六章 愛なんて なければいいと 思うのに 胸の高鳴り 捨てられませぬ
六章 愛なんて なければいいと 思うのに 胸の高鳴り 捨てられませぬ その1
博愛女学園を出てからずっと、生まれてかつてないってぐらいに全力疾走していた。
途中で何度もすれ違うヤツ等が目を丸くしていやがった。当然だろう、博女の制服を着ている少女がなりふり構わず走ってる姿なんてそうそう見れるもんじゃない。
このワンピースってヤツは走るのに全然向いていなかった。脚を前に出すたびにスカート部分が絡みついてきやがってイライラするのだ。真っ二つに引き裂いてやろうかって何度も思ったぐらいだ。だが幸いローファーは下駄よりも格段に走りやすく、女装していたことに少しだけ感謝した。
何度か車に轢かれそうになりその度にクラクションを鳴らされ、怒号が飛んできたが、構っちゃいられない。美甘が助かるなら俺の命なんざ喜んでくれてやるってんだ。
大通りに出たところで「灯字っちッ!」と呼ぶ声がした。
見やると歩道橋の上に膝に手をついた久遠先輩の姿があった。
「よ、よかったっ……、合流できて……」
「大丈夫か、久遠先輩?」
「ぜ、全然平気だし……。早く美甘っち、た、助けなきゃだし……」
全然大丈夫そうじゃない。今にも過呼吸でぶっ倒れそうだ。
「ひとまず休もう。美甘がどこに連れていかれたかも分かってないんだし、考えもなしで闇雲に走り回っても無駄に体力を消耗するだけだ」
「あ、ああ……サンキュー」
久遠先輩と話している内に、少しずつ冷静さが戻ってきた。
俺自身も呼吸を落ち着け、歩道橋の階段を上って久遠先輩の横に並んだ。
彼女の呼吸が整うのを待ち、俺は訊いた。
「久遠先輩、何があったのか詳しく教えてくれないか?」
「……オッケー」
不安そうに目を泳がせながらも、久遠先輩は美甘の攫われた状況、その他起きたことについて話してくれた。
「……灯字っちが津駒志っちの車に乗って学校を出ていった後、特に事件もなかったから、ウチと美甘っちはせっかく来たんだしってことで、ドリーム高校の文化祭で遊んでいくことにしたわけ」
「弥流先生は?」
「気付いたらいなくなってた。多分、一人で文化祭満喫してたんだと思う。チョー楽しみにしてたみたいだったし」
まさか大の大人が……と思ったが、弥流先生ならあり得ない話ではない気がした。
俺は「それで?」と久遠先輩に話の先を促した。
「二人で文化祭を見て回ってると、辺りが急に騒がしくなったわけ」
「何かあったのか?」
「最初はよく分からなかったんだけど、落ち着いて周囲を見てみると、学校の中からチョーたくさんの人が慌てて出てきてたわけ。その後から、ゾンビ症の人がぞろぞろって……」
「ゾンビ症のヤツ等が群れを成して……か。そんなに大勢いたら、さっき学校にいた時に気付きそうなもんだけどな」
「ちっ、違うんだ……」
寒さを感じたかのように久遠先輩は自分の体を抱きしめ、ぶるっと震えた。
「これは逃げてきた人に訊いたんだけど……。壁とか窓とか天井に突然、黒いまつ毛が埋め尽くすように生えて、一斉に目が開いたんだって」
「壁とか窓に目がたくさんって……目目連みたいな?」
「そ、そんな感じ……。その目と視線が合った人は途端にみんな生気を失って、ゾンビ症になったんだって……」
「視線が合った瞬間に生気を奪う目、か……。謎の女以外にそんなバケモノがいるなんてな」
「ウチもすぐには信じられなかったけど……、その後、実際に見たの」
「目目連みたいな目をか?」
「う、うん。窓越しだったから、視線は合わずに済んだけど……。確か緑色の目だった気がする」
その当時のことを思い出したのか、ぎゅっと彼女は固く目をつぶった。相当怖かったのだろう。
「……まるでパニック映画だな。目目連を見た人間がゾンビ症になって襲ってくる、か」
「あ、それは違くて……。ゾンビ症になった人はすぐには襲ってこなかったんだけど」
「……どういうことだ?」
「校内放送が流れたんだ……。艶のある、女の人の色っぽい声の……。その人がまるで小さな子に話しかけるみたいに、言ったわけ」
久遠先輩はぽつぽつと、声音を僅かに真似た感じで言った。
「『みんなぁ、我慢しなくていいんですよぉ。その腹の底に溜まった不満を解放して、思い切り暴れちゃってくださぁい』……って。何度も、何度も繰り返して……」
「……それを聞いた途端、暴れ始めたってわけか」
「ああ……。しかも、最初はゾンビ症じゃなくてただ怖がってた人も、段々放心したみたいになって、ゾンビ症に……」
「催眠術みたいなものか……。マイン達は?」
「無事だよ。今はゾンビ症になった人を正気に戻すために奮闘してる」
「そうか、よかった」
「でも、マインっち達と合流する前に……美甘っちが」
久遠先輩の唇が震えだし、瞳が潤み始める。
彼女は胸元からハンカチを取り出し、それで目を押さえた。けれども震える手では押さえきれず、涙の雫が零れた。
すすり泣き混じりにか細い声で続きが語られる。
「いっ、一瞬のことだった……。黒い影が近くを横切ったと思ったら、美甘っちの姿が見えなくなって。き、気付いたら屋上でソイツが美甘っちを抱きかかえてて……」
「久遠先輩が悪いんじゃない……。自分を責めないでくれ」
「……悪いな。頼りない先輩で、マジでごめん……」
久遠先輩の涙が止まるのを待ちたかったが、逸る気持ちに抗えず、俺は訊いた。
「美甘が攫われた時、何か気付いたこととかないか?」
「き、気付いたこと……?」
「どんな些細なことでもいい、とにかく手掛かりが欲しいんだ」
しばし黙考した後、「そういえば……」と言って、彼女は胴乱の中を探り始めた。
「黒い影が横切った後、こんなものが足元に落ちてたんだ」
久遠先輩が取り出したものを見て、俺は思わず目を剥いた。
「こっ、これは……!?」
それは鍵とキーホルダーだった。
そのキーホルダーは『へにゃちゃん』だった。女の子がへにゃ顔でショートケーキを食べているシリーズ。そしていくつもある種類の中の一つ、小悪魔デザイン。
これはまだ記憶の浅い場所に残っていた。だってつい最近、とある人物にプレゼントしたばかりなのだから。
単なる偶然だと信じたかった。というかその可能性が高いと思う。だってこれはコンビニで普通に売られている大量生産品だ。五百円足らずで誰でも手に入れることができる代物だ。
「どうしたんだ? そんなに怖い顔して……」
「……いや、何でも……」
そう言いかけた時、『さくらさくら』が鳴った。
俺は心臓の鼓動を耳に聞いた。一定のリズムで鳴るそれが、いやに大きく聞こえる。
やけに静かな空気の中、ハンドバッグの口を開ける。着信音のメロディーが直接耳に届くようになる。
息を飲み込み、覚悟を決めた俺はスマホを手に取り、画面を見ずに応答の操作をし、スピーカー部分を耳に当てた。ひやりと冷たい感触。
緊張に締め付けられた肺を無理に動かし、声帯が突貫で作った震え声を俺は吐き出した。
「……もしもし」
乾いた唇を閉じ、相手の返事を待つ。その一瞬の時間はまるで時計の針が止まったかのように無限に感じられた。
しかしそんなことはなく、スピーカーから声が聞こえてくる。
『もしもし、灯字さんよね?』
「……弥流先生か。今どこにいる?」
弥流先生は俺の質問を無視し、別のことを訊いてきた。
『灯字さんは今、久遠さんと一緒にいるの?』
「ああ、いるぞ」
『そう、そうなのね』
何だか不自然に声が弾み、明るくなった。
スマホを持つ手に冷たい汗を感じる。
「……弥流先生は」
唇を湿らせ、呼吸のタイミングを見計らい。
喉から鉛を出すような思いで訊いた。
「弥流先生は、今誰と一緒にいるんだ?」
スピーカーの向こうが一瞬しんと静まり返る。
『フフっ……フフフフフッ!』
薄気味の悪い笑い声だった。
ゾワリと、背筋を冷たく湿ったもので撫で上げられたような気さえした。
「弥流先生……?」
『誰と一緒にいるか……知りたいの? 本当に? 本当の本当に?』
「……ああ」
笑い声が、大きくなる。
繰り返される声の揺すぶり音に、俺の平常心が滅茶苦茶にされていく。
『分かったわ、聞かせてあげる。先生が一緒にいる人の声をね』
弥流先生の笑い声が遠ざかり、代わりに誰かの苦し気な声が聞こえてくる。
『……ぇえっ……ああっ、ああぁあッ!』
「美甘!? 美甘なのか!?」
『くぁっ、あ……と、灯字……ちゃん?』
掠れてはいたが、確かにいつも聞いている美甘の声だった。
「だっ、大丈夫か? ケガしてないか?」
『へっ、平気……です。わたしは……だいじょ……ぐっ!?』
尋常じゃない呼吸音に、ふいに苦悶の声が混じった。
「おっ、おい! どうした!?」
『だいじょう……ぶ、だから……。来ちゃ、ダメッ。灯字ちゃんは……あっ、ああぁあ、アァアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?』
「美甘ッ、おいっ、美甘!?」
唐突に電話が切れ、『ツーッ、ツー』とビジートーンがスピーカーから聞こえてくる。
「……どうしてっ、どうして弥流先生がッ」
何度もかけ直してみたが、一向に出る気配がない。美甘の電話にもかけてみたがやはり繋がらない。
「クソッ……! 何でっ、……何でなんだよッ!」
「……灯字っち。美甘っちをさらったのって、まさか……」
蒼白になっている久遠先輩に、俺は唇を噛んで頷いた。
「……多分、弥流先生だ……」
「そんなっ……嘘っしょ!? だって、弥流先生は……」
彼女は眉間にしわを寄せ、固く目を瞑り、絞り出すように言った。
「……弥流先生は、ウチ達の……先生じゃんか」
返す言葉も思いつかず、俺は久遠先輩から目を背けた。
その時、俺のスマホが鳴った。音楽ですらない、三秒程度の短いメロディ。雷印が届いた時のものだ。
スリープモードを解除し画面を見やると、弥流先生からのものだと分かった。
コメントはなく、画像の添付ファイルだけがあった。
唾を飲みこみ、震える指先でタッチし開いた。
それは主要な施設の名前のみ載っている、この周辺の簡素な地図だ。
ある一ヶ所に、赤い星印が手書きで描かれていた。
そこは今は打ち捨てられた廃ビルが集まっている一角の一つだった。
「……久遠先輩、美甘のいる場所が分かったかもしれない」
「ま、マジか!?」
「……多分な」
俺はスマホの地図を見せ、言った。
「弥流先生から届いたんだ。多分、美甘を返してほしければここに来いってメッセージだろう」
「だけどこれ、罠って可能性もあるんじゃね?」
「だとしても、他に手掛かりはない」
「……行くつもりなんだな?」
俺は久遠先輩の視線を真正面から受けて、「ああ」と頷いた。
しばし黙していた彼女は、やがて鼻を軽く鳴らして言った。
「いい面構えだ。まるでセンターに立つボーカリストだね」
「その例えはよく分からんが……」
「うしっ、ウチも一緒に行くよ」
「本当か?」
訊くやいなや「当たり前だろ」と久遠先輩は胸を叩いて言った。
「後輩のピンチに一肌脱ぐのが先輩の務めってもんだ」
自分の表情筋が緩み、笑みが浮かんでいくのを感じた。
「頼りにしてるよ、先輩」
「おうよ、後輩」
俺達は拳を作り、乾杯するみたいに一回打ち合った。
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