*9* 幌馬車に乗って。


 両脇の下から身体が持ち上がる懐かしい感覚。一瞬父が抱き上げてくれた幼い頃の夢だと思った。けれどそれにしては眼下に広がるのは長閑な田園風景で、すぐに前世の夢だと理解する。


 けれど久々に空を飛ぶ感覚は気分が良くて、つい自分が何の鳥であったのかということが頭の中からすっぽりと抜け落ちていた。悠々と飛ぶ空には下界で人間とはまた違った苦労がたくさんあったのだけれど、それでも邪魔なドレスを纏うよりも軽やかな羽毛が心地よくて。


 夢ならばもっとスラッとした種族の鳥なら良かったのにと思いはしたものの、それでも足が地面から離れる感覚というのはとても魅力がある。足が地につく生き物では食べられる家禽や家畜でなければいい。


 ああ、でも……軍馬も嫌だわ。一度だけ野生馬に転生して運悪く捕まった時は、それはもう恐ろしい目にあったものね。そう思えば没落貴族とはいえ、平和な時代に生まれ変われて良かったと思わなければならないのかしら?


 ゆっくりと風を両の翼で捉えながら、グッと高度を引き上げようとしたその時、視界の端で何かが光った。それ・・は湖や川の見せる輝きでも、窓や屋根が見せる輝きでもない。どちらかといえば鉄製の風見鶏が近いかな……と思い至った瞬間、ヒュッとお腹の底から冷たいものがせり上がるような気がした。


 これは夢。前世の夢よ。今世の私は没落していても貴族の娘で、今は眠っているだけだから、これから起こることは全部過去の出来事なの。だからもう覚悟は……あ、でも待って駄目、やっぱり無理……!!


「~~~~っ!?」


 直後にもうない翼に焼けるような痛みを感じ、飛翔感から一転、真っ逆さまに落ちる感覚に悲鳴もなく飛び起きた。汗で張り付いた夜着が夢見と相まって一層不快で、着替えたところでもう一度ベッドに戻る気にはなれないからと窓辺の椅子に腰かける。


「……最近あの口が上手い悪徳商人のお陰で、鳥と多く言葉を交わすからこんな夢を見たのねきっと」


 そんな風にポツリと漏らした独り言でも、結論が出れば怖くない。窓を開けて夏の生命力に満ちた空気を胸いっぱいに吸い込む。緑と土の香りは自分が地上の生き物だと強く認識させてくれた。



『まぁ、何だ……これからもよろしくな、相棒?』



 あのお茶会から一ヶ月が経ち、少しずつだけれど危ない内容の情報を小出しに使って仕事をし始めた。今日はその情報で得た成果とやらを見せてくれると、彼のお家に仕事のことで呼ばれているから、気分が高揚しているのかもしれない。


 彼との出逢い方は本当に最低だったのに、アデラ以外では初めて出来た人間の友人になるのかしらと思うと何だかおかしくて。フッと吐いた溜息は胸の中にあった澱みを少しだけ楽にしてくれた。


 ――――それから七時間後の朝、十時頃。


 数日前に届いた手紙の通り、ノイマン様ご本人が迎えに来て下さったことは良かったのだけれど……屋敷の前に到着した馬車は、まさかの商人達が仕入れの旅に使用するような小型の幌馬車で。


 御者席に乗っていた平民の格好をしたノイマン様を見た時の父や、屋敷の使用人達の顔ったらなかったわ。……勿論、何も知らなかった私とアデラも驚いたけれど。彼曰くノイマン商会とキルヒアイス家の繋がりがあることは、あまり社交界的に良くないとのことで、良くない噂が立たないようにとの気遣いらしい。


 それに地味な見た目とは裏腹に幌の中はとても快適な座席がついていて、乗り心地は最高だった。


 でも一つだけ残念なのは、アデラが一緒に来られなかったことだろう。彼曰く今日訪ねるノイマン家には私の素姓を明かしていないので、そんな状況で身の回りの世話を焼いてくれる人間がいては、怪しまれるとのことだった。


 かくして心配してくれる父と、使用人の皆、それと低い声で「お嬢様に何か良からぬ行いをしようものなら……潰しますわぁ」と、ノイマン様に凄むアデラに見送られて屋敷を出発したのだ。



***



 三時間ほど二人だけの幌馬車旅は続き、その間に次回欲しい情報のことや、お互いの婚約者候補探しの近況、他愛もない日常の過ごし方などの話をしながら過ごす時間は、思ったよりも有意義で。


 途中からはほぼ人気のない旧街道沿いに出たので、幌の中から彼の背中に声をかけることが面倒になっていたこともあり、農家の奥さんが使うような幅広な麦わら帽子をかぶって御者席に座った。


 すると彼は「同じ物をかぶってても、美人は得だな」とからかうように笑い、私も「あら、働く女性はみんな綺麗よ」と領地の人々を思い出して答える。そこからは次の流行りは働く女性の仕事着をお洒落にして、お仕着せの量産に乗り出してみてはどうかという話に膨らんだ。


 私がお茶会や夜会に行くときに張り切るのは少しでも見目を良くしておけば、無表情で没落貴族の自分を高く見せるためだけど……可愛いものや綺麗なものを身に纏って働くことは、きっと意欲向上に繋がるはずよね? 


 そんな長閑な幌馬車旅も街が近付いてくると終わりを迎え、多少名残惜しく感じたものの彼の気遣いを無碍には出来ず、街に入る前に御者席から幌の中へと移動した。土だった道が石畳の舗装された街中になると、馬車の振動はマシになる。


 それでもあの突き上げる感覚も嫌いではないし、普通の馬車と違って窓がない幌馬車では、街のガヤガヤとした喧騒は聞こえても全貌を見ることが叶わなくてつまらないわ……。


 けれどそんな私の不満に気付いたのか、御者席に座って背を向けたままの彼が「そうむくれるな。目的地にはもう到着する」と、どこか歳下の弟妹にでも言い含めるように告げる。そしてその言葉通り、程なくして馬車が止まった。


 御者席から店の従業員に声をかけた彼が降り、馬車の後ろに回って幌を持ち上げて「もう降りても大丈夫だ」と言い、降りるための補助として手を差し伸べてくれる。出逢ったばかりの頃であれば拒んでいただろう手を借り、まだ揺れているように感じる地面に降りた。


 よろけないように気をつけながら周囲を見回すと、ここはどうやら商会の裏手にある倉庫の一つらしい。毎日大量に荷馬車で運び込まれてくる商品を搬入する従業員で賑わっていた。


 忙しく動き回る彼等の邪魔にならないように、端によって「本日はお招き頂きありがとう」と礼を述べれば、彼は苦笑して「そういう堅苦しい挨拶はなしだ。今日はリサ・・のくれた情報を元にうちがどんな商売をしてるのか、しっかり見ていってくれ」と言ってくれる。


 様々な生き物に転生してきたというのに、対等な友人関係というものは知らない。けれどそれでも彼がそう振る舞おうとしてくれることがくすぐったくて、嬉しかった。


「この箱に貼ってあるラベルから察するに……これはワインかしら?」


「ああ。お前が葡萄の当たりが出たと言っていた農地のものだな。安くもないのに飛ぶように売れてる。ただ質を極めたいからと農地を広げたがらないので提供数が少ない。今うちが資金を用立てるから、人手を増やして農地を広げてみないかと持ちかけているところだ」


「あ……待ってヴィル。この絹織物はどこの土地の模様かしら? 織っている糸は派手ではないのに、独特な色使いで華やかに見えるわ」


「それは他大陸の少数民族が織っている伝統工芸品だ。海賊がよく出回る航路のどこにアジトがあるか分からんと言っていたのを、お前が教えてくれただろう? あのあと海軍に要請して捕縛してもらったお陰で、安全に流通させられるようになった。それもよく売れる」


 倉庫の中に所狭しと積み上げられた荷物の中から、気になった物を見つけては手当たり次第に聞いていくと、隣を歩く彼はスラスラと説明を返してくれる。中には当然私の関係していない商品も多数あるから、どうやらここにある膨大な数の商品目録を暗記しているようだった。


 その記憶力に内心ではとても感心しているにも関わらず、やっぱり私の表情筋は緩むこともなくて。然りとて正面から褒めるのも気恥ずかしいと思っていると、突然ふくらはぎに柔らかいものが触れて軽く悲鳴を上げてしまった。


 見下ろした先には、大きな猫がこちらを見上げて喉を鳴らしているところで。視線を上げれば隣でノイマン様が肩を震わせて笑っている。猫が接近していることに気付いていたなら教えてくれれば良いのに……。


 若干恨めしい気持ちで彼を睨みつけてから、その場にしゃがんで猫の喉を撫でる。人懐っこい性格で逃げる様子もない。そういえばさっきから色んな場所で猫の姿を見かけたわね?


 そこで上質なビロードのような毛並みを撫でながら「ここは猫が多いのね。飼っているの?」と訊ねれば、頭上から「そうだ。うちは大量の穀物や絹製品を商うからな。ネズミを狩らせるために放し飼いにしてるんだ」という答えが降ってくる。


 けれど次いで何かを訊ねようと口を開きかけたところで「――と、悪い、呼ばれた。少しだけこの辺で見て回っていてくれ」と声をかけられ、了承の意を示すと彼はそのまま呼ばれた方向へ歩いていく。


 その背中が詰まれた商品の角を曲がって見えなくなってから、私は喉を撫でていた猫の耳許に顔を近付けて「……にゃあん初めまして?」と囁きかける。すると途端にグルグルと鳴っていた喉がピタリと止み、驚きに見開かれた宝石のような両の目を覗き込んだ私の視界の端で、尻尾が少しだけ膨らんだ。

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