第2問
憂鬱だった。
今日も朝から父と母が言い争いをしている。
ここ最近はいつもそうだ。二人は顔を見合わされば言い合いを繰り返していた。
僕はその耳障りな音から逃れるため、テレビの音量を上げて特に興味もないニュース番組に耳を傾ける。
番組では若者の自殺が急増していることを特集していた。
「最近の若い奴はこらえ性がなさすぎる。たった一度の失敗や挫折で諦めてしまう」
いつの間にか隣にやってきた父がテレビを見ながら吐き捨てるように言う。
「お前も、大学が無理そうなら……」
「ごめん、もう学校に行かないと」
父の言葉を遮って立ち上がる。本当ならもう五分位は家にいても問題はない。しかし父の矛先がこちらに向かってきそうだったので、少し早めに家を出ることにした。
教科書やノート、体操着などの入った通学鞄をカゴに突っ込んで、自転車に跨る。
これから僕は一時間半かけて高校に向かう。バスと電車を乗り継いで学校へ行くことも出来るのだが、自宅から最寄りの駅は学校とは正反対の方向にある。だから一度バスで学校とは反対の駅に向かって、駅から電車で学校へ向かうことになる。そうすると結局乗り継ぎなどもあって時間は一時間近くかかってしまう。そして何よりもお金がかかった。
だから僕は自転車で学校に向かう。
行きはいつも決まった道を通ることにしていた。逆に帰りはその時の気分でいろんな道を行く。県で一番大きな本屋がある道。古本屋とゲームショップがある道。川の横を通る舗装されていない道。ちょっと冒険したいときは遠回りをしてまだ通ったことのない道を行くことだってある。
でも行きは学校に遅刻しないよう、一番確実な慣れた道を行く。
見慣れた風景の中を進む一時間半は退屈だ。だから僕は自転車を漕ぎながら色々なことを考える。考えたくないことも考えてしまう。
今日、一番初めに頭に浮かんできたのは父の言葉だった。「お前も、大学が無理そうなら……」この後に続く言葉はわかっている。就職しろと続けたかったのだろう。
でも僕は大学に行きたかった。
しかし先週受けた模試の結果は散々で、希望大学はE判定。だからといって僕には志望校を変えることは出来ない。
両親から僕が行くことを許されている大学は家から通うことが可能な公立大学の一校だけなのだ。もちろん浪人も駄目で、受験に失敗すれば僕は就職するしかない。
僕は今、進学校の理数科に通っている。だから就職に役立つような技術は何も持っていない。それに僕にはまだ社会人としてやっていく自信もない。
いったいどうしたらいいのだろう。
この世界は本当に不公平だ。テレビでは毎日のように男女平等やら人種や障害による差別に対する問題を取り上げている。しかし生まれながらにある格差はほとんど問題に上がられない。
僕はこの前のテスト、クラスで三番だった。きっと三十人いるクラスメイトのほとんどは進学するはずだ。僕より成績が悪い奴らもみんな大学に行けるんだ。それなのに僕は……
本当にこの世界は不公平だ。僕が悪いわけじゃない。僕の親が貧乏だから、僕は大学に行けない。
そんな僕に奨学金があるという人もいるだろう。でも父はそれすら許してはくれない。家が貧乏である一端は母が友人の連帯保証人になったからだ。そんなこともあって父は保証人とか借金が大嫌いだった。だから僕は奨学金制度を利用することもできないのだ。
小学校の頃の先生は言っていた。運命なんてものはない。この世界にはすでに決められていることなんてない。全ては自分しだいで、未来は無限に開けている。
そんなのは嘘だ。
人生のほとんどは生まれたときに決まっている。
僕の親の容姿はよくない。だから僕だって不細工だ。女の子にはもちろんモテない。
僕の親は運動神経も良くない。だから僕はどんなに努力してもプロスポーツ選手にはなれなかっただろう。
僕の親は頭も悪い。だから僕は毎日必死で勉強を続けてもこの程度なんだ。
僕の親は貧乏だ。誕生日もクリスマスも中学生になってからはプレゼントをもらっていない。小遣いも月に五百円。高校生になって三年生に上がるまでの二年間、僕はバイトをしていたがその給料も半分は家計に入れていた。
それに僕の親は僕のことを好きじゃない。僕を否定してばかりだし、僕が何か意見すれば殴ってくる。
僕の人生は本当に最悪だ。
でもそれが僕の運命だ。生まれたときからそう決まっていた。どうしようもない。
――危ない。急ブレーキをかける。目の前を車が通り過ぎた。
考えることに集中しすぎて、前を見ていなかった。
冷や汗をかきながら辺りを見回す。
交差点の信号は赤。しかもずっと真っ直ぐに進んでいて曲がるべき道を過ぎてしまっていた。
ふと思う。よく人生に失敗した人は道を間違えたという。でも僕は違った。生まれたときから間違えていた。こんな親の元に生まれてきたことが失敗だった。初めから僕の人生は詰んでいた。
今の状況から脱却するのは、自身の力だけでは難しい。特別な力の介入が必要だ。神様がいて僕に特別な力を与えてくれたり、足長おじさんみたいな大金持ちの支援でもない限り、僕はきっと幸せにはなれない。
イライラした。怒りが込み上げてくる。
でもその矛先は両親に対してではない。僕より成績が悪いのに進学出来るクラスメイトにでもないし、自分自身に向けたものでもない。
その怒りはこの世界に向けられていた。
特定の何かにではなく、全てに対して怒りが溢れていた。
それでも僕は再び自転車を漕ぐ。それしか僕に選択肢はない。ただ来た道を戻る。他に出来ることなんてない。
その時だった。視界に一際高く聳える高層マンションが飛び込んできた。
僕はその高層マンションを真下から見上げる。いったい何階くらいあるんだろう。自転車を漕ぐ足を止めて、じっと見上げていると、不思議な感覚に襲われた。まるで自分が空に向かって落ちていくような感覚。
空が僕を呼んでいるような気がした。
道の脇に自転車を止めて、鍵をかける。通学鞄はカゴに入れたまま僕はそのマンションに入っていった。
エレベーターもあったがあえて階段を使う。一段飛ばしで階段を駆け上がっていく。六階の踊り場の辺りで疲れが見え始めた。
それでも僕は一段一段確実に階段を上っていく。
八階まで辿り着いて、僕はポケットからスマホを取り出した。
高校一年の冬、バイトでためたお金で自分で買った。月々の通信料も自分で払っている。このスマホは僕の唯一の宝物だ。この小さな携帯端末に僕の全てが詰まっている。
僕は階段を進みながらスマホを操作する。
まずはゲーム。僕はゲーム専用機を持っていない。だからゲームはスマホでやっていた。今やっているのは二種類で、対戦型のカードゲームと一人用のタワーディフェンスゲーム。どちらも一年以上無課金でコツコツと毎日プレイしてきた思い入れのあるゲームだ。
それでも……
僕はその二つのゲームをスマホからアンインストールした。
次は電子書籍のアプリ。この中にはいつ読んでも笑えるギャグ漫画、何度も読み直しては涙を流した小説など、僕が今までに買ったいろいろな書籍が入っている。
それもアプリごと消去する。
そして次は受験勉強用にインストールしたいろいろな勉強用アプリ。それも削除。さらにこれからの予定も書き込んであるカレンダーのアプリ。そしてメモ帳。メモ帳の中には僕が毎日書いていた日記だってある。
それらも全部消す。
次は音楽。アプリは消さずに中の音楽だけ消していく。しかし一曲だけは残しておいた。
その曲を聴く。
海外のバンドの曲を映画用にスローテンポにアレンジしたものだ。曲名は「Good Dream」。
英語の歌詞が流れてくる。
受験勉強を頑張ってきてよかった。おかげで僕は今、この曲の歌詞を理解出来る。
「繰り返す日々。代わり映えのしない毎日。
昨日が終わって、今日が来た。
今日が終わったら、明日が来る。
ただそれの繰り返し。
読み終えた本をもう一度初めから読み直すみたいな毎日。
もううんざりだ。
マラソンは人生の縮図だって話を聞いたことがあるけど、僕の人生はゴールのない陸上用トラックをずっと周回しているようなもの。
頭がおかしくなる。気が狂いそうだ。
全部変わらない。昨日も今日も、きっと明日も。
こんなこと、あまり大きな声では言えないんだけど
とても素敵な夢を見たんだ。
それは僕が死ぬ夢。
僕がこの世界から消えて、自由になる夢。
それは幸せな夢だった。
僕にはこの世界がわからない。
僕は意味のない無駄なことだって思うのに、他のみんなはそれが当たり前だって頑張っているんだから。
おかしいのはどっちだろう。狂っているのはどっちだろう。
世界だろうか、それともやっぱり僕なんだろうか。
先生が言う。大人たちが言う。
夢を持とう。努力は美しいって。
夢は叶う。努力は報われるって。
狂ったように繰り返す。
でも僕は知っている。全部この小さな画面が教えてくれる。
きれいごとはうんざりだ。
世界は遠くどこまでも広がっているのに、見ているのは目の前の小さな画面だけ。まるでこの手のひらの中に世界の全てが在るみたいに。
この世界はもう駄目だ。生まれたときに全部決まっている。
結局、お金と運が全て。それだけだ。
こんなこと、あまり大きな声では言えないんだけど
とても素敵な夢を見たんだ。
それは僕が死ぬ夢。
僕がこの世界から消えて、自由になる夢。
それは幸せな夢だった。
僕にはこの世界がわからない。
僕は意味のない無駄なことだって思うのに、他のみんなはそれが当たり前だって頑張っているんだから。
おかしいのはどっちだろう。狂っているのはどっちだろう。
世界だろうか、それともやっぱり僕なんだろうか」
歌を聴きながら、スマホから一つ一つ消していく。
それは僕の歩んできた道程で、僕の過去。それを自らの手で捨てていく。そして軽くなった僕は更に空に向かって落ちていく。
もう十六階だ。
なぜだろう。足取りが軽い。疲れも感じないし、体が軽くなったような気がする。
そして湧き上がってくる高揚感。まるで台風で学校が休みになったときみたいにドキドキした。
メッセージアプリも消して、アドレス帳を開く。
アドレス帳から学校を消す。
以前のバイト先を消す。
親戚のお兄ちゃん。おばあちゃんの家。友達。友達。一つずつ丁寧に消していく。両親も消して、最後に家の電話を消した。
そして十八階の更に上。行き止まり。ここが頂上だった。
ドアを開くと、マンションの屋上に出られた。
屋上の真ん中で空を見上げる。大地から比べてずっと近くなった空。
空が僕を呼んでいた。
空を仰ぎながら最後に音楽を聴くアプリを消す。これでこのスマホも空っぽだ。僕が一番大切にしていた宝箱にはもう何も入っていない。
スマホをポケットにしまうと、フェンスを越えて淵に立つ。
もし生まれ変れるのなら、次は幸せになりたい。新しい人生はもっと恵まれた状態でこの世界に誕生したい。
お金持ちの家。すばらしい運動神経。かっこいい顔。美しい歌声。天才的な頭脳。絵の才能。愛してくれる両親。なんだっていい。全部でなくていい。せめて一つだけ、欲を言えば二つくらい持って始めたい。
そう願いながら僕は一歩踏み出した。
そして僕は空へと落ちていく。
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