第1問
不意に意識が覚醒した。
何もない、闇すらない無の空間に僕という意識が目覚めた。
その事実を受け入れるために、ゆっくりと重い目蓋を持ち上げる。
瞳に映るのは色褪せた、どこか儚げな空間。酷く淡い、まるで水で薄めすぎた水彩絵の具で描かれたような、ここはそんな場所。
そこで僕は独り、立ち尽くしていた。
何かがおかしい。でも何がおかしいのかはわからない。目覚めた感覚はあるのに、どうも頭がはっきりとしない。
僕はまだ夢の中にいるのかもしれない。
目をきつく閉じて、記憶を辿る。意識を過去へと巻き戻していく。ここに至る記憶。
「っ…………」
まるでそれは決壊した川のように、痛みを伴って溢れ出てくる。
頭がおかしくなりそうだ。
確かに僕の中に記憶はあった。思い出すことは出来た。
でもその記憶は一つの線でつながらない。
頭の中がぐちゃぐちゃで吐き気がする。
今度は考える。思い出すのではなく、考える。それは自分のこと。今の自分のこと。
わかる。僕が誰で、僕がどんな人生を送ってきたのかはわかる。それでも僕の記憶の中には僕以外がいる。僕でない別の誰かの記憶が僕の中に混在している。
今、僕は僕だ。
自分の手のひらを見る。確かにこれは僕の手だ。
僕は今、僕だった。
でも……昨日の僕は本当に僕だったのだろうか。明日も今のままの僕でいられるのだろうか。
確信が持てない。
だって僕の中には僕でない自身の記憶がある。
それは過去に限ったことではない。遠く未来の誰かの記憶まで僕の中にはあった。
そしてその記憶を思い出しているとき、僕はそれを誰かの体験としてではなく、自分自身で体験した記憶として思い出すことが出来るのだ。
いったい僕に何が起きているのだろう。
やっぱりここはまだ夢の中なのかもしれない。そうに決まっている。そうとしか考えられない。
目覚めるために、僕は頬を強くつねる。
「痛い……」
痛みを感じるし、目は覚めない。
そもそもこんな方法で本当に目が覚めるのだろうか。漫画とかではよくやっているが、少なくとも僕は今まで夢の中で試したことはない。だからこれで目が覚めないからといって、ここが現実であると決め付けることは出来ない。
それによくよく考えてみると、今の状況は随分と夢らしい。
僕は今までだって、この状況に似た体験をしている。
この状況は朝目覚めて夢を覚えているときに似ている。一夜に見る夢は一つとは限らない。朝目覚めたとき、いくつもの夢を覚えていることだってある。夢の中では自身が僕だとも限らない。
朝、目覚めても残る淡い記憶。つぎはぎだらけでひどく曖昧な記憶。僕でない自身の記憶。夢の記憶。
ということはだ。
僕は今、現実世界に起きているが寝ぼけていて、夢の記憶と現実の記憶がごちゃごちゃになっているのではないだろうか。
そう考えれば説明がつく。
やっと納得がいって、私は部室に向かう。
「えっ……?」
違和感に振り返る。違う。そっちじゃない。
私は自分を見る。小さな白い手のひら。ひらひらと風に揺れる制服のスカートに、白い上履き。
私……そう、私だ。
私は今、自分の所属する文芸部の部室に向かっていた。
ショートホームルームが終わって、少しクラスメイトとお話した後、私は自分の教室を出た。そして音楽室などの特別教室や部室がある別棟に向かって渡り廊下を歩いている。
走る。走る。走る。跳ぶ。
私を照らす眩しい太陽。
吹き出る汗をユニフォームで拭う。
氷いっぱいのクーラーボックスからスポーツドリンクを取り出して、豪快に飲む。
「ぷはーー」
私は再び走り出した。
青春は一直線だ。
私の新しい自転車はとてもペダルが軽い。
長い坂道も座ったままですいすいと進んでいく。
自転車はいい。心地よい風を体に感じながら、風景を楽しむ余裕だってある。
私はどこまでも広がる世界を感じながら道を行く。私はこの自転車と次の景色へと進んでいく。
私はドアを開き、文芸部の部室に入った。
まだ誰もいない。私が一番乗りだ。
イスに座って、鞄の中から小説を取り出す。小説を読みながら、他の部員が来るのを待つことにする。
その時だった。
ノイズが走る。
世界に歪みが生まれる。
だんだんとノイズが大きく、広がっていく。
私には成す術がない。
世界が終わる。この世界はもう限界なのだ。
皆は宇宙が無限に広がっていくと言う。でもそれは間違いだ。どんなものにも限界はある。
世界はいつだって有限だ。
ノイズが全てを飲み込んでいく。
世界が砂嵐の中に消えていく。
ザ、ザザー。
記憶に、意識にノイズが混じる。
気持ち悪い。吐き気がする。
意識が、記憶が混在している。
何が現実で何が記憶なのかもはっきりとしない。
夢を見ていたのか、いまだ夢の中にあるのかもわからない。
何かがおかしい。全てがおかしい。
僕は、誰だ……
そもそも自分とはなんなのだろう。
僕はずっと自分とは「僕」という一人称の指し示す先、思考する意識、心こそが自分自身なのだと確信していた。
体は器に過ぎない。それは僕自身ではなく僕の体だ。
もし漫画みたいに頭をぶつけて誰かと心が入れ替わってしまったのなら、その新しい体の方が僕だ。元々の僕の体は、僕の体であって僕自身ではない。
では僕自身である心とはなんなのだろう。
それは生まれ持ったものではない。多くの経験を経て育まれたものだ。
すなわち過去の記憶こそが心、僕自身なのだ。
僕の価値は僕の記憶の中にこそある。僕が何者であるかを定義するのは僕の記憶だ。
だから僕は本来何者でもないのかもしれない。記憶が変われば、僕も変わる。
頭をぶつけて心が入れ替わる物語。心が入れ替わった方こそが僕だと思っていた。でももしかしたら、新しい心の方も新しい僕なのかもしれない。
そうだ僕は何者でもない。僕はただ僕なのだ。僕は僕のまま誰にだってなれる。
だって僕は生まれたそのとき、記憶は空っぽで名前もなく何者でもなかったのだから。
☆ ☆ ☆
答えは来週です!
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