夏はじっとかなめの顔を覗き込む。二人とも『同衾』と言う言葉の意味を理解していないことに気づいてカウラは苦笑いを浮かべた。


「そう言いつつどさくさにまぎれて自分専用の部屋に先生を連れ込もうとしたのは誰かしらね?」


 得意げに自分の指摘したことに満足するようにアイシャは腕を組む。彼女の手には誠のに渡された大きな文鎮のようなものが付いた鍵とは違う小さな鍵が握られている。 


「その言い方ねえだろ?アタシの部屋がこのホテルじゃ一番眺めがいいんだ。もうそろそろ夕陽も沈むころだしな……」 


 かなめはそう言ってようやく自分のしようとしていたことがわかったと言うようにうつむく。


「そう思って部屋割りは私とカウラちゃんがかなめちゃんの部屋に泊まる事にしたの」 


 アイシャが得意げに言い放つ。さすがにこれにはかなめも言葉を荒げた。


「勝手に決めるな!馬鹿野郎!あれはアタシのための部屋だ!」 


「上官命令よ!部下のものは私のもの、私のものは私のものよ!」 


「やるか!テメエ!」 


 かなめとアイシャはお互いに顔を寄せ合いにらみ合った。シャムと小夏は既にアイシャから鍵を受け取って、春子と共にエレベータールームに消えていった。他のメンバーも隣で仕切っているサラとパーラから鍵を受け取って順次、奥へ歩いていく。


「二人とも大人気ないですよ……」 


 こわごわ誠が話しかける。すぐにかなめとアイシャの怒りは見事にそちらに飛び火した。


「オメエがしっかりしねえのが悪いんだよ!」 


「誠ちゃん!言ってやりなさいよ!暴力女は嫌いだって!」 


 誠は二人の前で立ち尽くすだけだった。誠と同部屋に割り振られて鍵がないと部屋に入れない島田とキムがその有様を遠巻きに見ている。助けを求めるように誠が二人を見る。


「しかしあれだな……これはロダンだっけ?」


「オレに聞くなよ島田。でもまあいい彫像だな」


 二人はロビーに飾られた彫刻の下でぼそぼそとガラにもない芸術談義を始めるだけだった。


「わかりましたよ。幹事さんには逆らえませんよ」 


 明らかに不服そうにアイシャから鍵を受け取ったかなめが去っていく。


「このままで済むかねえ」 


「済まんだろうな」 


 島田とキムがこそこそと話し合っているのを眺めながら、誠は島田が持ってきた荷物を受け取ると、大理石の彫刻が並べられたエレベータルームに入る。


「胡州の四大公って凄いんですね」 


 正直これほど立派なホテルは誠には縁がなかった。誠はしょせんは普通の都立の高校教師の息子である、それほど贅沢が出来る身分でない事は身にしみてわかっている。


「何でも一泊でお前さんの月給くらい取られるらしいぞ、普通に来たら」 


 島田がニヤつきながら誠を眺める。


「でしょうねえ」 


 エレベータが到着し三人はそのまま乗り込んだ。


「晩飯も期待しとけよ、去年も凄かったからな」 


「創作料理系のフレンチだけど、まあ凄いのが並ぶんだなこれが」 


 キムと島田の言葉に誠は正直呆然としていた。食事の話を聞くと誠は自分の胃のあたりにてをやった。体調はいつの間にかかなり回復している。自分でも現金なものだと感心していると三階のフロアー、エレベータの扉が開いた。


 落ち着いた色調の廊下。掛けられた絵も印象派の作品だろう。


「これ、本物ですかね」 


「さすがにそれはないだろうな。まあ行こうか」 


 誠の言葉をあしらうと、島田は誠から鍵を受け取って先頭を歩く。


「308号室か。ここだな」 


 島田は電子キーで鍵を開けて先頭を切って部屋に入る。


「広い部屋ですねえ」 


 誠は中に入ってあっけに取られた。彼の下士官寮の三倍では効かないような部屋がある。置かれたベッドは二つ、奥には和室まである。


「俺らがこっち使うからお前は和室で寝ろ」 


 そう言うと島田とキムはベッドの上に荷物を置いた。


「それにしても凄い景色ですねえ」 


 誠はそのままベランダに出る。やや赤みを帯び始めた夕陽。高台から望む海の波は穏やかに線を作って広がっている。


「まあ西園寺様々だねえ」 


 島田のその言葉を聞きながら誠は水平線を眺めていた。


 海は好きな方だと誠は思っているが、それにしても部屋の窓から見る景色はすばらしい景色だった。松の並木が潮風にそよぐ。頬に当たる風は夏の熱気を少しばかりやわらげてくれていた。


「なんか珍しいものでもあるのか?」 


 荷物の整理をしながら島田がからかうような調子で呼びかける。


「別にそんなわけじゃないですが、いい景色だなあって」 


「何なら写真でも撮るか?」 


 振り返るとキムがカメラを差し出していた。


 その時、突然キムの携帯端末が着信を知らせる。キムはすぐさま振り向いてドアのほうに向かって歩き出した。そしてこちらから聞こえないような小さな声で何事かをささやきあっていた。そんなキムを見て頭を掻きながら島田が立ち上がる。


「抜け駆けかよ。まあいいや、神前。とりあえず俺、ちょっと出かけてくるから」 


 ベッドからバッグを下ろした島田はそれだけ言うとそそくさと部屋を出て行く。キムはしばらくドアのところで電話の相手と楽しげに歓談をしている。


『キム少尉の相手はエダ・ラクール少尉。確かアイシャさんの代わりに総舵手になるんだったな。そして島田准尉はサラさんのところに行ったか……僕は一人……」


 ただ誠は寂しげに色づいていく部屋の外の景色を眺めていた。

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