血に染まる針

タミィ・M

第一話 悪夢の始まり

ジョン・ケラーの40回目の誕生日だった。


独立した医療機器の営業の仕事は成功をおさめ、かなりの額の貯金もある。ロスアンジェルスの郊外に3ベッドルームの一戸建ても買った。


美しい妻ケイトとかわいい息子のトムがいる。順風満帆な人生だと言って良い。


しかし誕生日を祝う家族はここにはいなかった。御影石でできたカウンターに肘をつき、自業自得だなとため息をつく。トムの5歳の誕生日にジョンは家にいなかったのだから。


あの時も妻とは大げんかになった。仕事の接待だと言い訳をし、泣くケイトをなだめ、ひたすら謝り、翌日にはトムを動物園に連れていき、何とか事なきを得た。その時だけは。



 妻ケイトとは大学時代からの長い付き合いのいわゆるカレッジスイートハートだった。流れのまま結婚したが、子宝に恵まれたのは遅かった。トムが生まれていなければ、結婚生活が続いていたとは思えない。


女癖の悪いジョンにケイトはほとほと嫌気がさしていた。妻のケイトは小学校の教師補佐をしていて、くそが付くほどまじめな性格だった。常に家庭のことを第一に考えていた。時間を守り秩序を守り、常識から外れたことは許せないタイプだ。


つねにジョンの後ろに見え隠れする女性の影を怪しんではいたけれど、決定的な証拠をつかんだわけではなかった。見て見ぬふりをしていたという方が当てはまるかもしれない。息子のためにも壊れかけそうな家庭を何とか立て直そうとしているところだった。


ジョンの仕事は自由も多く給与も高額で何ひとつ不自由していなかった。週に1回のジム通い、月に1回のフェイシャルエステも欠かしたことはなかった。


洗礼された身のこなし、美形で精悍な風貌。身長は185センチを超えていた。ジム通いのおかげでよくしまったモデルのような体型をしていた。もちろんジョンは自分の魅力をセールスに利用していた。サファイヤのようなディープブルーの瞳で見つめると相手の女性の頬がみるみる染まる。時には男性も。


当然あちこちの麗しい美女たちからの誘惑が絶えたことはなかった。何人もの女たちと浮気をしても離婚をする気はなかった。生活と遊びはきっちりとけじめを付けていたはずだった。ケイトは怪しんでいたけれど、巧妙に隠していた。あの日までは。



 ある日よりによって浮気相手のリリーと一緒のところを妻の親友マリーに見られた。ケイトとマリーは小さい頃からの親友だ。うっかりと路上でキスをしてアパートメントの中へ入っていく所を見られた。 


ケイトと激しい口げんかになった。あの手この手でごまかし、言い訳をし、ついには情事を認めて平謝りに謝った。しかし真面目な妻のケイトはジョンの浮気を許せなかった。そしてケイトはトムを連れて実家に帰ってしまった。別居してそろそろ1か月になる。



 最初は寂しさもあったが、ジョンはそれはそれで人生を謳歌できるのではないかと考えはじめてもいた。5歳になったばかりの息子のことを考えると、このまま離婚という事態だけは避けたかった。


それも真剣に悩んでいるわけではない。帰ってこなければそれはそれで構わないという気持ちもあった。この年齢で自由を手に入れるというのも悪くない気がする。


人生をやり直すことなどたやすいことのように思えた。やり直す?いや、もしそうなったら、今度はうんと楽しもうと思っていた。


鼻歌を歌いながらクラウンロイヤルをウイスキーグラスに注いでいた、その瞬間。左腕に激痛が走った。


 「痛い!なんなんだ?」


叫びながらその場所を見るとキラリと光った尖った針金のような何かが肌を突き破っていた。


悪態をつきながらグラスをテーブルに置くと先端を指先でつまんで引っぱってみる。


ソレはまだ半分以上皮膚の中に埋まっていた。針だった。抜く時に皮膚がグイっと引っ張られ、思いのほか激痛だった。顔をしかめて思い切り引っ張りやっとガリガリとこすれながら、ゆっくりずるりと針は抜けた。 


皮膚に開いた小さな穴から、一筋の赤黒い血がとろりと流れだす。


ジョンはわけが分からず、抜いた針をしげしげと見つめた。


 「いったいなんだよ、これは?」


どこかで腕に刺さったままだったのだろうか?記憶を手繰り寄せてみたが何も思い浮かばない。ただ、不潔な釘には破傷風菌があるのではなかったか? ワクチン注射をいつしただろうか? それどころか病院の手術針だったら?HIVや肝炎の感染もありうる。


 「おいおい、冗談じゃないぞ」ぞっとしながら洗面所へ行きアルコールを傷にふりかけ消毒をした。念のため明日検査に行こうと思いながら消毒クリームを塗り、小さなバンドエイドを小さい穴の上に貼った。これは傷口を守るというよりも場所の確定のためだった。友人でもあるピーターウォルツ医師にすぐに診てもらおうと思った。


刺さった感覚ではなく、あきらかに内側からブツリと皮膚を突き破られたことを考えていた。まさか、そんなことあるわけない、見た時はきっと深く突き刺さってしまって先端だけが出ていたんだ。


そして思い出した。皮膚から出ていたのは針の先端の部分だったことを。刺さったのだとしたら、皮膚の上に出ている部分は針穴の方ではないか? 知らない間に針が刺さったままだったということがあるだろうか?



その夜、ジョンは眠れずに寝返りばかりを打った。 


考えても考えても答えは出なかった。



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