★35★ ダンスで踏むならステップを。


 革靴の爪先を女性物の小さな爪先が踏みつける。思わず小さく溜息を吐きそうになるが、すんでのところで押し留めた。


 大した痛みはないものの、それでも一曲踊り終わるまでに五回も踏みつけられれば充分だろう。テンポの速い曲であればそれも無理はないが、いま踊っていたものはゆったりした曲調のものでそう難しいステップでもない。


 それをこうも立て続けに失敗するのであれば、余程俺とのダンスに乗り気でないか、もう嫌がらせの域だと思う。その証拠に目の前のアリシアはさっきからずっと目を合わせないだけでなく、どこかオドオドとしている。


 本人も自覚はあるのか、爪先を踏みつけるたびに一瞬だけ気まずそうな視線を寄越すのだ。そのことに苛立つような狭量さは流石にないのだが。


 ルシアに連れて来られたときはうっすらとその瞳に泣いた形跡をみたが、踊っているうちに少しずつ落ち着きを取り戻したのは良い傾向だろうか。


 しかしどちらにしても三曲も続けて踊ればそろそろ足が限界だ。次に曲が途切れたら断りを入れてルシアを探しに行こうと思った。


「あっ……」


 何よりこれで十一回目――などと、考えているところで、俺もダンスに集中してはいないのだろう。アリシアがまたオドオドとこちらを見るものだから、これ以上は一緒に踊っても彼女を怯えさせるだけではないのか……そう思った時だった。


 アリシアの瞳の中に、怯え以外の色が浮かんでいることに気付いたのは。それは遠い記憶の中で彼女と過ごしたあの夏に、何度か見た色と酷似していた。その色に気付けたことで、内心の不満は簡単に霧散する。


 ――忘れていた、アリシアは――。


「……アリーは心配ごとがすぐに顔に出るな……」


 真冬のダンスホールの真ん中で、記憶はあの夏に遡る。無意識に無邪気で許された日差しの下に心が帰ったが、直後に感じた強い視線にふと現実に引き戻された。


 目の前には、あの夏とは見違えたアリシアがいて。互いに心の籠もらないダンスを踊っている。それなのに、どうして今さらあんな古い記憶を自分の脳が持ち出したのだか――そう滑稽にすら思って、視線を受け止めながらターンをしようとした、が。


「あなた……どうして、どこでその呼び名を――?」


 訝しむような声音と記憶の糸を手繰ろうとする眼差しに、知らず口から言葉が零れていたのだと気付いたが、もう遅い。


 それまでの親しくもない他人の距離感が開いていた身体と身体の隙間が、グッと近くなったことで足許の感覚が狂う。みっともないことに、急に重心がずれたことで上手くターンを捌けず後ろにたたらを踏みかけた。


 ――膝が抜ける……そう思った時、頭の片隅で“カチリ”と何か金属製の金具が噛み合わさるような異音を聞いた気がして、咄嗟に足に力が入る。


 お陰で無様に倒れることは避けられたが、噛み合ったのに掛け違っている、そんな説明の付かない居心地の悪さを感じて背筋が戦慄わなないた。ただ、まだその時ではないとでもいうかのような違和感に気付いたのは俺だけなのか、アリシアはジッとこちらの顔を見つめてくる。


 目の前で眉根を寄せて考え込む素振りを見せた彼女が何か思い出すのではと心配になる反面、何故思い出されたくないのかが自分でも理解できなかった。かつては、あんなに思い出されたいと――……思ったのだろうか?


 靄がかかったように混濁する思考に振り回されて、関係のない場面でアリシアをターンさせかかり、慌てて押し留める。その瞳が記憶の中の夏の日差しに触れてしまう前に、ダンスを切り上げてしまおうかと逡巡した。


 けれどまだ曲の終わらないうちに輪から離れることはマナーに反する。


 だからだろう。結局、そんなよく分からない内面の感情を持て余した口を吐いて出たのは「リンクスに連れて来られる前に何かあったのか?」という当たり障りのなさそうな話題だったのだが、その内容に表情を強ばらせたアリシアは、ほんの少し悩んでいるようだった。


 しかし次の瞬間彼女の口から出てきた話の内容に、呆れると同時に耳を疑う。以前から極度のお人好し馬鹿だとは確信していたが、加えて無謀な馬鹿だったことに怒りすら覚える。


「そもそも……馬鹿なのか君は。父親の事業のことで娘である君を呼び出すことなどまずあり得ない。何故そんな怪しい男について行くんだ」


 そしてそれは目の前にいるアリシアにしても同じことだった。彼女も昔からそうだ。自分が他者に悪意を持って接しなければ、他者からの悪意に曝されることがないと思い込んでいる。……人間ほど理由なく他者を罵倒し、傷つける生き物など他にいないというのに。


 苛立ったせいで僅かにステップが乱れてアリシアを引っ張る形になり、そのことに怯えたアリシアの表情が強張ったが、幸いなことにこれ以上彼女の中で下がるような評価もない。


 あの馬鹿がアリシアを預けていった言葉通りに仕事に戻っているのならば構わない。普通は現場に戻ったりはしないだろう。けれどあのお人好しは普通の令嬢と物の考え方がまるで違うから、もしも現場に戻って自分で殴り倒した相手の介抱していたりしたら危険だ。


「そんな話を聞いては申し訳ないが、リンクスを探して説教をしたいのでこの曲で失礼する。君はこの後も誰か知り合いと行動を共にして、決して一人にはならないように。良いな?」


 ――こういう時に硬質な自分の声が嫌になる。迂闊な行動ではあったものの、恐ろしい目にあった女性にかける言葉でもなければ声音でもない。目の前でアリシアがアーモンド型の目を悲しげに伏せて頷いた。あの頃はいつでも真っ直ぐに映してくれたその瞳に、もう自分が映る資格はない。


 そんなことを考えて重く沈んだ気分になった俺の背後から「ずっと同じ相手とばかり踊っていたら、そっちの彼女のファン達にやっかまれるわよ。どうかしら、ここはアタシとパートナーの交換しない?」と聞き慣れた声がかけられた。


 驚きと同時に曲調に合わせてターンした先にいた声の主は、やはりラシードだった。一緒に踊っているパートナーの顔は見えないが、その長身に見合わない小柄な……というか、ラシードの身長からすれば同性の俺でも小柄なことになるが、ともかく身長の釣り合わない女子生徒だ。


 声をかけられた時は、てっきりルシアと一緒だと思っていたので少々意外だったのと同時に、やはりこの会場内を探さなければならないのかという事実に溜息を吐きかけた。


 お相手の女子生徒は緑と青のグラデーションが美しい大人しめなドレスに、伏せた顔はよく見えないが、緩く編み込んだ金色の髪が僅かに覗く。女性の顔を覗き込むような無粋な真似は出来ないので、俺は少し考えてから首を横に振る。


 別に気まずい思いをしたままアリシアと踊っていたいわけでもないが、それでも見ず知らずの女性と“パートナー交換”という砕けた付き合いが自分に勤まるとも思えなかったからだ。ラシードの相手の女子生徒にしたところで、折角の華やかな夜に俺のような人間と踊るのは気の毒だろう。


 俺としてはこのままダンスの輪から抜け出して、アリシアを誰か別の男子生徒に任せるつもりでいたのだから構わないが、ラシードの相手の女子生徒は競争率の高い中をどうにか勝ち抜いたのだろうから尚更だ。


「いや、悪いが俺達はこのまま輪を抜ける。ラシードもあまり滅多な発言を女性の前でするものではないぞ。お前と踊りたかっただろう彼女に対して失礼だ」


 その発言に他意はなかったにも関わらず、一緒にターンをしたアリシアは目を丸くするし、ラシードに至っては「やだ、男前ねぇ」と笑い出すものだから、さっぱり訳が分からない。少し釈然としいないまま「何かおかしなことを言っただろうか?」とラシードに訊ねれば、ラシードは「そうねぇ……この子の顔をよーく見れば何か分かるかもしれないわぁ」とパートナーを胸元から離す。


 その唇から「ひえぇ!」という淑女らしからぬ間の抜けた声が上がるのを聞いた俺は、思わずその顔を覗き込んでしまった。直後に慌てて口を噤んだ女子生徒がラシードの胸元に顔を隠すように俯くが、もう正体がバレているというのにそうしたところで意味がないだろう。


「――ねぇ、それでどうするの? アンタが交換しないなら、アタシ達は別のところにいくけど」


 抱き留められるというよりは、しがみつくと表現した方が良さそうなその姿に、思わず苦笑が漏れた。何よりダンスのレベルが違うのか、踊っているのはほぼラシードで、しがみついているその足許はラシードの爪先を踏まないことにのみ注意をしているようだ。


「そうだな……そのままではどちらもあまり楽しめそうもないし、こちらはもう充分楽しんだ。パートナーの“交換”ではなく“交代”にしよう」


 ラシードが「それじゃ、そっちの彼女もそれで良いわね?」と微笑み、腕の中でアリシアがこちらを見上げてくるのに合わせて頷く。曲調がゆったりとしたものに代わるのと同時に両者のドレスが翻り、互いのパートナーが入れ代わる。


 それまでの華やかな曲が途切れて新たに流れる曲調は、ダンスに不慣れな腕の中の人物に相応しい、ゆるりとほどける二拍子のパヴァーヌ。

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