◇幕間◇わたしの主は天使様。
わたしのお仕えするクラリッサお嬢様は、とても美しく、お優しく、聡明で、責任感が強く、愛情深い方。立っても座っても逆さにしても、どこから見たってその美しさが損なわれることなどないですわ。
だけど人よりもほんの少し変わった力をお持ちなせいで、幼い頃から旦那様や奥様、キルヒアイス領の領民達にしか理解されなかった。その力というのは動物の言葉が分かるという、幼い年頃の子供なら誰しも一度は錯覚するもの。
けれどお嬢様のそれは錯覚などではないと、わたしは誰よりも知っている。キルヒアイス家のお屋敷で働かせて頂けるようになったのは、お嬢様のお陰ですもの。
エプロンのポケットから古びた手鏡を取り出して覗き込み、髪型に乱れがないかを確認してから、エプロンで丁寧に磨いて再びポケットに戻す。
今だって鮮明に思い出せるのは、今は亡き奥様につれられて初めてお目にかかれた日のこと。きっとお小さかったお嬢様は、もう憶えておられないかもしれませんけれど……あれからもう十二年も経つのですね。
◆◇◆
「クラリッサ、あなたが見つけてあげて欲しいと言っていた子を見つけてきたわ。お母様達はもうこの子にお名前を教えてもらったけれど、クラリッサはきちんとご挨拶出来るかしら?」
そんな風に優しい声が頭上から落ち、促すように背中をソッと押してくれるのは、今までの人生で見てきた中でも一番美しい貴い身分の女性で。視線の先にいたのは、その女性にどこか面差しの似たとんでもなく可愛らしい少女が立っていた。
何故こんなことになっているのだろう? 自分は命の恩人に助けを述べようとしただけなのに、それがどうしてこんな場違いなところに――?
娼婦として娼館で働いていた母さんが身体を壊して店から追い出されてから、母子二人で風の噂を頼りにボロい辻馬車を乗り継いで、ようやく旅の終点につこうという時、わたし達を乗せた辻馬車は運悪く賊に襲われた。
母さんはわたしを庇って怪我をし、それでも連れて騒ぎの中を街道沿いにあった茂みに隠れ、賊達が非道の限りを尽くして通り過ぎるまで、ずっと抱きしめて悲鳴を上げそうになるわたしを宥め続けた。
母さんのために助けを呼びに行かなければと思うのに腰が抜けて動けず、そこで二日ほど抱き合って震えていたのだけれど。段々と怪我で衰弱していく母さんの姿にすすり泣いていた時に、わたし達が隠れていた茂みに誰かが近付いてくる気配がして……。
今度こそ母さんを庇うんだと決意して腕を広げたわたしの前に現れたのは、わたし達母子が目指していた領地の自警団を名乗る男性達だった。彼等はわたし達を見ると“もう大丈夫だ”と声をかけ、その内の一人が衰弱している母さんを抱き上げて“よく頑張ったな”と撫でてくれたのだ。
その直後に緊張の糸が切れて、次に目を覚ましたのはフカフカのベッドの上だった。慌てて飛び起きれば、隣のベッドには穏やかな寝息を立てて眠る母さんがいて……ああ、そうだわ、それで部屋から飛び出して見つけた初老のシスターに、是非わたし達を助けて下さった方にお礼が言いたいと申し出て――……。
段々思い出してきた。それで今ここにいるのだわ。だけど……それだと視線の先にいるべきなのは、わたしの後ろに立っている女性のような気がするのに、実際に“命の恩人”として紹介されたのはお人形さんのように綺麗な女の子。
混乱しているこちらに気付いたのか、お人形さんのような女の子は母親らしき女性とわたしを交互に見た。その表情はピクリとも動かないのに、何故か琥珀色の瞳が困っているようにも見える。
しかしそれはそうだろうと思う。後ろで優しく紹介して下さっている女性も、目の前の女の子も、どちらも貴族の女性だもの。きっと痩せぎすでみっともない姿のわたしが恐ろしく見えるに違いない。
ここはせめて年上として彼女がわたし達母子の“命の恩人”だと言うのなら、二人分の精いっぱい心を込めたお礼を言って、早く母さんのところに戻ろう。そう思って口を開きかけたその時――。
「あの……もっと、早くみつけてあげられなくて、ごめんなさい。コウモリの言葉は、聞き取るのがむずかしくて。あの子たち、いっせいに、しゃべるから」
目の前にいた女の子は、モジモジとしながら小さな声でそう言った。これが小鳥とかなら夢見がちな女の子で済んだのに、何故コウモリが出てくるの? もしかしてこれがお貴族様なりの冗談?
今度こそ混乱から後ろの女性を見上げてしまったわたしに、彼女はニコリと微笑んで「娘はね、動物の言葉が分かるのよ」と仰った。綺麗な人の口から出るから、余計におかしさが増して怖い。それは恩人に対して抱く感情とはかけ離れているけれど、それがわたしの本心だった。
もう一刻も早く立ち去りたい一心だったわたしに、女の子は初めて「安心して、お母さまと私の、冗談よ」と。どこか少しだけ悲しげに笑ったように見えた。結局その後、自分がきちんとしたお礼をお二人に言えたのかは憶えていない。
ただ紹介して下さった女性と“クラリッサ”と呼ばれたその女の子が、領主様の奥方様とお嬢様だと知った時には、腰がまた抜けそうになるほど驚いた。けれどわたしに名前を訊ねることも、近寄ってくることもなかったことだけは、ひどく印象に残って。
目を覚ました母さんのベッドの横で、その手を握りながら無事で良かったと泣いた時も、頭の片隅ではずっとあの無表情に近い女の子が見せた、感情の揺らぎが気になっていた。
その翌日から、誰が差出人か分からないお見舞いの品がお世話になっている診療所に届くようになった。しかも送られてくるお見舞いの品は、どれもわたしが前日に母と喋っていた内容に近い物ばかりで。
甘いお菓子、綺麗なお花、ふかふかの枕、美味しい紅茶――……。
そうしてお見舞いの品を受け取る時は、いつも開け放った窓の傍にある木の枝に小鳥が数羽とまっていた。楽しげにピチュピチュと鳴き交わす姿は可愛くて、心が和む。弱々しい微笑みを浮かべながら小鳥の来訪を喜ぶ母さんを見ていたら、あの女の子の姿がちらついて。
気がつけばわたしの足は、彼女の住んでいるお屋敷に向いていた。お屋敷の門前で使用人が通りかかるのを待って声をかけ、肩透かしなほどあっさりと話を領主様と奥方様に繋いでくれたのには驚いたけど。
そうっと連れて行ってもらった四阿の傍で、あの女の子が小鳥と会話をするようにずっと口笛を吹いている姿を見た。わたしには小鳥の見分けなんてつかないけれど、何となくいつも窓辺に来てくれる小鳥達に似ているようにも思える。
そんなことを考えながら、さていつ声をかけようかと悩んでいると、女の子が近くにいた年輩のメイドさんにメモを手渡しているのが見えた。すると四阿まで連れてきてくれたメイドさんが、お屋敷の方へ戻ってくる年輩のメイドさんを呼び止めて、預かったメモをわたしに見せてくれるように頼んでくれる。
ドキドキしながら開かれたメモに視線を落とせば、そこには小さな文字で《かわいい手鏡、助けてくれた男の人》とだけ綴られていて。それを見たわたしは、小鳥にパン屑を上げている女の子の前に飛び出していた。
突然の乱入者に驚いたのか女の子は伏し目がちだった目を見開き、わたしを見つめて「ようこそ、ええと……お名前は」と口ごもってしまって――……。
◆◇◆
「ああ、ここにいたのねアデラ。探していたのよ」
そうひょこりと掃除中の談話室の入口から顔を覗かせたお嬢様が、わたしを記憶の海から現実へと引き戻して下さる。一瞬だけその姿が記憶の中にいた儚げな女の子と重なって、すぐに現在の美しく成長を遂げられたお嬢様に戻った。
「まぁ、お嬢様にお手間を取らせてしまってすみません。またノイマン様からの注文でも入りましたかぁ?」
屋敷の中を探し回らせてしまった自分に内心舌打ちしつつ、最近新たにお嬢様の秘密を少しだけ共有するようになった男爵の名前を口にすれば、お嬢様は「いいえ違うわ。今日は貴女のお母様のお誕生日でしょう? だから今夜はお家に戻ってあげた方が良いのじゃないかと思って」と、一使用人でしかないわたしのことを気遣って下さる。
「うふふ、それなら大丈夫ですわぁ。義父と母は娘がいない方が楽しめますから。後でプレゼントだけ届けて来ます」
「そういうものなの?」
「ええ。それはもう間違いなく。お気遣い下さってありがとうございます」
納得がいかないのか小首を傾げるお嬢様を見つめながら、きっと今夜は義父と母も、出逢った頃のことを思い出すに違いないと一人笑む。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます