1・侍女見習い・イライザ
「――見てみて,ポール兄さん!わたし,お城で
春のある日,わたし――イライザ・バルディは,ご近所のルーザー家の玄関ドアを
ポール兄さんはわたしの九つ
「そうか!よかったなあ,イライザ。頑張れ」
「うん!」
わたしが手渡した通知の手紙に目を通したポール兄さんが,一緒に喜んでくれた。
兄さんは
「何か困ったことがあったら,オレに相談しろよ。オレが守ってやるから」
「うん!ありがとう,兄さん!」
正直,わたし一人でお城で働くのは心細いと思っていたから,ポール兄さんもついていてくれるなら安心だ。
実はウチの両親がわたしのお城
この国の法律では,十八歳からが成人
レーセル城でのお勤めは,わたしの幼い頃からの
しかも,リディア皇帝の時代から後には,女官になるための身分の制限が
かつては中級以上の貴族の娘に限定されていたのが,今ではありがたいことに労働階級でも,わたしみたいな下級貴族でも,試験にさえ受かれば女官としてお勤めができる。
……まあこれは,わたしの愛読書『レーセル帝国の歴史』の中に書かれていることだけれど。
「――そういえばイライザ,城に
「うん,まあ一応は。試験の時,お城の設備の問題にも出ていたし,歴史書にも出てくるからね。でも,イヴァン
"後宮"とは,皇后陛下以外の皇帝の妻や側室の住まいとなっている場所のことだ。
でも,イヴァン陛下はすごい
その後,リディア陛下が皇室を含むすべての一夫多妻を廃止されたから,後宮という場所は今となってはお城に"ある"というだけの場所と
「でも,ポール兄さん。どうしていきなり後宮の話なんか?」
「うん……。実はな,今の皇帝陛下とアン皇后さまとの間には,お子様ができないらしいんだ。それでな,近々『側室をお迎えになるんじゃないか』って,城中のもっぱらの
リディア陛下がそうだったように,この国では女子でも
「それって,アン様にお子様ができないから,他の女性を側室に迎えてお
「オレに怒ってどうする。――まあ,アン様は病弱なお方だし,子供ができにくい体質ってこともあるだろうし。陛下の体質には何の問題もなかったらしいからな」
「えっ,そうなの?それじゃあ,数百年ぶりに後宮が使われるってことね」
数百年ぶりに迎えられる側室はどんな女性で,どんな風に陛下からのご
「ねえ,ポール兄さんは陛下にお目にかかったことあるの?」
現在の皇帝陛下は,あまり人前に姿をお見せにならないことで有名だ。わたしも,今までに一度もお目にかかったことがない。
でも,さすがにお城に仕えている兄さんなら,一度くらいはチラッとでも見かけたことくらいあるはず。……だけど。
「実はオレも,一度も実際にお目にかかったことはないんだ。だが,色々と噂は聞いてるぞ。
「へえ……」
「あ,あとな,普段からあんまりお城に居つかないとか」
「……はあ?」
最後に兄さんが言ったことの意味が
「何でも,よく城を抜け出しては,お
"レムル"とはこの国の
「……はあ。でも,皇帝陛下がそんな自由人で,この国は大丈夫なの?」
「まあ,大丈夫だろう。大臣がしっかり者だからな。陛下が外を出歩けるほど,この国が平和になったと思えば」
「……そうかもね」
兄さんみたいに前向きに考えれば安心かも。猫だって,
要するに,陛下の
「――それじゃ,オレはそろそろ宿舎に戻らないと。明日も朝から仕事だからな」
「えっ,もうそんな時間?……あ,ホントだ」
「イライザが正式に城で働くのは,確か来週からだったな?」
「うん,そうよ。来週の初めに任命式があるの」
お城の
「じゃ,しっかりやれ。何かあれば,オレが助けるよ」
「うん。じゃあまた,お城でね」
ということは,ポール兄さんにはこの先しばらく,非番の日がないってことか。
しばらく会えないのは
――それにしても。
「皇帝陛下って,どんな方なのかしら?」
兄さんが宿舎に戻って行ってから,わたしは
ポール兄さんの話を聞いた限り,陛下の人物像は
わたしも,お名前くらいは知っている。レオナルド・エルヴァ―ト陛下。わたしが歴史上で
わたしも含めて純粋なレーセル人は青い瞳をしているから,珍しい茶色の瞳で見つめられたら,たちまちその
「わたしもお城でバッタリ出くわしたら,恋に落ちたりしちゃうのかな……」
わたしはこの年齢まで,"恋"というものを経験したことが一度もない。ポール兄さんのことはもちろん大好きだけれど,それは"恋"とは全く別の感情だ。
ドキドキはしなくて,一緒にいるとホッとする。元々武術に
もしもわたしの初恋の相手が,レオナルド陛下だったらどうしよう?それでもって,側室にわたしが選ばれてしまったら……?
側室の務めは,お世継ぎを
「……ってことは,わたしの"初めて"は陛下とかもしれないの!?どうしよう……?」
わたしはまだ起きてもいないことにうろたえたり,照れたりして忙しかった。――もちろんこれは全部,わたしの
「ううん!まずは,お仕事に集中しなくっちゃ。せっかく憧れの職に
わたしは頭をブンブン振って,とりあえず妄想を振り払った。
まだ成人になっていないのに,(ポール兄さんのおかげとはいえ)お父さんとお母さんからやっとお許しが出たんだ もの。まだしてもいない恋にうつつを抜かしている場合じゃない!
下級貴族の娘だからって,バカにされないように。お父さん達の
****
――気持ちを切り
「イライザ・バルディ。本日をもって,正式にあなたを,レーセル城所属の侍女見習いに任命致します。
女官長のナタリア・エトルリア様から任命状を受け取ったわたしは,
「はい。精一杯
子供の頃からの夢が
でもこの後,もっと嬉しいことが……。
「
「これは……,皇后さま!女官長として,
ナタリア様でさえ敬意を払う,この女性が……皇后さま!?
「初めまして,の者もいるかしら。わたくしは皇帝レオナルド陛下の妃,アン・ルイーズです。『皇后さま』と呼ばれるのはあまり好きではないので,気軽に『アン様』と呼んで下さいね」
アン様はお美しい
ポール兄さんの話では,陛下との間にまだお子様ができないらしい。けれど,アン様は充分にお幸せそうに見える。きっと,陛下から大事にされているんだろうなと,見るだけで分かる。
「はっ,初めまして!わたしはイライザ・バルディと申します。アン様,これから,誠心誠意お仕え致します!」
アン様に元気いっぱいご
「イライザね。よろしく。あなたの元気は,皆を明るくしそうですね」
アン様は笑顔でそう
「はいっ!」
それだけで,わたしは
任命式の後,わたし達はお互いの
この春お城に上がった女官見習いは,わたしを含めて全部で
「――イライザ,だったわよね?これからよろしく」
解散後,わたしと同じお部屋係になった,アリサ・バンシェールが気さくに声をかけてくれた。彼女もわたしと同じで,今年で十七歳になる。
「ええ,アリサ。こちらこそよろしく。一緒に
わたしも,笑顔でアリサに
「ええ。頑張りましょう」
彼女とは,いいお友達になれそうな気がした。
****
――お城で働き始めてから,数日後。
「ねえアリサ。陛下にお会いしたことある?」
わたしはアン様のお部屋の窓を
彼女は中級貴族の家柄の出身だけれど,気さくで優しい子だ。宿舎でもわたしと同室である。
「う~ん,ないわね。あたしも,どんな方なのか一度お目にかかりたいんだけど」
「そう……。わたしもなの」
ポール兄さんの話では,陛下は普段,城内ではめったに人前に姿を現さないらしい。だから,城の侍従でも陛下のご
それなら余計に,どんな方なのか知りたくなる。
「でも,アン様のご様子を見てたら,
わたしはうっとりと目を細める。だって,アン様はいつお会いしても,とてもお幸せそうだから。
「そうね。だからこそ,陛下が側室をお迎えになることを誰よりもお望みなのよ,アン様は」
「えっ?」
アリサのもたらした思わぬ情報に,わたしは勢いよく彼女を振り返った。一本の三つ編みにした長い金髪が,ブンッと風を切る。
「あら,知らなかった?陛下に側室を迎えることを提案なさったのは,他でもないアン様なのよ」
「そうなの?わたし,知らなかった」
さすがはアリサ。この城イチの情報通だ。
「アン様は,ご自分が子供を産めないことに責任を感じてらっしゃるのよ。で,他の女性に頼ってでも,陛下にお世継ぎを残して差し上げたいんだわ」
「はあ……,なるほど。それだけアン様の愛は深いってことね」
もちろん陛下に対してもそうだけれど,この国への愛もだ。
「そうなると,側室になる女性は責任重大ね」
お城に上がるまではわたしもそうなるかも……と妄想していたくせに,何だか自分とは縁のないことのように言うと,アリサに
「あんたねえ……。他人事みたいに言っているけど,その相手があんたになる可能性だってあるんだからね?」
「……へっ?ないわよ,わたしは!こんな平凡な下級貴族の娘を,陛下が
「そこまでムキにならなくても……。あら」
アリサがわたしの腕を
「イライザにアリサ。二人とも,いつもご苦労さま」
「あっ,アン様!もったいないお言葉です」
朗らかな笑顔の皇后アン様が,わたし達の仕事をわざわざ
「二人とも,頭をお上げなさい。わたくしは,あなた方にいつもとても感謝しているのよ。ありがとう」
この方が
他でもない皇后アン様からの
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