葉桜の君に

夢月七海

前編


 手元のノートに目線を落とすと、山なりの長い上睫毛がぴんと上を向いている。唇はしっかりと結ばれているが、常時口角が少しだけ上がっているのは変わらない。

 右手のシャープペンシルが繊細に動き、文字を刻んでいく。少し何かを考えるとき、開いていた左手が鼻の頭を撫でる。


 ……見ていたのは、数秒間なのかもしれない。しかし、授業中の教師がこうして一人の女生徒に真剣な眼差しを送っていたと気付かれれば様々な問題を呼び起こすので、僕は慌てて目線を逸らした。

 その生徒、春川桜子は僕の以前の恋人とよく似ていた。顔立ちというよりも、ああして少し俯いた姿が、彼女と重なってしまう。


 丁度チャイムが鳴ったので、僕は「はい、今日の授業はここまで」と声を掛けた。弛緩した空気が、教室内に満ちる。

 後ろからプリントを前へ回してもらう。後ろから三番目の席の桜子も、回ってきたプリントを机の上で整えてから、前へと渡している。


 こういう細かいところで気が利くのも、やはり元恋人を想起してしまう。前の席の子からプリントを受け取りながら、その面影を必死に振り払う。

 きっと、他人の空似なんだろうということは、確認してはいないが分かっていた。年齢的には桜子と元恋人は姉と妹くらい離れていたが、名字が違う。まさか、親戚ですかとは尋ねられない。


 休憩時間の陽気なざわめきの中で、プリントと教材をまとめて職員室へ戻る準備をする。今は生徒たちの時間なので、誰も僕を気にしていない。黒板を消している日直の子にお礼を言って、教壇を離れた。

 廊下に出て教室の扉を閉める瞬間、自分の席に来た友人とおしゃべりをしている桜子の姿を無意識的に見た。口元を隠して笑う桜子の姿に、元恋人の笑い声が勝手に耳に蘇り、驚いた一瞬の内に扉でその姿が消えた。






   △






 「木ノ内公園の葉桜はとても綺麗だ」という噂は、去年この町の高校に赴任してきた僕も知っているほど有名だった。今日の放課後は、それを見に行こうと元々計画していた。

 実際に葉桜を見るのは初めてだった。部活の顧問をしていない身ながらも中々忙しいもので、これから授業で「葉桜と魔笛」をやる予定が無かったら踏ん切りもつかなかったと思う。


 「葉桜と魔笛」は、とある老婦人から語られる、若い頃の思い出を描いた太宰治の小説だ。病気のために余命幾ばくもない妹に対して、当時二十歳だった老婦人は彼女の文通相手の青年のふりをして、手紙を書く。

 手紙には「夕方六時に塀の外へ軍艦マアチの口笛を吹きに来る」と書かれていたのだが、姉がそれをこっそり実行する前に、妹に手紙の差出人が自分だと見抜かれてしまう。しかし、六時丁度に、葉桜の向こうから軍艦マアチの口笛が聴こえてきた……その時の姉は「神さまの、おぼしめし」だと思うのだが、年月が経ち、それは父親が吹いていたものではないかと疑っているという形で話は終わる。


 白いソメイヨシノが咲き誇っている傍らに、鮮やかな緑の葉が覗いている。爽やかな五月の風に吹かれて、花弁がちらちらと舞い落ちた。

 公園と言っても、子供たち用の遊具は少なくて、草原をぐるりと回るような遊歩道がメインになっていた。その遊歩道の外側に、等間隔に桜の木が植えられていて、草原の方には桜を見れるような位置にベンチがいくつか並んでいる。


 授業で提示するための写真を用意しようと、ベンチの一つに座って、スマホのカメラを構えた。桜の葉の筋が分かるくらいにアップにして、一枚撮ってみる。

 葉桜自体は綺麗に写っていた。しかし今日はあいにくの曇り空で、少し薄暗い印象があった。


 天気がいい日に改めて撮ろうかと思ったが、余り遅くなると桜が散ってしまうんじゃないかという懸念もある。

 スマホの写真を見て熟考していたので、周りが見えていなかった。


「秋田先生ですか?」


 右側から、聞き覚えのある声で呼ばれて、はっと顔を上げた。

 そこに立っていたのは、桜子だった。制服のスカートの前で両手を重ねて、深々と頭を下げる。


 この公園は、学校から離れているため部活で走り込みに来る生徒もいなくて、町の中では山の方にあるので人の姿も僕以外にはいなかったはずだった。

 まさかこうして生徒と、しかも桜子に会うなんて予想だにしていなかったけれど、取り繕いの笑顔で話しかける。


「春川さん、こんにちは。どうしたの?」

「家が近くなので、帰る途中で散歩していました」

「そうなんだね」


 にこやかに話しながら、確かに彼女の家は近所だったことを思い出した。

 桜子は僕に興味津々といった表情で近付き、「隣、いいですか?」と尋ねられたので、断る隙も無く頷いた。


「先生は何をしていたんですか?」

「うん。『葉桜と魔笛』の授業用に、写真を撮りに」

「ああ、あの話、面白いですね」


 桜子は穏やかに話しながらも、目の奥を眩しく輝かせながら僕を見据えた。この口ぶりだと、すでに教科書に載っている「葉桜と魔笛」を読んでいるらしい。

 確かに、桜子は本が好きなようで、朝のホームルームのギリギリまで読書をしている姿をよく見かけた。僕も学生の頃は、入学式や始業式の日の内に国語の教科書の小説を読んでいたので、気持ちはよく分かる。


 ただ、教師という立場になると、その行為の意味は少し変わってくる。

 僕は至極単純な好奇心で、桜子があの小説をどんな思いで読んだのかが気になってきた。


「どうだった?」

「先生、放課後でも授業ですか?」

「いや、そういうのじゃなくて、」


 悪戯っぽく微笑む桜子に、僕は慌てふためいて弁明する。

 だが、それに対して桜子は、何か考えるように葉桜を見上げた。


「一番気になるのは、あの時軍艦マアチを吹いていたのは、語り手の父親だったかどうかですね」

「うん。そうだね」

「先生はどっちだと思いますか?」

「えっ?」


 くるりと振り返った桜子に射竦められて、僕は虚をつつかれた。自分の考えを述べるのよりも先に、他の人の意見を聞いて議論したいと思うようだった。

 これは試されているなと思いつつ、国語教師という立場上、正直に答えるわけにもいかないので苦笑して誤魔化す。


「それは、授業でじっくり」

「ずるいですよ、先生」


 躱されてしまった桜子は、むすっとした不機嫌そうな顔をした。口をへの字にしても、やはり口角はちょっと上がっている。彼女の足は小さく揺れていた。

 担任である僕でも、目上の人に対してはいつも畏まっている桜子が、こうして子供っぽく振る舞うのが僕には意外に思えた。いや、こっちの方が飾らない姿なのかもしれない。


 ふいに、会話が途切れた。桜子は、先程まで揺らしていた足をぴたりと止めて、ローファーの爪先にじっと視線を落としている。

 その真剣な横顔に気まずさを感じて、僕は桜の花の根元の方へ眼を移した。切りそろえられた芝生の上に、花弁が雪のように積もっていくのを眺めている。


「……『葉桜と魔笛』の姉妹って、とても仲がいいですね。羨ましいです」


 しばしの沈黙を破ったのは桜子だった。ぽつりと水滴が落ちるかのような小さな声に、僕は無言で頷く。

 どうしてそんなことを呟いたのか、僕は桜子の本意を計り損ねていた。姉妹がいないから羨ましいのか、それとも姉妹はいるけれど仲が悪いのか……迂闊に尋ねたら、火傷しそうなので黙っておく。


 ふっと優しく息を吐いて、桜子は顔を上げた。どこか吹っ切れたような目は、くるくると風に回される花びらを見つめている。


「私には、姉がいるのかもしれないんです」

「えっ?」


 全く予想もしていなかった角度からの告白に、僕は戸惑いを隠せなかった。

 「いるかもしれない」とはどういう意味なのだろうか。「いた」なら、物心つく前に亡くなったと考えられるけれど、「いる」とは生きているけれど会ったことがないということなのだろうか……。


「私の一番古い記憶、きっと保育園か幼稚園の頃だと思うんですけれど、制服を着た女の子と一緒におままごとをしているというものなんです。でも、それ以外に『姉』がいるという証拠がないんですよ。写真とかも探したんですけど、見つけられなくて」

「家族には訊いたの?」

「訊いたことはないです。気まずくて、ちょっと怖くて……。ただ、もしも姉だったら、母の方にいるんじゃないかと思っています」

「ええと、春川さんの家って……」

「私が小さい頃に、両親は離婚しました。原因は母の不倫です。私は父の方に引き取られたのですが、品行方正を重んじる父は母の行為が許せなくて、私はそれ以来母に会ったこともありませんし、母の話題自体が家ではタブー扱いでした」

「そうだったんだね……」


 唐突すぎるクラスを受け持つ生徒からの告白に、僕はただそんなことを言うしかできなかった。桜子の家がシングルファザーで、父がホテルマンだということは以前の三者面談で知っていたけれど、そこまでの事情があるなんて思いもしなかった。

 そして、「姉がいるかもしれない」理由を詳しく聞いた時に、僕は自分の元恋人を思い出していた。まさかとは思うけれど、そのもしかしてが拭いきれない。


 僕が考え込んでいると、重たい空気を察したのか、桜子はベンチから立ち上がって振り返り、できるだけ明るい声で言った。


「こんな話をしてしまってすみません。『葉桜と魔笛』でそんな連想をしてしまって。気にしないでください」

「いや、でも、これは、」

「授業用に良い写真、撮れるといいですね」


 さすがに看過できないと僕が言おうとするのを遮るかのように、桜子は深々とお辞儀をして、踵を返すと走り出した。

 軽やかな足音と、肩にかけた鞄と彼女のセミロングの黒髪が柔らかく揺れてながら遠ざかっている。葉桜は小憎たらしいくらいに咲き誇っていて、舞い続ける花びらがその小さな背中を覆い隠してしまうかのようだった。






   △






 白石皐月さつきは、今から五年前、僕が大学生の頃に付き合っていた恋人だった。彼女の方が三歳年上なので、お互いに「皐月さん」「葉太君」と呼び合っていた。

 皐月さんは、大学の近くのカフェの店員だった。勉強や読書をするためによく通っていたので顔見知りになっていたけれど、思い切って話しかけたのは僕の方だった。


「五月生まれですか?」


 名札にある「サツキ」という名前から、そう尋ねてみると、皐月さんは一瞬きょとんとして、くすくす笑い出した。


「よく訊かれますが、違うんです。父が好きな季節にちなんでいます」

「あ、そうなんですか」


 恥ずかしくて真っ赤になってしまった僕を見て、皐月さんは口元を隠しながらずっと笑っていた。

 だけれどもこれが怪我の功名で、僕たちは顔見知りの客と店員から友達に、しばらくして恋人へと関係が変わっていった。


 デートでは、色んなカフェへ行った。皐月さんの希望で、テレビや雑誌で評判のカフェへ行きたいと電車を乗り継いだこともあった。

 皐月さんは、注文をした後もじっとメニュー表を眺めていた。将来は自分で店を出したいと語っていた彼女にとっては、どんなお店も研究対象であったようだ。


 カフェの中では、皐月さんは料理について、僕は好きな本についての話をよくしていた。お互いちょっと奥手な性格だったので、激しさがない分穏やかな付き合いが三カ月続いた。

 そんなある日に突然、皐月さんの実家の母親が、病気で倒れた。そのため皐月さんは実家に帰ることになり、僕と別れてほしいと唐突に切り出された。


 もちろん僕はそれをすぐに受け入れられなかった。ただ、皐月さんに泣きつく勇気もなくて、石のように黙っていた。

 母親の病気は重く、自分は病院に付きっきりになるだろう。僕の教育実習ももうすぐ始まるので、二人でやり取りする時間や心の余裕もなくなるはずだと、皐月さんは説得した。僕はその話をようやく飲み込んで、静かに頷いた。


 それから五年も経ち、皐月さんに対する未練というものは皆無だったが、印象深い人だったことには変わりない。自分でコーヒーを入れた時は、皐月さんが入れてくれたそれと無意識に比べてしまうくらいには。

 別れたその日に、お互いの連絡先を断ったので、今はどこで何をしているのかも知らなかった。僕も意図的に、調べようとはしなかったけれど。


 それなのに、桜子と会ってから、皐月さんのことが何度も思い出される。ノートに目を落としている彼女の俯いた顔が、皐月さんがメニューを見ている面影と重なってしまう。

 皐月さんが、桜子の姉だという証拠はどこにもない。皐月さんはあまり自分のことを話さない人だったため、僕は彼女の家族関係を全く知らなかった。


 ……連絡先は分からないけれど、皐月さんはSNSをやっていたため、近況を調べることができる。

 ともかく、今の彼女を知ろうと思い検索してみた。皐月さんは、母親の故郷で現在、カフェを開いていると書かれていた。


 皐月さんの夢が叶ったことを知り、胸がいっぱいになる。カフェのホームページには、湯気の立つコーヒーと厚焼き卵のサンドイッチの写真があり、どちらも皐月さんの得意料理だったなと懐かしく思い返す。

 SNSを辿ると、母親は病気から回復しているとあった。その事実にホッとしつつ、いくら探しても妹や父親に関する話題は見つからなかった。


 ここからどうしようか。僕は自室のベッドの上に座っていたので、そのまま壁に背中を預けた。

 DMで皐月さんと連絡を取り、妹がいるかどうか聞いてみる。やるべきことははっきりしている分、先に進むのが怖い。


 桜子と木ノ内公園でその話をしてから、すでに二週間は経っていた。もう公園内の葉桜は全て散ってしまっているのだろう。

 目を閉じただけで、あの瞬間の桜子の横顔が浮かんでくる。ぼんやりとした姉の記憶を辿る彼女は、不安と希望とを滲ませた表情をしていた。


 教師として、生徒とは適度な距離を保つべきだということを、僕は信条にしていた。

 自らそれを破ろうとしているのは、自身の悩みを吐露してくれた桜子へ誠実さを見せないといけないからだろう。


 もしかしたら、皐月さんの元恋人だった僕を彼女の妹かもしれない桜子と巡り合わせたのは、「葉桜と魔笛」で姉が信じたように、神さまのおぼしめしなのかもしれない。

 そう自分に言い聞かせて、何度目かの深呼吸の後、皐月さんのDMメッセージを開く。そこに、「お久しぶりです」とまずは打ち込んだ。


















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