近所の牛飼いの話が羨ましすぎて真似してみたら楊貴妃の代わりに張飛が来た件。

吉野川泥舟

第1話

 これは南宋の乾道年間に民間で行われていた話を採録したものである。


 江陵からやや離れた一村落に、一人の若者が住んでいた。姓も名も詳らかではないが、長男だったので大郎だいろうと呼ばれていた。大郎は大変真面目な青年で、朝は早く起きて両親の食事の支度をし、それがすめば畑仕事で一日中汗を流した。夕暮れになると牛を牽いて帰宅し、朝と同じように両親の世話にあたる。自分のことは全て後回しにして孝養を尽くしたので、近隣で大郎のことを悪く言う者は誰もなく、こぞってその朴訥な人柄を褒め称えていた。


 大郎にぜひ自分の娘を、と望む声も多くあったが、大郎は両親の世話を理由にして首を縦に振ることはなかった。早く結婚して子をもうけることこそが孝養第一とわかってはいるものの、大郎にはどうしても忘れられない出来事があり、それが原因となって未だ結婚に踏み切れていないのだった。



 話は少し遡る。

 ある日のこと、大郎はいつも通り畑仕事を終え、牛の首をさすりながら、夕暮れに染まるあぜ道を歩んでいた。大郎の頭にあるのは常に作物のことだった。このまま耕作に精を出せば、今年は例年以上の収穫を得られるに違いないと、ますます気持ちを引き締めていたのである。


 大郎の牛は阿三という名だが、その阿三が突然歩みを止めて、鼻を小さく鳴らした。大郎が促してもまるで動こうとしない。不審に思った大郎があぜを検分してみると、そこには野ざらしになった骸骨が一つ転がっていた。


 大郎は骸骨を見たとたん、憐憫の情が胸中に湧き起こり、激しい悲しみに襲われた。すぐさま跪いて骸骨を手に取ると、阿三をその場に置いたまま、近くにあった廟に向かった。


 廟は民間で広く信仰されている「九天玄女娘娘」を祀ったものだったが、大郎はそのすぐ側に穴を掘って埋葬してやった。土をかけてしばらく祈りを捧げ、再びあぜ道に帰ってくると、阿三がつぶらな瞳で大郎を見つめていた。


 大郎は家に帰り、阿三の体を丁寧に磨き上げ、それがすむとすぐに食事の用意を始めた。今夜は少しだけ贅沢をして、数種類の穀物と鶏肉を煮込んだ羹を作った。両親の好物なのである。食卓を囲んだ団欒が終わり、後片付けをして、明日の農作業の準備まですませた大郎は、両親にお辞儀をすると、自分の部屋としてあてがわれている離れへとさがった。


 寝具を敷き延べた大郎は、習慣になっている晩酌を始めた。大郎は決して大酒飲みというわけではない。農作業で得られる収入を節約しながら生活費に充てている彼にとって、酒はほんの少しだけ舐めて雰囲気を楽しむようなものだったのである。


 上気した頬をやや持て余し、酔眼で揺れる燭を眺めていた大郎の耳に、自室の扉を叩く音が小さく聞こえた。不審に思った大郎は、ゆっくり立ち上がると、やや警戒する面持ちで玄関に向かった。田舎の一農村で慎ましい生活を送る大郎には、夜中に訪ねてくるような知り合いはいない。もちろん友人たちは大勢いるが、皆大郎と同じように農作業に精を出しているのだ。日が沈んでから友人宅を訪問することなど、豊作を喜ぶ祭りの夜くらいなもの、大郎が不思議に思うのも無理はない。


 大郎は扉に向かって誰何した。すると、


「妃(fei)です」


 甘みを含んだその声に、大郎は頭がぼうっとなって咄嗟に何の返事もすることができない。例えるならば、仙女の掌で転がす白玉が、微かに触れ合ったときにでも立てそうな音色とでも言おうか。湿り気を帯びて絡みつくようなその声音は、たった一言耳にしただけで、大郎の魂を瞬く間に九天の彼方へと連れ去ってしまったのである。


 腰を抜かしかけた大郎は、脈打つ心臓の鼓動を持て余しながらも、ようやく訊ね返すことができた。


「妃……でしょうか」


「はい。わたくしは楊貴妃(yang gui fei)と申す粗忽者にございます。かつて玄宗皇帝の御代、わたくしはその恩寵を一身に受け、天上の悦びもかくやと言わんばかりの日々を過ごしておりました。しかしながら、素晴らしいときは永遠に続くことはなく、安禄山が反乱を起こし、唐王朝は滅亡の危機に瀕したのです。わたくしは玄宗皇帝に伴われて長安を去り、遥か蜀の地を目指して逃避行を続けておりましたが、国を傾けた悪女と後ろ指を指され、馬嵬の地で死を賜ったのでございます。それから幾星霜、わたくしの亡骸は誰にも弔って頂けず、風雨になぶられるまま、あのような浅ましい姿をずっと晒しておりました。しかしながら、これぞまさに天のお導きとでも申しましょうか、徳高い貴方さまに巡り会えまして、手厚く葬って頂くことが叶いました。この楊貴妃、これほど感動したことは他にございません。貴方さまに何かお礼をと愚考致しましたが、取るに足らない女の身、なんの持ち合わせもないことをただ恥じ入るばかりでございます。そこで大変失礼かとは存じますが、今夜一晩、貴方さまのお側に侍らせて頂きまして、その無聊を少しでもお慰めできればと参上致したのでございます」


 その声に誘われるまま扉を開けると、そこには粉黛も鮮やかな美女が佇み、豊満な肢体をくねらせながら、大郎に秋波を送っているではないか。


 その有様はと言えば、


 豊かに盛られた黒髪は、夜空を流れる天の河。

 眉はくっきり鮮やかに、なだらかな半円を描くよう。

 目元の紅は伸びやかに、きらめく双眸を際立たせる。

 薄く刷かれた頬紅は、彼女の貞淑さを物語るよう。

 白玉のような肌はきめ細かく滑らかに、触れることさえためらわれてしまう。

 つやを帯びた唇は、天上の甘露を滴らせたかと見まがうばかり。

 しっとり濡れそぼって、もの言いたげな含みを帯びる。

 はち切れんばかりの胸元に、ほっそりしなやかな腰回り。

 玉脂を延べた太ももに、象牙細工のふくらはぎ。

 首をかしげて微笑めば、両の胸がわずかに揺れる。

 ひと揺れすれば城を傾け、ふた揺れすれば国を傾ける。

 これぞこれ傾城傾国の美女、貴妃を賜りし楊玉環の容色に並び立つ者は古今になし。


 楊貴妃は艶やかな微笑みをこぼすと、立ちつくす大郎の手を取って、彼の部屋へ音もなくその身を滑り込ませた。大郎はまるで魂を抜かれたかのよう、黙って貴妃がするのに任せるほかない。貴妃は白蝋のような指を大郎の手に絡めたまま、彼の薄い布団の上に小さく座った。そして大郎の太ももに指を這わせ、まるで甘えるかのように、そしてじらすかのように、その耳にそっと息を吹きかけた。


 大郎の鼻腔を女特有の甘い香りがくすぐった。しかし彼はまだ女を知らない。ここからいったいどうすればいいのか、それはまさに雲をつかむような話だった。ただ幸いだったのは、彼も年若い青年、寝苦しい夜に輾転反側することもしばしばあり、男女のことについて興味が尽きないことだった。


 やがて大郎は体が熱くほてるのを感じた。緊張で心臓を吐き出してしまいそうだったが、情熱の方がそれに勝っていた。


 大郎はそっと楊貴妃に顔を向けた。吸い込まれそうな漆黒の瞳、柔らかく微笑みを浮かべた唇。貴妃は大郎を見詰めたまま、右手でその頬を撫で、左手で太ももの付け根をさすった。大郎はまるで稲妻に貫かれたかのような感覚に襲われ、思わず背中を反らしてしまう。


「大丈夫ですのよ。貴方さま、全てこの貴妃に委ねて下さいな。さあ、もう少し力をお抜きになって」


 つやを帯びた唇が眼前に迫った。大郎の目は貴妃の唇に吸い付けられたが、しかし緊張のあまりつい目を閉じてしまった。暗闇の中、大郎は自分の唇に暖かな弾力をしたたかに感じた。たちまち火花が頭の中で炸裂する。やがて歯の隙間を器用に縫って、ぬめりを帯びた舌先が滑り込んできた。


 夢中で舌を絡めていると、大郎の胸板に柔らかく大きなものが押し当てられた。大郎は指の先まで痺れるような快感に襲われていた。やがて大郎の着物が、優しく、ゆっくりと剥ぎ取られ、貴妃の冷たい両の手が、大郎の熱く燃え滾る熱情を愛おしそうに包み込んだ。

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