アンバーノート

 この香りを知っている。


 懐かしい匂いに気がついて目を開けると、見知らぬバーカウンターに一人で座っていた。


 薄暗い照明、柔らかなジャズが流れる店内を見回しているとカウンター越しにグラスが差し出される。首を傾げてバーテンダーを見るが、柔和な笑みで「あちらのお客様からです」とだけ返された。


 あちら、と指された場所には誰もいない。困った私は再度バーテンダーの彼を見遣るのだが、彼は何でもないように空のグラスを磨いている。


「照れ屋なだけですよ。戴いて下さい」


 彼はこちらを見ずにピカピカのグラスに息を吹きかけた。


 混乱していた思考は徐々に鈍くなる。私は仕事帰りにでもここに寄ったのだろうか。一人でお酒が飲みたくて。


「何か嫌なことでもありましたか」


 耳ざわりの良いバリトンが問いかける。「いえ、」答えかけて、口をつぐむ。そう問われると嫌なことがあったような気がしたのだ。


 マスカットが添えられた目の前のグラスには、深い海のような色をしたカクテルが照明を受けて波打つように煌めいている。何も分からずそれに手を伸ばすと、彼は楽しげに笑った。


「ああ、それはこう飲むんですよ」


 とぷん、とマスカットが海に沈む。ふわりと匂い立つこの香りを、確かに私は知っているのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る