第166話
―――王城内部、謁見の間。
その場にいたのは『鳥』近衛上級騎士。通路を示すように敷かれている赤い絨毯の脇に立ち、武器を手に微動だにしない。
その絨毯の上にいるのは八人の騎士だった。全員が玉座に向かい肩膝を床に付き、頭を垂れている。それは騎士として今まで培われてきた忠誠からか、それとも玉座の君への畏怖からか。
玉座は二つ。空になった国王専用の玉座にはもう誰も座っていないが、王妃の椅子にはミリアルテアが座っていた。もう顔を隠し続ける必要性もないだろうに、今日もまた変わらず藍色のヴェールを顔の前に掛けている。そしてその両隣に、オルキデと暁が立っている。オルキデの表情は浮かない。
この場に八人の騎士が揃った姿を、王妃はただ眺めていた。
「よく、来てくれたな」
その声は慈悲深い王妃の声。言葉への返事の代わりに、八人が更に頭を下げる。
「城下の話は其方等の耳にも届いていよう。二番街の崩落、三番街の植物、それから―――反乱軍。ヒューマンというのは団結する術に優れているとは聞いていたが、まさか私に歯向かう為に団結するとはな」
『私』と言った王妃の口調はとても淡々としている。この時に出る言葉は『我等』ではないのだ。その言葉の意味を、その場にいる者はただ何も言わず受け止めている。
「ヒトというのは面白い、そして恐ろしいものよ。私を弑して一時の解放は手に入ろう、それを幸と思うか不幸と思うかはそれぞれである。この国を傾かせて、そして下々の者は何が出来るというのか。大人しく我らが糧になれば、永遠の虚無の代わりに傷つくことも、思考することの必要さえ無くなるというのにな」
傲慢でしかないその言葉。
生きる者の心をなんだと思っているのか。これまで聡明で慈悲深いと思っていた王妃の姿が、目の前で崩れ去っていくのをソルビットは感じて、自分の拳を強く握った。―――違う。本当は以前から、その姿がくすんで見えていた時もある。それを分かってて、誤魔化して、ソルビットは今まで隊長職に甘んじていた。
その場にいた八人は騎士隊『花鳥風月』の隊長と副隊長。隊長が前列、副隊長が後列に並んでいる。その誰もが、同じ体勢のまま動かない。
「面を上げよ」
その号令に、八人が一斉に顔を上げる。ソルビットは顔が強張らないように耐えていることに、王妃は気付いているだろうか。
「『風』より面白い情報が入っておる。五番街の反乱軍にダーリャ、七番街の反乱軍にサジナイル・ウルワードが在籍しているとの事だ」
その言葉に、息を呑んだ者がいた。それは誰だったのか、ソルビットは知ることが出来ない。もしかしたら自分だけかも知れない。
その名前を持つものはかつてこの国の騎士、そして隊長として立った男達の名前だ。その存在は騎士の誉れ、憧れの的。その二人が反乱軍にいるという意味を、八人は分かっている。
そしてサジナイルは、ソルビットの呼び掛けに応えた。しかし、こんなに早く露呈するとは思ってなくて。
「それから、今―――アルギン・S=エステルが、こちらに向かっているという話だ」
「アルギンっ……!?」
その名前を聞いた瞬間、ソルビットの口から復唱するように声が出る。その名の持ち主は、ソルビットにとって何にも代えがたい大切なひと。
しかしソルビットが口を開いた瞬間、横から手が伸びてきた。その手はソルビットの頭を掴み、絨毯に頭を擦り付ける位置になるまで強く押し倒す。苦痛に声が漏れるが、それを押し殺した。それをした人物が誰かを分かっているからだ。
「……御前である」
最低限しか言わないその声は、ソルビットの腹違いの兄である『月』隊長フュンフのものだ。この場での許可無い発言が許されていないのは、ソルビットだって知っている。
その二人のやり取りを見ながら、王妃が手を軽く上げた。
「よい、フュンフ。今の事態になってまで発言を制限するつもりはないのでな」
「……はっ」
王妃からの許可が下りて漸く、フュンフの手が外れた。睨みつけてやりたい一心だったソルビットだが、再び体制を戻して王妃に視線を向ける。すると王妃は彼女にのみ座る事を許された玉座から立ち上がり、両の手で自身のヴェールをそっと上に上げた。
「何ぞ、私に言いたいことがある者もいよう。遠慮をするでない、今しか言えない者もいるであろう? ―――のう、フュンフ、ソルビット」
名指しされて、二人の顔色が変わる。
ヴェールの中に隠されていた顔は、落ち着いた品のある、隣に並ぶオルキデとそう歳の差を感じさせない女性の顔だ。その顔の持ち主が四十をとうに超えた年齢とは思えないほどに、若く、美しく瑞々しい。
その薄青色の双眸が、異母兄妹の二人を捉えている。淡い色に透けて見えるのは優しさではなく、冷たさ。
「……私、は」
「声が震えておるぞ、フュンフ? 冷徹と畏怖された其方でも、痛い所を突かれれば呻く事は出来ると見える。……先代と違ってな」
「……今、先代の話は関係ありません」
「本当に関係ないと言えるのか、フュンフよ。アルギンも其方も、行動原理は同じであった。あの者のため、どれだけ心を砕いた? 心の中にあの者を宿して、未だにその影を追ってはいないのか? もうこの世にいない者の首を求めて、幽鬼のように惑う其方等はとても良い余興であった。二度と返らぬ命の残骸である首に何の価値がある? 其方等は命の脆さ、儚さを知っている筈であるというのに、あの者はその範疇外であるとでも思っているのか? 滑稽を過ぎて愛らしくもあるよ、其方等の演目をまだ見ていたい。台本があるならば見せてほしいものだな、そのような無様な姿が演技でないと到底思えないのだから」
何を言われているか、ソルビットは最初は理解できなかった。その言葉を何度も何度も反芻して、噛み砕いて、それが漸く侮辱だと悟る。余興だと、芝居だと、ソルビットにとって大事に思っている人が二人も嘲られている。滑稽だと、無様だと、王妃はこれまでそう思っていたのだと知らされる。
「……そう、其方等が黙って裏で何やらアルギンと通じているのも知っているぞ。私が知らぬと思っているのなら、その甘い考えを即刻放棄せよ。所詮私の道は後にも先にも血に塗れた汚泥しか用意されておらぬでなぁ」
王妃が浮かべたのは、凄絶な笑みだった。まるで王妃の中の悪意を煮詰めて形作った、腐臭さえ漂いそうな、その笑顔に覚えた殺意を外に出さなかったのはソルビットだけではない。
「まあ、よい。このような回りくどい話は生来好かぬ。今からは有るか無いかの話をしようではないか?」
その笑顔のまま、王妃が呟く。緩慢な動作でヴェールを取り払い、結い上げていた髪から髪留めを取り、解き、その長い髪を自由にさせる。髪は王妃の背中半ばまで伸びていて、動きに合わせて波打つその色は深い海を思わせる濃紺。
八人の騎士が、その姿に息を呑む。
「今出ていくのなら追わぬ。私とて、背中を狙われるのは困るでな。―――どこかの誰かのように」
王妃の言葉に笑みを深めたのは、側に控える暁だけだった。
「勿論、此処を出て行った後の行動は問わぬ。無駄な足掻きで反乱軍に力を貸そうが、出来もしない国外逃亡へ思いを馳せようが、そんな些末事は私の与り知らぬところだ。そうそう、役職は暫くの間は空けておいてやろう。運が良ければ首だけでも帰ってくるかもしれぬでな? ……ふふふっ、あははははは!!」
その悪趣味を通り越した悪意しかない冗談に、フュンフの顔が憤怒に色づいた。歯を食いしばり、無言のままその場に立ち上がる。そしてその腕は先程頭を下げさせた手つきとは比べ物にならない優しさで、妹であるソルビットの腕を引いている。
ソルビットの顔は真っ青だった。唇を引き結び、吐き気でも堪えているかのような顔。フュンフは息を、吸って、吐いて、吸って、それから。
「……『花』の顔色が悪いので。無礼を承知で、下がらせていただきます」
ソルビットは何も言わなかった。ただ兄が頭を下げて、自分の腕を引くのをまるで悪夢としか思えない光景を眺めているかのような瞳で見ていた。
自分たちはこの王家に何を夢見た。何を賭けた。それで返礼がこれか。
二人は振り返りもしなかった。誰もそれを引き留めない。王妃はまだ笑っていた。
「……どうしたカリオンよ。其方のいつもの覇気は何処へ置いてきたのだ?」
王妃の興味は、次はカリオンに向かった。カリオンもまた顔を青くして、僅かに両手を震わせている。
「……殿下、私は……このような形であの二人の背中を見送る為に、騎士になったのではありません。私は、高潔を重んじ、この国と弱き者を守り、責務に伴う名誉を糧として……この国に忠を誓って参りました。私は、この状況に於いて……自らのすべきことを、見失いかけております」
「見失い『かけて』? これはまた随分煮え切らぬ言い方をするものだなぁ? 既に其方の中では答えは出ているのであろう? でなければ、忠義者の其方が私にそのような発言を聞かせるとは思えぬのだが」
焚き付けるような王妃の物言いに、耐えきれずカリオンが顔を逸らす。これまで仕えてきた筈の相手が豹変したような光景は、騎士として模範となっていた彼にとって到底耐えられるものではなかった。
忠を尽くし、報いて貰って、それで成り立つ関係だったはずだ。それは騎士の家系に生まれたカリオンにとって、当たり前に植え付けられた価値観。
根底が覆る恐怖。
信頼が、音を立てずに壊れていく。
それでも、最後の希望とばかりにカリオンは問いかけた。
「殿下。……もし私が、殿下の元を去ったなら。惜しむという気持ちは湧いてくださいますか」
その答えが応でも否でも、どちらでも答えは決まっていたのに。
そして王妃が口を開く。
「死ぬ事は許せても、惑う事は許さぬ。その問いに私が答える事は無い」
何を、期待したのだろう。
カリオンはそう思うと同時、その場から立ち上がった。『鳥』副隊長のその背に手を伸ばしかけて、そして、手を引っ込める。
「……今までの感謝は、してもし足りません。ですが、お許しください。私の願いは、望みは、もうこの場所で叶う事はない」
そうして、カリオンまでいなくなった謁見の間。それに動揺し、控えていた上級騎士が動いた。その半数は、カリオンの背中を追っていく。
人数が減った謁見の間で、もう誰も動かなくなってから、王妃が改めてその場に居る面々を見渡す。
「残った者は余程の忠義者だの」
隊長格が三人減るのは予想がついていた。しかしそれきり全員が『こちら側』とは思っていなかった様子の王妃は、残った五人を見て嘲るように笑う。血濡れた覇道と分かっていて尚、否、分かっているからこそ、五人が残っている。
「ベルベグ・コンディ。エイラス・エラファウス。ミシェサー・ミシャミック」
王妃が三人の名を呼んだ。それは『鳥』『月』『花』の副隊長。その三人は立ち上がり、背筋を伸ばして次の言葉を待つ。
「隊を纏めよ。『こちら側』でない者は捨て置け、どうなろうが、こちらに歯向かわない限り手を出すな」
三人が敬礼する。ただ一人、ベルベグだけが痛々しい表情をしていたが、王妃はそれには興味を示さなかった。
「して、ヴァリン」
次いで、王妃が『風』副隊長アールヴァリン・R・アルセンを呼ぶ。その愛称には親愛の情が垣間見える。
二人は義理の親子だ。しかし二人の間に今感じられる空気は、親子の和やかな空気ではなく。
「はっ」
「其方は唯一残った隊長格だ。其方が全軍勢の指揮を取れ。責任は重大だが―――抜かるな」
「仰せの儘に」
髪の全てを後ろに撫でつけた濃紺の髪は、頭を垂れた所で崩れはしなかった。国王の若かりし頃によく似ていると評判の顔は、嘗て副隊長であった頃の柔らかな表情を消して冷たい色を宿している。
その色は隊長としての重圧のせいだったろうか。次期国王と目されていた期待からだろうか。それとも、それから解き放たれたからだろうか。もしくは。
自らの腹から産んだ訳では無いアールヴァリンだが、築いた時間は短くない。二人はそれきり、言葉を交わすことも無く。
「では行け。反逆の徒が僅かに抱いた、些末な希望ごと―――踏み躙れ」
無慈悲な王妃の声が、静かに響いた。
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