3.

 アパートについた紗江は、何はともあれシャワーを浴びることにした。少し熱目のシャワーが雨の汚れも嫌な気分も洗い流してくれるようだった。

 しまっておいた洗いたての部屋着に着替え、温かいココアを入れる。一口飲むとその温もりに全身の血が巡り始めたように思えた。


 そして、ふと、目の前に置いた名刺に目をやった。


 殿上、正樹。

 会社名に役職名、会社の住所に携帯番号にメールアドレス。そして、最後に書き加えられた携帯番号。


『プライベートの携帯番号だから』

 確か、そう言っていた。


 時計を見るとあれから1時間ほどたっていた。もう、着いただろうか。

 紗江は自分の携帯に手書きの携帯番号を打ち込んだ。

 受話音がなってすぐ、相手の声が通話口から流れてきた。


「はい、殿上です」

「っ!」


 紗江は思わず声が喉に詰まってしまった。


 まさか、こんなに早く出るなんて!

 びっくりしたのはそれだけじゃない。

 声が、近い。

 それは電話だから当然そうなるのだが、なんていうのか、この人、助けられた時も思ったけど、声が、よすぎる。


「もしもし?」


 私ったら!


 ともすればぼぉっとしそうになる頭を振って、紗江は自分を現実に引き戻した。


「あの、先ほどはお世話になりました。磯浦と言います」

「あぁ、無事に着いたんだね。よかったよ」

「本当にありがとうございました」

「気にしないで」


 この人は、とても、優しい。最初からずっと気遣ってくれている。

 でも、…。


「それで、お借りしている傘とハンカチをお返ししたいんですが、明日とかお時間ありますでしょうか」


 早いほうがいい。そのほうが、引きずらない。たぶん。

 なぜだか紗江はそんな風に思っていた。


「ん~、明日は、というか、明日から出張でしばらく戻れないんだ。いつ帰ってくるかもはっきりと言えないし…。困ったな」


 そういえば、名刺には役職名にマネージャーと記載されていた。きっと忙しいに違いない。


「あの、私はお返しできるならいつでもお時間を合わせますが」


 紗江は相手の言葉を待った。


「それなら、自分から連絡させてもらってもいいかな。この番号に連絡すればいいのかな」


 紗江に断る理由はなかった。


「はい」

「あ、今さらなんだけど、名前、いそうら、何さんっていうのかな。差し支えなかったら下の名前も教えて欲しいんだけど」


 断る理由は、ない。

 ないのだが、ほんの少し躊躇った。


「他意はないんだ。携帯に登録するのに苗字だけっていうのは味気なくて、自分的にあまり好きじゃないだけなんだ」


 確かに携帯に苗字だけが表示されるのは味気ない気がする。誰かもわかりにくい。その理由は理解できた。


「さえ、といいます。いそうら、さえ」

「いそは磯辺の磯?」

「はい」

「うらは浦島太郎の浦?」

「はい」

「さえは?」

「さは糸偏に少ないという字で、えは入り江の江です」


 何かにメモでもしているのだろうか。ほんの少しの沈黙があった。


「紗江さん、か。綺麗な名前だね」


 少し歯を見せて微笑むあの人が目の前にいて、すぐそばで自分の名前を呼ばれたかのようで、紗江は顔が熱くなるのを感じた。


 と、その時。


 電話の向こうからかすかに子供のはしゃぐ声が聞こえた。そして、それをたしなめる女性の声。

 紗江は自らを追い立てるように一気に喋った。


「本当に、今日はありがとうございました。傘とハンカチはお返しするまで大事に預かっておきます」

「ははは。たいしたものじゃないから、そんなに気にしないで。それじゃ、また、改めて電話します」

「はい。失礼します」

「こちらこそ。それじゃ、また」

 プツッ、ツー、ツー


『電話します』

 2・3日後には連絡があるだろう。きっと。あの人は、そういう人だと思う。傘は広げて乾かしておいて、ハンカチは洗って、新しいハンカチをそえてお返ししよう。それで終わり。カノンで逢うことはあっても、私は月一しか顔を出さないし、もうあんなこともないだろうから、会釈はしても声を交わすこともないはず。


 紗江は目の前の名刺に手を伸ばした。


 だから、携帯にも登録しなくてもいいわ。


殿上正樹

090-15××-××××


 さっと目を通した後、紗江は手書きの携帯番号が見えないように、名刺を裏返して置いた。

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