第3問
ひどくおぼろげで、触れれば一瞬で消え去ってしまいそうなほどに儚いそれだけが在った。
ゆっくりと、少し、ほんの少しずつそれは輪郭を得て形を成していく。
『暖かい』形のなかった想いが集積して言葉が生まれた。
たった一つ、形を成した言葉。その誕生によって唐突に意識が覚醒した。
私は内に私の存在を知覚した。そして外に世界を感じた。
そう……私は目覚めたのだ。
私は世界を視覚によって捉えるためにゆっくりと目蓋を開く。
まず飛び込んできたのは、世界を満たし照らす光だった。
眩しいと思った。そう感じることができた。
私は、光に抗って重い目蓋をこじ開ける。
やっぱり眩しくて、天井の光を遮るように手をかざした。
しかし眩しさは変わらない。だから薄目で辺りを見回す。
ここは見知らぬ白い部屋だった。私は今、ベッドの上に在る。
思うように動かない体に無理矢理力をこめて、ベッドの上に起き上がる。
体が重い。節々に痛みがあって、酷くだるい。
熱でもあるのだろうかと、額に手を当ててみるが熱くはない。
ベッドの上に座ったまま、首だけを左右に動かして部屋の様子を観察する。
ここは随分と不思議な空間だった。ドアもなければ、窓もない。あるのは白い壁とベッドだけ。蛍光灯のような光源もないのに、この空間は光に満ちている。
そういえば影がない。腕を動かしてみても、どこにも影が生まれない。
ここはいったいどこなのだろう。死後の世界だろうか……それとも宇宙人に拉致されたのかもしれない。
考える。でも寝起きのせいなのだろうか、思考がうまくまとまらない。
それでも一つだけはっきりしている。私はここにずっといるわけにはいかない。それだけは何故か確信が持てた。
しかしここから出ていこうにも、この部屋にはドアがない。
壁に触れてみる。普通の固い壁。押してみてもびくともしない。
次は軽く叩く。音がほとんどしない。もう一度、少し力をこめて叩く。やっぱり音がしない。
でもそれだけじゃない。何か別の違和感があった。
もっと力をこめて、強く叩いてみる。
壁に弾力があった。おかげで手に痛みはない。
でもおかしい。もう一度押してみる。体重をかけて強く押す。しかし弾力は感じない。固い壁だ。
次は叩く。どれだけ強くパンチしてみても壁が拳を柔らかく包み込み弾力があって、手がちっとも痛くない。
不思議な壁だ……意味がわからない。
私はベッドから降りて、立ち上がる。
他の壁も叩いてみた。どこも一緒。不思議な壁だ。
白い床も叩いてみる。やっぱり一緒。
ベッドの上に立ち上がって天井も叩く。天井も一緒だった。
私はこの白い不思議な部屋の中に閉じ込められていた。
「だれ、かあ」
助けを呼ぼうとするが、うまく声が出ない。
喉に手を当てて、唾を飲む。
そしてもう一度。
「誰か……助けて」
なんとか言葉になった。それでもこんな小さな声では誰にも届かない。
もっと喉に力をこめて、声を上げようとした――そのときだった。
壁の一部が青白く発光した。そして発光した部分の壁が、溶けるようにして消えていく。
消えた壁の向こうに人の姿が見えた。白衣を着た初老の男。
「おはようございます。元気そうで安心しました。私はあなたの担当医の橋本です」
男は自らを医師と名乗った。ではここは病院なのだろうか。
疑問は多くあった。それでもまずは男の丁寧な挨拶に応えることにする。
「おはようございます……私は……」
そこまで言って、やっと気がついた。
私は……誰だ?
自分を見る。誰? わからない。自分が女だということくらいしかわからない。
気持ち悪い。吐き気がする。
「どうしましたか? 大丈夫ですか?」
「自分が……誰か、わからない」
震える声で私は答えた。
「そうですか……申し訳ありませんが、私にもあなたが何者なのかがわからないのです。何故かはわかりませんが、あなたにはタグがないんです」
タグ……その言葉はピンとこない。意味はわかる。日本語で言えば札という意味だ。
確かに私は今、自分がわからない。記憶がはっきりとしていない。それでも一般常識のようなものは覚えているように感じる。
それなのに医師が口にした、私にタグがないという言葉が理解できない。
「すいません。タグって何ですか?」
私は聞いてみる。
「タグですか……」
そう言って医師は、膝を折り曲げると何もない空間に座ろうとするかのような不思議な動きをした。
そのとき、医師の動きに呼応して白い床がまるで柔らかな粘土のように持ち上がる。そして医師はそうなることがわかっていたようにすんなりと、その持ち上がった床に腰掛けた。
そして何事もなかったように普通の顔をして言葉を続けた。
「タグとは脳内チップのことです。現在の日本では誰もが脳内にチップがあって、その中には自分が誰であるかという情報も含まれているのです。しかしあなたの脳内にはそのチップが存在しないのです」
それは荒唐無稽な話だった。
私が忘れてしまっただけなのだろうか? その話はSFの物語に出てくるような遠い未来の話に聞こえた。
「今……何年ですか?」
疑問を口にする。
「2066年です」
医師は答えた。
2066年。自分が何年に生まれたのかは思い出せない。意識を失う以前、自分が何年に生きていたのかも思い出すことはできない。それでも2066年は私にとって遠く未来だと、そう感じた。
「私は……自分のことをよく覚えてはいません。それでもここで目覚める以前、もっと過去を生きていた気がします」
「なるほど……」
私の言葉を噛み締めるように、医師は何度も頷く。
「では、一つ質問をします。私はあなたの身元を調べるためにDNAを調べさせてもらいました。現在の日本では全国民がDNA登録されているはずなのですが、あなたのDNAはヒットしませんでした。しかし、あなたと血縁関係があるのではないかと思われる人物をみつけることができました。山瀬孝弘という名前に聞き覚えはありませんか?」
「ぇと……わかりません」
「そうですか……では、山瀬健人はどうですか?」
健人……その名を耳にしたときドクンと跳ねるような鼓動の高鳴りを感じた。
私はその名を知っていた。今は思い出せないが、それでも知っていた。それは大切な人だったはずだ。忘れることなんてあってはならなかったはずだ。
目をつむって意識を集中する。真っ暗な闇の中を手探りで掻き分けるように記憶の中を必死で探る。
そして私はそれを見つけ出した。
山瀬健人。それは私の息子の名だ。
記憶があふれてくる。
雨が降っていた。土砂降りだった。暗い空に光が瞬き、雷の音も聞こえていた。
そうだ……私は雨の中、傘をさして息子を迎えに保育園へと向かっていたはずだ。
それなのに私は今……ここにいる。
「健人は? 健人はどこなの?」
私は叫んでいた。
「やはり……知り合いでしたか」
私は未婚のシングルマザーだ。大学生のとき妊娠した。大学を辞めて子を産むと決めると、両親には酷く反対された。
それでも私は生まれてくる我が子を絶対に幸せにすると誓って、産んだ。
そして両親の手を借りることなく、一人きりで息子を育ててきた。
だから!
「早く迎えに行かないと!」
私は立ち上がり、部屋を出ようとした。
「ちょっと、待ってください」
医師がそう言うと、あったはずの出口が塞がって、元の白い壁に戻ってしまった。
「どうして邪魔をするの? 健人が待っているのに!」
私は叫ぶ。
「すいません」
医師が私の腕を掴む。そのとき少しチクッとした痛みを感じた。
その瞬間、私は世界が遠のいていくのを感じた。世界から私だけが切り離されて、闇の中へと静かに沈んでいく……
……私は歩いていた。
目指す目的地もなく、ただ歩いていた。
辺りを見回す。何もない。あるのは白い天井と床だけ。壁はなく、果ても見えない。
そんな白い世界の中を私はただ歩く。
疲れも感じないし、何も思わない。ただ前を向いて進み続ける。
歩いて、歩いて、歩いて……そして、目覚めた。
私は今、目を覚ました。それまでは夢の中を歩いていた。
だが目を覚ましたはずの、この場所も白かった。壁も天井も床もベッドも全て真っ白だった。
ここは、どこだろう……
寝起きのせいだろうか、頭の中に深い霧がかかっているような感覚ではっきりしない。
部屋の中を観察していると、壁の一部が光った。そして壁が消えていく。
あまり驚きはない。
消えた壁の所から、部屋の中へと男が入ってくる。白衣を着た初老の医師。
「おはようございます。山瀬雪乃さん」
「お、おはようございます」
医師に挨拶を返す。
「昨日のことは覚えていますか?」
昨日のこと……そう言われて思い出してみる。
そうだった。私は昨日もこの白い部屋にいた気がする。でも気がするだけで、思い出すことができない。
「山瀬さん。体は大丈夫ですか?」
「はい。記憶ははっきりしませんけど、体に問題はないと思います」
「雪乃さんは昨日お話したことは覚えていますか?」
「いえ……すいません。あまり思い出せません」
「そうですか。大丈夫ですよ」
そう言って、医師は安心を促すように微笑むと言葉を続けた。
「今からあなたに、会ってもらいたい人がいます」
「会ってもらいたい人ですか?」
「ええ。では入ってきてください」
医師に促されて男が部屋の中に入ってくる。医師より少し若いくらいの男性だ。
知り合いではない、と思う。でも少し兄の面影を感じる。兄が歳を取ったら、彼のようになるかもしれない。
だから彼はもしかしたら親戚とかかもしれない。
「久しぶりだね」
男は優しく微笑んだ。
「僕が誰だかわかる?」
どうやら彼は久しぶりに会った私の知人のようだ。親戚だとすると、父か母の兄弟だろうか? でも思い当たる人物は浮かばない。
「すいません。記憶が何かあやふやで、思い出せません」
「そう……」
少し残念そうに返事をして、男は言葉を続けた。
「母さん……僕は健人。母さんの息子だ」
……意味がわからない。
意味がわからない。
意味がわからない!
この男はいったい何を言っているのだろう。私の息子はまだ五歳だし、この男はそもそも私よりずっと年上だ。私の息子だなんてことがあるわけない。
「何の冗談ですか?」
イライラした。怒りが込み上げてくる。
そういえば本物の健人はどこだろう。姿が見えない。保育園に行っているとき以外は私の近くにいるはずだ。
「健人は? 本物の健人はどこなの?」
私は怒りにまかせて叫んだ。
「僕が健人だ」
男はそう言った。私は怒りをこめて男を睨みつける。
「お願いだから、説明させてほしい」
男は真剣な顔で懇願していた。その顔を見ると何故か彼の話を聞いてみようと思った。
「今は何年だかわかる?」
言われて、考える。わからなかった。今が何年か思い浮かばない。
「思い出せない」
「今は、2066年だ」
思い出せないのに、それはおかしいとわかった。
「そんなわけない!」
私は叫んでいた。
「ああ。そう感じておかしくない」
男は諭すように穏やかな口調でいった。そして言葉を続ける。
「母さんは2021年の六月十八日、仕事を終えた後、行方不明になったんだ。そして五日前、以前僕が通っていた保育園の近くにある神社の前で倒れていた。行方不明になった当時の姿のままでだ」
「どういうこと?」
「わからない。僕にも、誰にもね。もちろん2066年の今でもタイムマシンなんてものはない」
「本当なの? 冗談じゃないの?」
「本当のことだ」
「じゃあ、あなたは本当に健人なの?」
男の顔を見る。彼も真っ直ぐにこちらを見ていた。
確かに面影はあった。それでも私の息子は五歳だったはずだ。
「ああ。僕は母さんの息子の健人だ。母さんがいなくなってもう四十五年もたった。じいさんは母さんが子育てが嫌になって逃げ出したって、いつも言っていた。でも父さん……いや、母さんの兄の伯父さんはそんなことはないって言ってくれた。何か事件に巻き込まれたんじゃないかって、ずっと心配してくれていたし、僕を引き取って本当の息子のように育ててくれた」
「そぅ……一つだけ聞いていい?」
「もちろんだよ。何だって聞いてくれていい」
「健人は……今、幸せ?」
「もちろんだよ。今だけじゃない。ずっと幸せだった。結婚して、子供もできた。息子と娘が二人。だから母さんはもうおばあちゃんだ」
「よかった」
自然と笑みがこぼれた。
どうして私がこうなったのかはわからない。
それでもよかったと、心からそう思う。健人が幸せでいてくれたのならそれでよかった。
きっと私なんかが一人で育てるより、優秀な兄夫婦に育ててもらった方が幸せに暮らせたに違いない。
だからこれでよかったのだ。
☆ ☆ ☆
答えは来週です!
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