とある何かの物語
鈴木りんご
練習問題
ただ、空を見上げていた。
雲一つない澄んだ天井の青。それを穿つ太陽の白い輝き。
その中に一つだけ異物が見えた。鳥だ。翼を大きく広げてはばたきもせず、風の流れに身を任せ空を行くその姿に見惚れていた。
羨ましいと思った。俺にはそれが出来なかった。信じ続けることが出来なかった。
一度産声を上げた疑念を消し去ることは難しい。その呪いにも似た想いは、いたるところから養分を探し出し、ひとりでに成長を続けていく。
俺は疑ってしまったのだ。愛する母国の掲げる正義を……
それでもここは戦場だ。生き残るには戦わなければならない。自分の行いに正義の確証がないままでも、銃口を向けられたのなら撃ち返すしかない。ただ生きるために。
空を見上げたまま目を瞑る。
目蓋越しにも光を強く感じた。尻の下にある砂利交じりの大地も、背に当たる半壊した壁も、目には見えなくとも確かに感じることが出来た。そして手には突撃銃。
単発の銃声と共に背に響く衝撃。
驚くことではない。この壁の向こうに敵兵がいることはわかっていた。向こうも俺がいることがわかっているのだろう。時折、今みたいに早く姿を見せろと、壁越しに撃ってくる。
俺は目を開き、ゆっくりと息を吐いた。
覚悟を決めるしかない。殺るか殺られるか、そのどちらかだ。俺には帰りたい場所がある。だから死ぬわけにはいかない。今はただその想いを理由に引き金を引くことにしよう。
そう心を決めると、頭の中に家族の姿が浮かんできた。俺はそれを激しく首を振って掻き消す。
「それは駄目だ……これは俺の罪だ。俺の望みだ」
家族のために……そんな甘言で罪の処遇を曖昧にすることは許されない。自国の掲げる正義を信じられない今、俺は俺の意思で引き金を引かなくてはならない。
誰かのためではなく、信じる正義のためでもない。ただ自分が生きるためだけに人を殺す。それが真実だ。だからそれでいい。
ではそろそろ始めよう。
腰を落した姿勢で高く積み上げられた瓦礫の山を、立ち上がれば壁の上から銃を構えることが出来る所まで上る。
そしていつでも壁の上から攻撃出来るように半身に構えながら、足元にあった小石を壁の端に向かって投げる。
ちょうど壁の端のところに小石は落下して、パチッと音を立てた。
その瞬間、俺は静かに立ち上がって壁の上から銃を構える。視界に捕らえた敵兵の姿に疑念はさらに色濃くなった。銃を構えながら小石の音がした方に視線を向けるその敵兵は、十五歳になったばかりの俺の弟よりもさらに幼く見えた。
それでもだ。
引き金を絞る。そのとき一瞬、少年兵と目が合った気がした。しかしすぐにその少年兵は血飛沫を撒き散らしながら大地に倒れる。
敵兵の死を確信して、俺はまたすぐに壁の下へと姿を隠した。
今度は先ほどより遠くから響く銃声。そして壁により強い衝撃。
狙撃手だ。しかし銃声から考えるとそれほど遠くからでもない。さらに壁に当てたということは精度もたいしたことはなさそうだ。
しかしそれも当然だ。だって俺が戦って、殺している相手のほとんどはまだ年端も行かない子供達なのだから。
「くそっ……」
つぶやきながら、俺はもといた場所に戻ると壁を背に腰を下ろす。
ゆっくりと息を吐きながら、また空を見上げた。
そのとき、パチッと砂利を踏む音がした。
俺が音のした方に目を向けると、そこには銃を構える敵兵の姿。やはりまだ若い少年だ。
どうやら俺はここまでのようだ。どうせ死ぬのならあの少年を殺す必要はなかった。殺したばかりの少年を思い出しながら俺は目を瞑った。
またパチッという小さな音。響く銃声と顔の肌に感じる熱くべたついた血液。そして人が崩れ落ちる、鈍い音。
俺は顔にへばりついた血液を拭いながら、恐る恐る目を開いた。
まず視界に現れたのは拭った血液で真っ赤に染まった自分の手。痛みはない。
「俺は? 生きているのか……」
足下には血溜まりの上に横たわる少年の姿があった。
「大丈夫か?」
そう言いながら駆け寄ってきたのは、俺の所属する第三分隊の分隊長ノグレー中尉だった。
「中尉。すいません。助かりました」
立ち上がりながら礼を言う。
「いや、一人でよく耐えた」
「ありがとうございます」
「先には進めそうか?」
「無理です。向かいの建物にスナイパーがいて、この壁から出ると狙撃されます」
中尉は壁越しに、半壊した建物を見上げる。
「スナイパーの正確な位置はわかっているのか?」
「いえ、正確な位置までは……」
「そうか。では、少しここで足止めだな」
中尉はそう言うと俺の横に来て、腰を落した。
俺も座って目の前にある血溜りを見つめる。
「どうして、自分たちは戦っているんですか?」
ずっと頭の中で繰り返していた疑問が口から溢れ出した。
中尉は何も答えてはくれず、タバコを取り出して火をつける。
「自分は理不尽な脅威から、大切な人を守りたくて軍に入りました」
一度決壊した言葉はもう止められない。
「それなのに今、自分はここに来るまで、名前も知らなかったような国で戦っています。自分はこの国の内戦の理由を知りません。互いの掲げる正義も、何を主張し合っているのかも知りません」
ふと、殺した少年の姿が脳裏によぎる。
「どうして……自分は戦っているんですか?」
独り言でも言うように、空を眺めながらつぶやく。
中尉はタバコを口から離し、ため息のように煙を吐き出した。
「知る必要などない」
一言、そう言ってから中尉はタバコを地面の上に捨てると、足でねじり潰す。
「そんなこと、考える必要はない。我々は命令通りに動けばいい。俺達よりずっと賢い連中が導き出した答えだ。それに従えばいい。そうすれば世界は、きっと今よりましになる。俺達はただの駒だ。考える必要はない」
そこまで言うと中尉は空を見上げて、最後に一言つぶやくように「ただ……信じればいいのさ」と付け加えた。
「そう努力はしました。それでも考えてしまうんです。もう自分は今まで信じていた正義が何だったのかすら思い出せません」
「お前は大切な人を守りたいと言ったな」
「はい……」
「今日、お前と一緒に戦って死んでいった仲間たち。彼らはお前にとってどうでもいい存在だったのか?」
「そ、そんなことはありません」
思い出す……
人種も年齢も信仰する神も違う寄せ集めの集団だった。最初の頃は色々あった。それでも一緒に厳しい訓練を重ね、寝食を共にするうちに仲間になっていった。
そして今日、その多くが死んだ。囮になって一人飛び出した者がいた。負傷した仲間を救い出そうとして狙撃された者がいた。仲間を爆発から守るために手榴弾に自ら覆いかぶさった者がいた。
そうだ。俺には大切な仲間たちがいた。戦場で一人きりになって、いつのまにか一人で戦っていたみたいに錯覚していた。
俺は勝たなければならない。そのために命をかけた仲間たちの死を無為にしないために戦い続けなければならない。正しさなんて関係ない。ただ仲間を信じるだけでよかったのだ。
「もう大丈夫そうだな」
そう言って中尉は笑みを浮かべた。
「どうだ? お前も吸うか?」
「いただきます」
差し出されたタバコを受け取ろうとしたとき、中尉の無線機に連絡が入る。
中尉は無線に出ると、ハイ、ハイと返事を繰り返した。そして「了解しました。最善を尽くします」と言って無線を切る。
「本陣が受けていた奇襲は何とか食い止めたらしい。本陣は今、左翼で攻撃中だが手詰まりなので、俺たちに右翼を少しかき回して欲しいとのことだ」
「本気ですか? こっちはたった二人ですよ?」
「そうだな……それでもやるしかない」
そう言って、少尉はゆっくりと立ち上がる。
「向かいの建物まではそれほど距離はない。俺が突っ込むから、お前は援護をしてくれ」
「いいえ、自分が先行します」
「駄目だ。これは命令だ。お前は俺を信じて援護をしろ」
「……わかりました」
それから数分後。俺はまた瓦礫の上にいた。
ほんの少し近づいた空に鳥が見える。先ほどの鳥と同じ鳥だろうか。戦場を上空から見下ろして、あの鳥はどんなことを思っているのだろう。
そんなことを考えながら俺は中尉の方に視線を向けた。
中尉は壁の端で銃を構えながらこちらに向かってグッドサインを出す。
それを受けて俺は手に持った木の棒に自分のヘルメットを被せたものを軽く上下に動かしてみてから、グッドサインを返す。
大きく頷く中尉。
俺は慎重に棒を持ち上げて壁の上にヘルメットを出す。
響く銃声。
しかしヘルメットに衝撃はない。きっとまた外したのだろう。
俺はヘルメットを壁の下へと引込めながら、中尉の方を見た。中尉は銃を構えて壁から出て行く。そのとき中尉の足下で砂利の音がパチッとなった気がした。
そして銃声と人が倒れるような鈍い音。
中尉の姿を確認するために銃を構え、壁の上に顔を出す。
そこには血を流して膝を突く中尉の姿。
再び響く銃声と頭から血を撒き散らし崩れ落ちる中尉。
「くっそおぉぉぉーーーー!」
敵の赤い血液と怒りを纏い、壁の上に片足を置いて立ち上がる。またパチッと音がした。
向かいの建物の二階のボロボロの窓に何かが見えた。
躊躇わず撃つ。それほど距離はない。狙撃用でなくともこの距離ならきっと届く。
弾倉が枯れた。
それでもまだ足りない。溢れる怒りに身を任せて手榴弾も投げつける。
大きな爆発と共にこちらまで届いた爆風が溢れる怒りをも吹き飛ばす。そして残ったのは大きな喪失感と悲しみ。
倒れた中尉の方を見る。そこには溢れた血液で大きな血溜りが出来ていた。
「くそ……」
空を見上げる。もう……鳥の姿はなかった。
――それから数時間後。
C‐4の爆発で目の前にあった壁が崩れる。
聞きなれたパチッという音。爆風で舞う粉塵の中、横にいた仲間が銃弾を受けて倒れる。
他の仲間たちが物陰に身を隠す中、俺は一歩前に出る。壁の欠片を踏んでまたパチッと音が鳴った。
俺は視界が利かないのも気にせず、前方に向かって銃を乱射する。
敵の銃撃が止み、粉塵も徐々に晴れてくる。
俺の構える銃口の先には敵の王。
「これで詰みだ……」
そう言って俺が引き金を引こうとしたとき、王は叫んだ。
「まだだ!」
パチッという瓦礫を踏む音と共に王を守るため現れた敵兵の姿に、俺は目を疑った。
「どうして……」
返事はない。
「どうしてあなたが……」
そこにいたのは死んだはずのノグレー中尉だった。
意味がわからない。
それでもだ。俺には戦う理由があった。
思い出す。それは中尉の言葉。「ただ……信じればいい」そう言ってくれた。
崩れた天井の隙間から空が見える。空には鳥がいた。あの鳥は鷹だ。この地域では神の使いとして神聖な存在らしい。戦いが始まると空に現れ、神の眼となって戦いを見守ると言われている。そう少し前に仲間になった少年兵が教えてくれた。
もう迷いはない。ただ信じるだけでいい。
銃口を中尉に向ける。一歩前に出る。パチッという音と共に引き金を引く。
銃弾を受けても中尉は倒れない。
だから撃つ、撃つ、撃つ。
「うおぉぉーーー」
弾倉の限りを打ち尽くすと、遂に中尉は崩れ落ちた。そしてその後ろから王がこちらに銃口を向けていた。
振り返る。
そこには仲間がいた。三人の仲間。お調子者の同期、ハイク。厳格な指揮官のタラ大尉。そして家族を殺した王に復讐するため、こちらに寝返った少年兵のマルシェ。
「後は任せた……」
つぶやいて、王を見据える。
俺はここで死ぬのだろう。
それでも悔いはなかった。俺は仲間を信じている。俺の死を糧に仲間は勝利を収め、世界をより良い未来へと導いてくれる。
そう心から確信している。今の俺はあの鷹と同じだ。流れに身を任せている。諦めているのではない。ただ……信じているのだ。
パチッいう音共に王が銃弾を放つ。衝撃と熱。
俺は倒れた。薄れる視界の中で、マルシェが叫びながら王を撃つ。
これでいい。世界は正しい道へと歩み、少年は復讐を果たした。
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