十話 「RD事変 其の九 『憎しみを断つ剣』」


†††



 バーン、人を焼く者。


 悪魔の思想、悪魔の力に魅せられ、悪魔だけに絶対の忠誠を誓う鬼たち。その力はまさに名に相応しいものである。なぜならば、彼らは現在の世界を焼くために集められた存在だからだ。


 その力、強大。

 その怒り、業火のごとく。



「うおおおおおおお!!! うううううう! いいぞ、いいぞ!! この怒りだ!!」



 般若から発せられる負の想念がユニサンを媒介にして戦気へと変換されていく。戦気はもともと精神力を具現化したもの。本来は無限の可能性を秘めている。


 そして、般若の【素材】にはそうした力を蓄積し、物的な力に転換する能力が秘められているのだ。ただし、戦気はもはや赤ではない。黒。真っ黒な戦気が空間を支配していく。



(これはもう【邪気】だ)



 アズマはあまりの禍々しい戦気をそう表現するしかなかった。


 通常の戦気から発せられる思念は燃えるような真紅の闘争心であるが、ユニサンから発せられる思念は相手をとことん痛めつけようとする【邪念】が見て取れる。


 闘気の派生にある【鬼気】が放つ殺気よりも悪質で、憎しみ深いものである。今この瞬間、ユニサンは【魔】となった。



「許さん…! お前たちだけは許さん! 弱者を踏みにじり、奪い尽くすお前たちには死すら生ぬるい!!」



 ユニサンがアピュラトリスの壁を殴りつける。轟音を響かせ、壁は砕けた。そう、文字通りバラバラに砕けたのだ。中央には拳圧であいた穴が作られており、深さはここからでは確認できない。



(絶対に行かせてはならん)



 アズマたちの激闘でさえもヒビしか入らなかった壁が簡単に壊された。それを見たアズマは、もはや自分の命よりも上にいる人間たちの命を心配した。こんな化け物が上に行けばどうなるか、世俗から離れているアズマにも容易に想像できる。



(ふっ、俺もエルダー・パワーだった、というわけか)



 エルダー・パワーの責務は守ること。弱き者を守ることである。紅虎丸が教えた剣は、弱きを守る剣なのだ。


 しかし、アズマは今まで自身がエルダー・パワーであることを自覚したことがなかった。任務で戦っても、それは自らの剣の価値を高めるだけの行為であった。


 そんなアズマを、仲間たちは戦闘中毒(バトルジャンキー)と呼んだ。


 自己中心的な考えを持ち、鬼のような形相で相手を倒すことしか考えない彼を嫌う仲間も多い。また、アズマ自身も無駄に関わろうとはしなかった。


 周りとは生き方が違うのだと思っていた。

 だから数多くの仲間がいても、自らは孤高であろうとした。

 剣の上達には、それで何ら問題はなかった。


 だが、だが。

 今アズマの胸に宿るのは、れっきとした熱い気持ちである。


 こんな化け物が表に出たら何をするかわからない。いや、兵士たちでさえ紙くずのように潰されてしまうだろう。その兵士にも家族がいるのだ。産んでくれた母がいるのだ。


 そして、アズマは決心。



(ならば、これしかあるまい)



 アズマの身体はすでにボロボロである。残った手はこれしかない。



「俺のすべてをくれてやる! 血よ、燃えろおぉおおおおお!!」



 アズマが血を燃やす。オーバーロード〈血の沸騰〉である。


 血を媒介に無限の因子に接触。本来武人が持っている強力な力を強引に引き出す。身体が熱い。戦気が燃えていく。火傷に悶えながら熱湯を飲み続けるかのごとき激痛!!



(――これほどの痛みを耐えたのか!!!!)



 今までの戦いで受けた痛みなど、これに比べればたんこぶ一つにも及ばない。


 あまりの痛みに身体が硬直しそうになる。殺し合いを生業としているアズマですらそうなのだから、一般人ならばすぐに意識を失うだろう。


 それをユニサンは耐えた。戦っている間、ずっと耐え続けた。その精神力の強さに改めて感服する。


 実のところオーバーロードは誰にでもできる技ではない。そんなに簡単にできればそこらの兵士でも使えてしまう危険な技になる。


 しかし、これを行うにはいくつか条件が必要となる。一つは本気で命を捨てる覚悟をすること。何か強い意念を持つこと。それを守るために使うこと。何より一定以上の武人としての覚醒を果たしていること。こうした厳しい条件が必要となる。


 そうした条件があるため、オーバーロードは主に侵略を受けた側、防衛する側の武人に発生することが多い。自国の領土、愛すべき家族、大切な思い出を守るために戦う武人だからこそ使えるのだ。


 アズマはオーバーロードなど弱い人間が使う邪道だと考えていた。だから気にしたことはなかった。興味もなかった。


 しかし今、初めて守ろうと思ったのだ。

 この国を守りたい。人々を守りたいと思った。


 それは武人が持つ、人が本来有する自然な感情であることを悟ったのだ。

 そして、それはすなわちユニサンもまた同じ感情を持っていたことを意味する。



「このような富など!!!」



 ユニサンが手当たり次第に壁を破壊していく。もはや怒りと憎しみで我を失っているようにも見える。



「はは…はははは!! 魔だ! 魔がいるぞ! マスター・パワー、あなたに感謝してもしたりないほどに今俺は燃えている!!」



 戦気が増大していくにつれて高揚感が増していく。痛いが、この状況のほうがアズマにとっては重要なのだ。


 これはアズマが望んでいた戦いである。魔と戦うことこそ心から欲していたものなのだ!


 彼が持っている刀、真断ちは正式な名前ではない。本来は【魔断ち】という。偉大なる紅虎丸が地上に舞い降り、ダマスカスで剣を教えていた時代、あまたの鍛冶師もこの地にやってきた。最高の剣士に見合う最高の刀を作りたい。使ってほしい。それこそ鍛冶師にとっての名誉だったのだ。


 そして、紅虎丸が「これはいい」と認めた剣が十本存在する。魔断ちはその一振りである。ただし、オリジナルではない。それを模して叩かれたレプリカである。本物はかつての時代にどこかに消えてしまった。それでも真断ちが名刀であることには間違いないのだ。


 だからこそアズマは魔を欲していた。すでにオリジナルが失われたのならば、自分の真断ちこそが魔断ちとなるべきだと考えていた。そのためには魔が必要だったのだ。


 アズマは戦場でいくたの魔に憑かれた人間を斬ってきた。だが、まだ届かない。本物にはまだ届かないのだ! しかし今、ようやくそのチャンスが訪れたのだ!



「たかが刀と笑うな!! 刀こそ剣士の命、存在の鏡!! 今俺は人生を燃やす!!」



 アズマが壁に拳を叩きつけたユニサンに斬りかかる。もはや遠慮などしない。最初から全力だ。



「神刃!!」



 負傷したアズマだが、オーバーロードで本来のキレを取り戻した神刃をユニサンの背中に繰り出す。ユニサンは避けない。刃は見事に直撃した。


 刃は食い込んだ。しかし、それ以上進まない。



(神刃が通らぬ!)



 神刃は高速の剣。回避が不可能なほど素早く繰り出される一撃であるが、威力だけでいえば中レベルの技である。高速戦闘を得意とするアズマには合っているものの、ここまで凶悪な力を手にしたユニサンには通じなかった。


 しかも、傷が修復していく。神刃の傷もあっという間に塞がってしまった。



「痛み。痛みだ…! 貴様らが知らねばならぬのは痛みだ!」



 振り向いたユニサンがアズマに攻撃を開始。そこにはもはや技というものは存在しない。ただめちゃくちゃに拳を振り回すのみ。だが、それこそが恐ろしい。



「ちぃいい!」



 アズマは避け続ける。オーバーロードで燃えているといっても、力関係はまるで変わっていない。一発でもくらえば即死は同じだった。



(どうすればいい、どうすれば)



 アズマは必死に考える。このまま上に逃げるわけにはいかない。この力を発動させた段階で自分の命もあと数分しかもたないのだ。そして何よりユニサンを倒さねばならない。倒さねば多くの人間が犠牲になるだろう。



「はははは! どうした! 立場が逆転したら逃げ惑うしかできないのか!」



 ユニサンは笑う。弱い者に高圧的だった人間が、いざ立場が逆になればただ逃げるのみの現状を笑う。



「お前たちは誇りを奪い、富を奪い、あまつさえ楽しんだ! その報いを受けろ!! 腕を引きちぎり、足をもぎ取り、少しずつ身体を削いでやる!! 痛みにのたうち回れ!!!」



 ユニサンの拳のラッシュ。もはや後退することしかできないアズマに向かって、何発も何発も繰り出す。避けるたびに砲弾がかすめているようだ。



(だが、粗い。チャンスはある)



 邪気がユニサンの思考能力を奪っているせいか攻撃自体は粗かった。そこをつけば必ずあと一回はチャンスがあると踏んでいた。だが普通の攻撃では倒せない。弱点を突かねばならない。



(【額】だ。あの般若の額だ)



 アズマは邪気の源に気がついていた。般若の面の額の部分にひし形状の【黒い石】が浮き出ているのだ。間違いなくあれこそが邪気なのだ。邪気そのものである。


 狙いは額。しかし、ただの神刃では通らないだろう。

 もっと強力な技で全身全霊をかけて挑むしか道はない。



(手は一つ。【アレ】しかない。だが、できるか? あれができるのか)



 アズマは優れた弟子だった。師範から教わった剣のほぼすべてを体得している。しかし、マスター・パワーから教わった剣だけはどうしても体現できなかった。


 それは至高の剣の一つ。赤虎流の真髄が込められた剣技。今の自分には到底扱えるものではないことは知っている。知っているが、やらねばならない。



「死ね!」



 ユニサンの大振り。粗い。アズマが身を屈めると腕は頭の上を通っていく。その勢いはすさまじく、もし当たっていれば頭がなくなっていただろう。


 そして、チャンスはここしかない。



「今この命をかけて…!」



 一撃必殺を狙ってアズマが飛び込んだ時、それは起こった。


 【腹がなくなった】。


 そうたとえるしかないのだろう。

 それは事実なのだからそう言うしかないのだ。



「ぐっ…は」



 アズマの腹はこの世からなくなっていた。次に訪れたのは貫通する衝撃。それによって背骨が完全になくなった。つまり、アズマの胴体が吹き飛んだのだ。もはや原形を留めることなく塵となった。


 膝。

 飛び込んだアズマに放たれたのは、ユニサンの【膝蹴り】であった。



「ふふ、はははは!! かかってくれたな」


「芝居だったとは…な」



 すべては布石だったのだ。邪気に呑まれたのは事実だったが、ユニサンは意思を保っていた。そして、この一撃を見舞うまでの計算を行っていたのだ。


 壁を殴っていたのも芝居。油断させるための罠であった。いや、半分は正気を失っていたので本気でもあった。


 それでもユニサンの怒りと精神力は常人を超えていた。ギリギリで正気を保ちながら機会を待ち、ついに成功させたのだから。



「油断などしないさ。お前たちは狡猾だからな!! その首をねじ切るまで油断などはしない!! 信用もしない!」



 ユニサンの目はやはり過去を見ていた。その言葉もかつての敵に向けられたものであった。すでにアズマを見ていない。



(哀れな)



 アズマはその感情を抱きながら、自分もまた過去を思い出していた。


 アズマが生まれたのは貧しい家庭だった。ユニサンほど酷くはなかったが、首都の華やかさとは裏腹にダマスカスでは貧困層も数多く存在している。


 食べ物に困る人間も多い。そんな家庭に生まれた彼は奉公に出るしかなかった。ただ、そこで彼が見たのは腐敗した富裕層の愚かな人生であった。


 くだらない。価値がない。脱走した彼は、いつしか野良犬のような人生を送るようになっていた。その意味ではユニサンと重なる点も多い。


 しかし、彼が違ったのは【出会い】を経験したからだ。


 殺して奪って、野犬のように刺々しく生きていたとき、マスター・パワーに拾われた。襲いかかったが返り討ちにされたのだ。そして才能を見込まれて彼の道場に入ることになる。


 そこでのマスター・パワーの教えはアズマには理解できないものだった。困惑した。価値がないと思った。しかし、強かった。マスター・パワーは強かった。それは今もなお、わからなかった強さである。



「ジン、敵を愛するのだ」



 マスター・パワーである赤虎は言った。


 偉大なる紅虎丸から与えられた名を代々継いできた男は、弟子たちにそう説いた。これこそが紅虎丸様の剣の真髄であると。


 アズマは無理だと思った。そんなことは不可能だ。

 剣を振るいながら敵を愛することなど無理だ。


 十年振るっても、二十年振るっても無理だった。

 そして、今もなお無理だった。

 哀れみはしても愛することはできなかった。



「ははは!! すべてを破壊してやる!! はははは!」



 ユニサンの声が聴こえる。


 これは彼の声ではない。

 彼の額にある【もの】、それが発しているのだ。


 何万、何十万という人々の邪気が言っているのだ。

 彼らはすでに自分で自分を止められないのだ。



(俺は師匠のようにはなれん。紅虎丸様のようにもなれん。だが、だが!! 偉大なる者よ、どうか今だけ力を!! 紅虎丸様のお力を…!!」)



 アズマは剣を振るった。最後の力を振り絞った、軽い、とても軽い剣である。


 刀の重さに任せただけの【置いた剣】。これでは野菜ですらも切れるか怪しい。


 これが精一杯。あと数秒で死ぬ今のアズマにとって唯一放てる一撃である。だからユニサンも避けない。もともと避けるつもりもない。かつて強者であった者を見下すのはたまらない快感だからだ。


 刃がユニサンの額に触れる。ただそれだけだ。


 そして、真断ちが折れた。


 アズマとともに戦ってきた戦友(とも)が先に死んだ。


 いくつもの命を奪ってきた。だからこの結果にも納得している。何より最期は守るために戦えたのだ。どうして哀しむ必要があるのだろうか。



(ああ…愛している)



 アズマは剣を愛していたのだと知った。


 自己を表現するために学んだ剣であった。その大半は苦しかった。天才といわれることもつらかった。自分はただ、剣を振るっていたかったのだと知った。


 それはもう十分に成し遂げた。今成し遂げられた。


 だからかもしれない。

 だから、そんなアズマの【愛】が奇跡を呼んだのかもしれない。



「?」



 倒れたアズマを見下ろして愉悦を感じていた時、ユニサンが異変に気がついた。自身の邪気が異様に膨れ上がっているのだ。尋常な速度ではない。それは風船に穴が開いたかのごとくの勢いだ!!



「ぬっ! ぬぐううう!! な、なんだ…何がっぁぁぁあ!!」



 邪気の制御ができない。額から送り込まれる力が無分別に暴走している。まるでもがき苦しむかのように。



「どうした!! 何だ!! お前たちは戦うのではないのか! 自分たちを虐げた者を殺すのではないのか!!」



 ユニサンが額に宿したもの、【ザックル・ガーネット〈不変の憎しみ〉】が怯えている。畏れている! 強大な力の奔流に翻弄されている。



「うおおお、うがあああああ!」



 ザックル・ガーネットから邪気が流れていく。違う。邪気が消えていくのだ!


 ゆっくりとユニサンの額が割れ、その【太刀筋】が現れる。太刀筋は、ユニサンの頭から縦にまっすぐ入っていた。そこから光輝く力が流れ込み、邪気を斬り裂いていく!!



「こんなことが…! バカな! 賢人の遺産だぞ! その力がどうしてっ!?」



 次にユニサンが見たのは、まばゆい光であった。


 閃光が視界を覆っていく。

 それと同時に急速に力が萎えていくのがわかった。



「憎しみが…消える」



 自身の中にあった憎しみがしぼんでいく。支配され、略取され、虐殺された者たちの嘆きが光に呑まれていくのだ。闇が晴れていく。


 それは悪い夢のようだった。悪夢だったのかもしれない。


 最初は誰かの悪口だった。それが罵倒になって憎しみになって、差別や暴力に変わっていったのだ。幼い頃に植え付けられた悪意が根付いていたのだ。


 それが、ばっさりと【斬られた】。

 その剣は、悪しき心を斬ったのだ。


 その剣の名を【無明斬破(むみょうざんぱ)】と呼ぶ。


 心の闇に人が囚われ、真理を見失う状態を無明と呼ぶ。その状態が長く続けば負の感情に支配され、いずれは魔を帯びていく。魔とは、人の心の迷いが生む哀れな姿なのだ。


 紅虎丸がもっとも得意とし、弟子たちに教えた最高の剣とは、相手を赦し、相手を愛する剣。そして解き放つ剣であった。無明を切り裂き、人に愛を取り戻させる剣である。


 かつての初代赤虎は、紅虎丸のこの剣を独自にアレンジし、赤虎流秘伝【無明人刃(むみょうじんば)】を編み出した。本家には劣るものの、人が放つ中では最高の剣の一つである。


 到底届かない頂(いただき)。


 アズマが残りの一生をかけて戦ってもけっして届かない領域に、今この瞬間彼は届いた。


 死期を悟ったからかオーバーロードしたからか、その理由はわからない。だが、放った剣は生涯で最高の一振りであったことは間違いない。それは赤虎が乗り移ったかのごとき至高の剣であった。



「……」



 傷は癒えた。切り傷はすでに修復されている。だが、ユニサンは自身の中から憎しみが消えていくのを感じていた。邪気を力に変えていた彼にとっては致命的な現象である。


 ユニサンは、すでに事切れて倒れているアズマを見る。その顔は優しく笑っている。満足し、認め、赦し、愛した顔であった。だからこそ思うのだ。



「…すまん」



 この男は素晴らしい相手だった。誇り高い男だった。本当ならばまだ死んではいけない男だったのだ。


 ユニサンはアズマの亡骸を丁重に運び、折れた真断ちを鞘に戻した。それが死力を尽くしてユニサンという男を倒し、般若の憎しみを斬った男に対する最高の賛辞だったからだ。



(俺は二度負けたな)



 完全なる敗北であった。二度も負ければ後悔もない。アズマは自分が敵う相手ではなかったのだ。すがすがしい気持ちであった。


 しかし。しかし。自分はバーンになったのだ。一度なったからには止まれない。


 ネコ型の携帯電話が鳴った。戦いの最中にどこかに失くしていたが、いつの間にか近くにあった。


 この携帯電話はルイセ・コノが造った特別製で、なぜか持ち主を追尾する機能がある。登録された者以外は触っても何の反応もせず、無理に分解しようとすれば自爆して証拠隠滅を図る。素材は不明だが、この激しい戦いの中であっても傷一つついていない。



「ユニサン、無事か」



 電話に出るとマレンとは違う男の声がした。懐かしい匂いがする声だ。



「俺の寿命はどれくらいだ」



 ユニサンは答える代わりにそれを問う。


 すでに般若の面を使った以上、自身もただでは済まないことはわかっていた。これはオーバーロード以上に危険なものなのだ。



「予測ではあと二時間弱だ」



 男の声は冷静だった。すでに定められたことであり、どのみち発動する予定だったのだ。



「十分だ。それだけもてば第三ステージも有利に進む」



 ザックル・ガーネットからの邪気の供給はすでに止まっているが、すでにユニサンの肉体は今までとは比べものにならないほど強化されている。


 因子も強制的に引き出されているので、生前の三倍以上の力が発揮できる。まだ再生能力も微弱ながら残っている。相手が一級品の武人でもまだ圧倒できる力はあるだろう。


 オンギョウジが最上階にたどり着けば、ついに第三ステージが始まる。あと二時間守り切れればこちらの勝ちだ。それまでもてばいい。



「【あの時】のことを覚えているか?」



 ユニサンはふと思い出したかのように電話の男に聞いた。


 あの時。それは彼ら二人にだけ通じる合い言葉のようなものである。ただ、その言葉には哀しみがよく似合う。



「ああ…忘れることはない」



 男は頷く。二人はともに生き、ともに憎しみ、ともに復讐を誓ったのだ。親友であり戦友でり、唯一ユニサンの気持ちを深く理解できる人物であった。


 その男もまた【あの時】を忘れていない。ただ、ユニサンの中には変化があった。



「今は不思議と優しい気持ちでいる。こんな言葉は俺には不似合いかもしれんがな」



 般若の顔には、もう憎しみはなかった。ジン・アズマという誇り高い剣士が命をかけて斬ったものは、他者を恨み、世界を恨み、何よりも過去に縛られていた心であった。


 不完全な一撃だ。完成された技ではなかった。それでも心は伝わった。本気で戦った二人だからこそ感じた想いもある。


 だから、ユニサンはもう憎しみで戦えない。



「死ぬまで消えないと思っていた。それがこんな時に訪れるとは皮肉だな。アーズはもう死んだ。あとはバーンの端くれとしての役目を果たすさ」



 憎しみが消えてもバーンとしての役割は変わらない。なぜならば、彼らは憎しみのみで動いているわけではないのだ。ただ憎悪や不満の爆発が目的ではない。その本質はもっともっと深いのだ。



「【彼】を頼む。彼だけがすべてを救えるのだ」



 ユニサンの目は、とても哀しそうであった。彼の才能、彼の力は底知れない。この世界すら焼いてしまえる力があることは簡単に理解できる。だが、憎しみが消えたユニサンにはなぜか惜しく思えるのだ。


 それはきっと【英雄】への追悼なのかもしれない。

 もし彼が世界を導く立場にあったならば、自分は喜んで従っただろう。


 怒りを収めてくれと言われれば、悔しくても抑えたかもしれない。

 それだけの魅力が彼にはあるのだ。


 だが、世界は怒りを欲した。それが哀しいのだ。



「この身が砕けても、あの人だけは守るさ」



 男は誓う。男と男の約束は絶対。それは最期の最期まで守られるだろう。



「ああ、頼む」



 ユニサンは携帯電話をしまい、上に向かって歩き出す。



「マニー…レア…俺はそこには行けないが、いつか慈悲が来ることを女神様に祈ろう」



 憎しみが消えて愛。

 あの時失った愛する者への愛だけが、今の彼を動かす力となっていた。


 守らねばならない。

 変わらねばならない。


 変わるためには痛みが必要なのだ。

 その痛みを人間が与えることは傲慢だ。


 だが、傲慢な人間には傲慢な痛みが必要なのだ。 




†††




「サカトマーク・フィールド、あと十三分以内に発動可能です」



 マレン・ルクメントは、アピュラトリスのシステムを管理しながら後方にいる人物に報告する。


 アピュラトリスが誇る絶対防壁システムであるサカトマーク・フィールドは一度発動すれば絶大な防御力を誇るが、発動するまでには面倒な準備が必要であった。


 塔の外壁に沿って設置された約八万七千個のジュエルモーターを動かすには、それに見合うだけの巨大なエネルギーが必要である。幸いにもそれはアナイスメルから得られるのだが、変換作業が必要なのだ。それに時間がかかる。


 また、この作業は誰にも知られずに行わねばならない。マレンはオンギョウジたちのサポートを行いながらこうした作業もしていた。



「そのまま続けろ。タイミングはこちらで指示を出す」


「了解しました」



 男は会話を交わしたユニサンを想いながらマレンが操作している媒体、【疑似オリハルコン】が埋め込まれた操作板を見つめる。


 そこにキーボードというものはなく、第三制御室にあったようなデバイスが存在し、マレンはそこに両手を乗せているだけであった。


 だが、これだけで十分なのだ。


 普通のシステムではアピュラトリスに侵入などできない。もしそれができるとすれば【賢人の遺産】しかない。


 この疑似ミッシング・パーツは【ペア】として存在しており、ユニサンがはめこんだミッシング・パーツを通じて全システムに介入する仕組みになっていた。これがなければ、いかにメラキ序列五位のルイセ・コノとはいえ、アナイスメルに干渉などできないのである。


 それを思うと、ユニサンやロキがいかに重要な任務を負っていたかを再認識し、命をかけて臨んだ彼らに最大限の敬意を表したい気持ちになる。


 そして、彼らに必ず訪れるであろう破滅に、それを受け入れた彼らの誇り高き心に心が震えるのだ。



(すまぬ)



 割り切れと言われれば割り切る。すでに何度も割り切って生きてきた。だから今度も割り切れるはずだ。


 しかし、ユニサンという男は幼い頃からよく知っている友である。その彼を犠牲にすることは男にとっても苦痛であった。


 それでも事態は進んでいく。止まることは許されない。



「ロキたちは司令室を制圧。司令官を捕縛したようですがどうしますか?」



 その後、ロキたちは労せずに司令室を落とすことに成功していた。その理由は意外なものであった。



「【降伏】か。まさかそのような決断をするとはな」



 そう、ナカガワの決断とは降伏であった。


 すでに敗戦は確実だと悟ったナカガワはあっさりと降伏を決断した。それがどれだけのことを意味するか、ダマスカス人でなくても容易にわかるものだ。


 ダマスカスそのものであるアピュラトリスが奪われることを容認するということは、まさに売国奴と呼ばれても仕方のない行為である。ましてや軍属のナカガワならばなおさらだ。生き残っても死は免れないだろう。


 それでも彼は、このまま全滅するより降伏を申し出たのだ。すでにシステムが乗っ取られていることはわかっていたので、マレンに対して呼びかけた。


 この降伏に至るまでのやり取りは司令室内でも幾ばくかの議論を呼んだが、ナカガワは自分が全責任を取ることで押し通した。


 悩んでいる時間で兵士が次々と死んでいくのだ。他の軍人ならば難しかっただろう決断は、自由を愛する海の男によってたやすく成されたのだった。



「司令官のナカガワ様は自決を求めているそうですが」


「ふっ、腐っても将校か。司令室はもう大丈夫か?」


「はい。すべてのシステムをロックしました。防護壁を下ろせば誰も入れません」


「司令官は縛って隔離しておけ。そのような人間ならば顛末を見届ける権利もあろう」



 ダマスカス軍人は大きな戦から離れて久しい。それゆえに軍部は形骸化しつつある。その中でナカガワは枠に囚われないものを持っているようだ。


 それがこの男、フレイマンには面白く映る。



「オンギョウジの現在位置は?」


「直通ルートで地上に向かっております。あと三分弱で到達する予定です」



 司令室を突破したオンギョウジたちも、想定外の事態はあったものの順調に進んでいた。


 あと数分もあれば地上一階に到着するだろう。そのまま地上六階にまで行けば最上階エリアにつながる直通エレベーターが使える。彼らが屋上で仕事を完遂すれば、ついに第三ステージである。



「司令室のロキもオンギョウジの援護に向かわせろ。まだ油断はするなよ」



 計画は順調であった。このままいけば第三ステージへの移行も問題なく進むだろう。


 ただ、この男、フレイマンには少しばかり懸念があった。



「ザンビエル、情報が漏れているのではないのか」



 フレイマンは、自身の背後にいるザンビエルという一人の老人に対して少し厳しい口調で問いつめる。


 事前に調査した限りでは、アピュラトリスにはダンタン・ロームのような術対策はされていなかったはずだ。もしそれがなければオンギョウジも無駄に消耗しないで済んだのだ。


 計画は順調なのだが、物が物だけに気になる。簡単に導入できるものではないし、隠行術に精通している必要がある。隠行術はメラキの得意中の得意の技となれば、やはり疑ってしまう。



「そのようなことはありえぬ」



 ザンビエルは当たり前のことを聞くなと無愛想に答えた。それもフレイマンには気に入らない。



「お前たち【メラキ〈知者〉】は一枚岩ではなかろう」



 メラキ。ルイセ・コノやザンビエルのような存在を知者、メラキと呼ぶ。彼らは【悪魔】がアーズを取り壊して生み出した【ラーバーン〈世界を燃やす者たち〉】に新たに加わった者たちである。


 ユニサンが自身を最後のアーズと名乗っていた通り、すでにアーズは粛清され、構成員は一部を除いてすべて新たな人員によって構成されていた。新たに集められた人材の多くは【天才】と呼ばれる人種である。


 一年前のガネリア動乱時において、もともと彼の呼びかけに賛同していた者たちもいれば、リサーチして勧誘した人間もいる。マレンもその時に加入した人間で、もともとハッカーをしていた純朴な青年であったが、悪魔のあまりの魅力に即座に陶酔することになる。


 だが、悪魔一人でこれだけの力を集めることはできない。そこには【賢人】の力が必要となる。


 それがメラキという存在。

 【賢人の思想】を受け継ぐ者たちなのだ。


 悪魔が悪魔になった時、最初にザンビエルが現れ、頭を垂れた。



「主よ、我ら一同、光輝く意思の命によって集いました。どうぞ配下にお加えください」



 ザンビエルは悪魔が誕生することをすでに知っていたのだ。


 その時に加わったメラキたちの多くは賢人の遺産を持ち合わせていた。そう、彼らは【賢人の遺産の管理】を任されていた者たちなのだ。


 誰に? 賢人に?


 いや、メラキは賢人ではない。あくまで賢人の【思想】に殉ずる存在なのだ。彼らもまた【賢人そのもの】に出会ったことはない。


 その意味するところは、単純にそのまま受け取ることができないから難しい。この複雑さこそが賢人という存在を今まで理解できないものにしていたといえる。


 あの偉大なる者に次ぐといわれた【黒賢人(くろけんじん)】はどこにいるのか!


 それに答えられる人間はどこにもいない。

 それは叡智であり、真理そのもの。


 そもそもどこにいるとか、あそこにいるとか誰が賢人だとか、そんなものにはまったく意味がないのだ。


 黒賢人は黒賢人であればよい。

 ただそれだけで世界が動くのだ。


 そして、これらの力はすべて、悪魔が悪魔足りえた時に動かすことを許可されたものであった。そして、彼が悪魔になることは【史実】だったのだ。


 疑似オリハルコンも賢人の技術によって作られたものである。この生まれ変わった【巨大戦艦ランバーロ】もまた、賢人の財力と技術によって強化された存在であった。


 そもそもランバーロ自体が賢人の技術を使って造られたものである。ガネリア動乱の時に使われたランバーロはあくまで悪魔が【出力を意図的に抑えた】ものであった。あくまで人として扱える範囲に留めたものでさえ、あれだけの力を持っていたのだ。その枷が外れ、真なる力が発揮された今こそが本来の姿である。


 これこそが悪魔の城に相応しい。


 だが、フレイマンにはまだメラキに対する【嫌悪感】がどうしても拭えないのだ。フレイマンはザンビエルの能力は信じていても、すべてを信じているわけではない。これはラーバーン内のバーンとロキを含めた構成員すべてにいえることである。


 それはおそらく、あの時に出会った黒い少年を思い出すからであろう。

 もし彼が訪れなければ、悪魔は生まれなかったに違いないのだ。


 フレイマンにとってメラキとは、ある意味で憎しみの対象でもある。しかし、今は頼らねばならない相手。そうした矛盾が今の嫌悪感を培ったのだろう。こればかりはどうしようもないことであるし、隠そうとも思わない。


 暴発しそうになる気持ちを抑え、フレイマンは静かにザンビエルを問い詰める。



「では、この一件をどう説明するのだ?」



 彼らの中には明確な役割分担が存在する。


 戦闘はバーンやロキ、情報操作や技術的なものはメラキが担当している。マレンなどのような者はレレメル〈支援者〉と呼ばれ、その中間を補う役割を担っている。


 これらは全部で一つを構成している以上、両者は反目し合っているわけではない。強い協力関係にある。だが、求めているものが同じとは限らないのだ。



「情報は漏れておらぬ。これは断言しよう」



(断言…か)



 ザンビエルの言葉は自信に満ち溢れていた。


 その自信がどこから来るのかフレイマンにはいまだ謎だが、メラキの実力は認めるしかない。実際ルイセ・コノがこうしてアナイスメルにダイブし、前人未踏の百十階層にまで達しようとしている。それだけを見てもメラキの力は異常である。


 そう、異常すぎる。


 このような現代人類社会の限界をたやすく突破した者が、まったくの無名で存在していたことがあまりにも不自然なのだ。


 だが、そのことそのものが、彼らの力の異常性を証明している。彼らが完全に情報を隠匿しようと思えば止められる者はいないのだ。賢人の遺産であるアナイスメルを使い、全世界の富が集まるダマスカスでさえメラキの存在は知らないのだから。


 ただし、それはこうも言えるのだ。

 メラキとは、【すべての国家に存在している】のだ、と。


 アナイスメルが賢人の遺産である以上、それを本当の意味で管理している者たちがいる。ただ彼らは自らを表に出さず、静かに暮らしているにすぎない。ただの一般人として、ただの物好きな芸術家として。あるいはいち公務員として生きている。そうなれば彼らを見つけることは容易ではない。


 こちらに組みしていない、まだ知られていないメラキがいてもおかしくはないのだ。それが敵に回れば厄介である。



「少し待て」



 そう言ってザンビエルは黙想する。


 ザンビエルはメラキ序列一位の男。その霊格も群を抜いており、霊媒としても超一級品の存在である。このおそらく千年は軽く生きているであろう老人は、【ウロボロスの使者】たちから世界中の情報を集めることができるのだ。


 他の者には見えないが、ザンビエルの前にはすでにラーバーンに協力している霊団のメンバーがおり、今回の一件についても説明してくれている。



「やはり…な」



 ザンビエルはある程度の予測を立てていた。もしメラキに対抗できる人間がいるとすれば、それもまた【メラキ】でしかないのだ。これは明白な事実である。


 メラキはあくまでカテゴリーの名前である。その誰もが同じ目的を持っているわけではなく、自己の目的に応じてさまざまな組織に所属している。


 その人間がどれだけ賢人の遺産を使うかは各人の判断に委ねられている。これは実に危険なことだとフレイマンは思うのだが、メラキから言わせれば「俗人と一緒にするな」であった。


 彼らは代々賢人の思想を受け継いだ存在である。その慎重さと秘密主義はあまりに強固で、何世代にも渡って一般人として暮らしていた人間も多い。


 彼らはけっして私生活において力の濫用はしていない。それは【罪】だからだ。


 こうしてメラキが表舞台に出てくることは実に異例なのだ。今までの人類史でも数えるほどしかないだろう。それだけ今回の作戦は人類にとって大きなものといえる。


 そして、意味が大きければ大きいほど、作用が強ければ強いほど反作用も生まれる。つまりラーバーンに属さないメラキの中には、今度の作戦やラーバーンの存在そのものに反対する人間が出てくる可能性も否定できない。



「何かわかったか?」



 フレイマンが問うと、ザンビエルは半ば予想通りだったという顔をする。



「実際に助言したのは、汝らの言うところのエルダー・パワーよ」



 ダンタン・ロームの配備を進言したのはエルダー・パワーの術者であるという。彼女は優れた霊感でこちらの動きを予期したのだ。



「お前たちの仲間ではないのか?」


「いや、違う。エルダー・パワーは大きな意味では同胞であっても、我らメラキとは存在が異なる」



 エルダー・パワーは、あくまで紅虎丸が築いた武術を受け継いだ者たちである。純粋な意味で賢人の思想を受け継ぐメラキとは、まったく別種の存在なのだ。



「では、黒幕は他にいるということだな」



 メラキでなければ、今回の作戦を事前に察知するのは不可能である。


 となれば、配備を勧めたのはエルダー・パワーであっても、警告した何者かがいる。そしてそれは、ラーバーンに属さないメラキである可能性が非常に高い。



「その者はわかるか?」


「…こちらの網には引っかからぬ」



 ザンビエルの情報網ですら存在を捉えられない。それは相手が相当やり手であることを示していた。序列一位のザンビエルに対抗できるほどに。


 フレイマンはそれ以上、ザンビエルを追及しなかった。彼は、この世界にはどうしても逆らえないものがあることを本当によく知っていたからだ。



(【世界の意思】…か)



 それは星の意思ともいえるのかもしれない。すべては星が望み、人が応えた結果なのだ。


 言い換えれば【宿命の螺旋】


 人々の営み、使命は必ず絡み合うようにできている。避けられぬ出会い。挑まねばならない事柄には必ず宿命が絡んでいくのだ。それは人を縛ることもあり、加速させることもある巨大なベクトルなのだ。


 現在、偉大なる者がこの星を管理しているのだが、その管理の仕方は地上の人間には理解できない。ザンビエルでさえも知らないと言う。彼を助力する霊団でさえ本質的なことはわからないのだ。


 その星の意思を明確に理解できる者がどれだけいるのだろうか。

 そう、【彼】以外の人間には誰もわからないのだ。



「フレイマン、かまわないさ。簡単にいっても面白くはない」



 フレイマンとザンビエルのさらに背後には、彼らのすべてを治める主が存在していた。


 男は悪魔でもあり救世主。


 【ゼッカー・フランツェン】。


 この巨大戦艦ランバーロの主にしてラーバーンを統べる唯一無二の男。


 この組織のすべての人間は彼だけに従い、彼だけのために死ぬことができるのだ。それはバーンもメラキも同じである。唯一この点において両者は同じなのだ。ただ一人、悪魔であり主であるゼッカーを崇めるという意味では、両者ともに【弱者】なのだ。


 強者はただ一人で十分である。

 悪魔という存在がいればすべて事足りる。


 それ以外は【部品】であり【道具】にすぎない。すべては【悪魔の思想】を成し遂げるためだけの存在であり、代わりはいくらでも用意できるのだ。



「ですが、あまりオンギョウジたちの消耗が激しいと、次のステージに影響が出るかもしれません」


「問題はないさ。どのみち結果は決まっているのだからね。そうだろう、ザンビエル?」



 ゼッカーはザンビエルを見る。


 その目には信頼があった。なぜならば、ザンビエルはまったくためらわずに目的のために命を捧げることができることを知っているからだ。だからメラキなのだ。メラキとはそういう存在なのだ。



「はい。【預言】はいまだ変わりません」



 ザンビエルは一冊の書を持っていた。これこそが【預言の書】である。


 メラキには特有の能力が開発されていることが多い。ルイセ・コノは並外れたダイブ能力、序列二位のレイアースには優れた自動書記など、さまざまな能力を持っている。


 そして、その真骨頂がザンビエルの預言である。悪魔の出現をあらかじめ知り、ガネリアを出たゼッカーを翌日には悠々と出迎えたことからもわかるように、恐るべき能力なのだ。


 その力を使って、老人は未来を預言する。



「主よ、あなた様が世界を導く存在となるのは、すでに決まったこと。避けられぬものなのです」


「多くの人間は自らの愚かさを知ることでしょう。いや、知る者がいればまだよいでしょう。痛みを知っても変わらぬ人間たちの愚かさが、今の世を生み出したのですから」


「ああ主よ、どうか世界の浄化を。もはや炎によってでしか清められない者に、慈悲をお与えください」



 ザンビエルは悪魔を神の子のように扱う。まさしくそうなのだ。彼らからすればゼッカーこそ世界に選ばれた英雄である。それこそ【正しく星の意思を汲む者】なのだから。



「フレイマン、君が彼らを嫌う気持ちはわかるが、今は同志だ。わかるね」



 頭を垂れるザンビエルを見つめながら、ゼッカーはフレイマンを諭す。少なくともメラキはゼッカーにすべてを捧げている。それは信じるに値するものであると。


 だが、フレイマンはいささかも表情を変えずに、静かに言い返す。



「十分承知の上です。ただ、個人的な感情を隠すつもりはありません」


「やれやれ、君がその調子だから、無意味な確執が生まれるとは思わないのかな?」


「ここでは力がすべてです。それはあなたが決めたことでしょう」



 些細な確執など、このラーバーンにおいては何の障害にもならない。真に強き者たちに、仲良しごっこなど似合わないのだから。



「マルカイオやキースたちがメラキと仲良くしている様子を想像できますか? 無理なものは無理です」


「…まあ、それもそうだね」



 重要なのは思想に殉じる心である。そして、絶対的な力。それさえあればよいのだ。だからこそロキのような者たちが使えるのだから。



「コノはあとどれくらいで【アレ】を入手できるのかな?」



 話題を変えるように、ゼッカーがマレンに尋ねる。



「最低でも五十分は必要だと思います。ここから先はかなりデリケートな領域のようですし…もっとかかるかもしれません」



 マレンが申し訳なさそうに言うが、今まで人類がまったく到達できなかった領域なのだ。五十分強で終わるのならば誰もが早いと思うだろう。しかし、彼らにしてみれば時間こそが命である。五十分でも長く感じる。



「シールドを展開すればダマスカス軍も気がつきましょう。あれはたしかに強固ですが、何事も絶対はありません。それに各国騎士団もおります」



 フレイマンが気にしているのは、やはり世界各国から集められた騎士団である。まさに全世界の戦力が集まっているといっても過言ではないのだ。


 ダマスカスだけならば対応できる。だが、彼らが動き始めれば苦戦は免れない。ラーバーンの最大の弱点は人数が少ないことだ。同時に展開できる作戦には限りがある。



「ホウサンオーとガガーランドの準備は?」


「マユキとミユキの準備が整い次第出られます。ですが、無人機も出すとはいえ戦力的には難しいかと」



 ユニサンをアピュラトリスの地下に送り込んだ能力者二人は、すでに回復しつつある。しかも今度は内部ではなく外部なので、MGを含めた多くの兵器を同時に転送できるはずだ。



「あの二人なら、オブザバーンシリーズも乗りこなせるだろう。問題はないよ。タオの自信作だろう?」


「二機は調整が終わったばかりですので長時間の戦いには向きません。迅速に対応されれば、すべてがギリギリです」


「君は相変わらず心配性だな」



 ゼッカーはフレイマンの小姑のような台詞に微笑する。



「これでもあなたの副官ですので」



 その言葉は昔と変わらない。フレイマンにとってゼッカーはすべてなのだ。彼に尽くし、使われ、最期は身代わりになれればよいと本気で考えていた。


 このラーバーンでは強さこそが絶対ではあるが、悪魔への【信仰】こそもっとも重要視される。そして、フレイマンこそ、その最大の信奉者である。


 その証拠が、【彼の左側】にある。


 彼の頭部と上半身の左半分はすでにサイボーグ化されていた。これはガネリア脱出時に負ったもので、彼のために道を作った際の代償であった。文字通り、彼はゼッカーのために捨石になったのだ。


 だからこそ他のバーンとは違う扱いを許されているし、バーンたちもフレイマンには文句は言っても逆らわないのだ。



「第三ステージに入れば私も動こう。コノには時間を与えてあげたいからね」



 多少遅れが出ようが計画は何も変わらない。第三ステージに入ればゼッカーも己の役割を果たすつもりでいた。


 それは【顔見せ】。

 それによって世界中が悪魔という存在を知る良い機会になるだろう。



「道化は嫌いなのだがね」


「これも仕事です」


「仕事か。それもそうだ。個人的に会いたい人物もいる。たまには悪くない」



 ゼッカーの薄い金髪がなびく。この金髪こそ、この【血】こそが、彼という存在を色づけたのだ。その象徴には会っておかねばならない。



「会議場にはハーレム様はおられないようです」



 フレイマンが絶妙のタイミングでそっと語るのも、いつもと同じである。



「君は何が言いたいのかね?」


「いえ、積もる話もあろうかと思いまして」


「…彼とは十分語ったよ。もはや言葉は必要ではないだろう。時期が来れば会うこともあるだろうさ」



 ハーレム。その存在は悪魔になったゼッカーにとって唯一心が揺れ動く存在なのかもしれない。


 そして、悪魔を殺せるとすれば彼だけだと当人は思っているようだ。



(だが、おそらくハーレム様は殺せまい)



 フレイマンはハーレムをよく知っている。彼という存在はきっとゼッカーを殺さないだろう。哀しみを知るがゆえに。



「確認するが、会議場に紅虎はいるね?」


「はい、間違いなくおられます」


「ちゃんと動いてくれることを期待しようか。もし彼女が動かねば、ここで終わってしまうことになるかもしれないからね」



 紅虎には非常に重要な役割がある。おそらく当人もそのことを知っているのだろう。そうでなければあの自由人がこんな場所には来ない。


 そして、ゼッカーは椅子から立ち上がり、天に向かって両手を広げた。




「では、始めよう。【世界が分かれた日】の幕開けだ」




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